ブトリント

Butrint

  • アルバニア
  • 登録年:1992年、1999年重大な変更、2007年軽微な変更
  • 登録基準:文化遺産(iii)
  • 資産面積:8,591ha
世界遺産「ブトリント」、テアトルム跡
世界遺産「ブトリント」、テアトルム跡
世界遺産「ブトリント」、初期キリスト教のバシリカ式教会堂
世界遺産「ブトリント」、初期キリスト教のバシリカ式教会堂
世界遺産「ブトリント」、アリ・パシャ城
世界遺産「ブトリント」、アリ・パシャ城

■世界遺産概要

先史時代からギリシア、ローマ帝国、ビザンツ帝国、ヴェネツィア共和国、オスマン帝国まで、古代から18世紀までの歴史を留めるアルバニア南部の港湾都市遺跡。なお、この遺産は1999年、2007年に資産の面積を拡大している。また、1997年にアルバニア全域を襲ったネズミ講事件の混乱で状況が悪化したことから危機遺産リストに登録され、2005年に解除されている。

○資産の歴史

ブトリント湖とヴィヴァリ海峡に挟まれた湖畔にたたずむ地域で、人類の居住の証拠は紀元前50,000年ほどまでさかのぼる。シェン・ディミトリとシャッラでは中期~後期旧石器時代の5万~1万年ほど前の遺物が出土している。これらはもともと海岸沿いの遺跡だが、海岸線の後退によって現在は2kmほど内陸に移動している。青銅器時代、紀元前2000~前500年ほどの遺跡にはシェン・ディミトリやカリヴォがある。

紀元前7世紀にはブトリント湖畔に築かれたアクロポリスを中心に城壁で囲ったギリシア植民都市ブトロスが建設された。ブトロスはエーゲ海沿いに展開するギリシア都市群と南イタリアのギリシア勢力圏であるマグナ・グラエキアの間に位置し、アドリア海の主要港として発展した。

紀元前44年に共和政ローマの支配下に入ると湿地が開拓・拡張され、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの時代に大々的に開発されてフォルム(公共広場)やテアトルム(ローマ劇場)、水道橋、公衆浴場、アスクレピオス神殿、ニンファエウム(ニンフの泉)をはじめ数々の大型施設が建設された。313年のミラノ勅令でキリスト教が公認されると徐々にキリスト教が浸透し、バシリカ(集会所)や洗礼堂が築かれた。

476年に西ローマ帝国が滅亡するとビザンツ帝国(東ローマ帝国)の支配下に入り、司教座が置かれて司教都市となって大聖堂が建設された。7世紀にはスラヴ人が入植してキリスト教とスラヴ文化の発信地となったが、7~9世紀の間、ビザンツ帝国と第1次ブルガリア帝国の間で領有が争われ、所属は行き来していたようだ。この時代はビザンツ美術が栄えた時代でもあり、モザイク(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)やフレスコ(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)で彩られたビザンツ様式の教会堂や洗礼堂が築かれた。

1202~04年の第4回十字軍によってビザンツ帝国は一時消滅するが、ブトリントはこのときできたエピロス専制侯国の所属となり、その後もビザンツ帝国や南イタリアのナポリ・アンジュー朝、ヴェネツィア共和国など宗主国を次々と替えた。ヴェネツィアはオスマン帝国との間でたびたび戦争を起こし、その影響でブトリントは荒廃した。1797年のカンポ・フォルミオ条約でヴェネツィアからナポレオンのフランス帝国に割譲され、1799年にはオスマン帝国によって征服された。ヴェネツィアやオスマン帝国の下では三角要塞やヴェネツィア城、アリ・パシャ城をはじめ城や城壁といった防衛システムが整備された。

しかしながら19世紀に入ると湖が拡大して沼や湿地が広がり、町は放棄されて植物に侵食された。おかげで人為的な破壊や新たな開発から免れ、自然と調和した美しい文化的景観が残された。

○資産の内容

世界遺産の資産にはブトリント湖、ヴィヴァリ海峡、海岸沿いの一帯が地域で登録されている。

カリヴォはブトリント湖畔の高さ81mの丘の上に立つ青銅器時代以来の要塞遺跡で、塔のある大きな多角形の城壁が見られる。

ディアポリトはブトリント湖畔のローマ遺跡で、ヴィラ(別荘)やローマン・バス(ローマ浴場)といった都市遺跡や、ビザンツ帝国時代の初期キリスト教の教会堂が発掘されている。周囲にはヴローラとニコポリス間を結ぶローマ街道跡がある。

ブトリント湖とヴィヴァリ海峡を結ぶエリアには数多くの遺跡が残されており、城壁については4〜16世紀のものが混在している。

シェン・デリはローマ時代の教会堂を含む集落跡で、一方、近郊のシェン・ディミトリやザーレは旧石器時代の古代遺跡で埋葬跡などが残されている。

三角要塞とヴェネツィア城は中世~近世のナポリ・アンジュー朝、ヴェネツィア共和国時代の防衛施設。アリ・パシャ城はヴェネツィア時代に建設され、1798年にフランス軍によって破壊された後、19世紀はじめにオスマン帝国によって3基の塔を持つ現在の形に再建された。

■構成資産

○ブトリント

■顕著な普遍的価値

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

ブトリントは地中海の歴史の縮図であり、海や湖と調和した都市遺跡は古代・中世のヨーロッパ都市の特徴を代表している。旧石器時代・青銅器時代の遺跡から、ギリシア建築、ローマ建築、初期キリスト教建築、ビザンツ建築、オスマン建築まで時代時代の様式を残しており、モザイク芸術をはじめ質の高い文化を伝えている。また、城や要塞についてもギリシア時代からオスマン帝国の時代までさまざまな段階の証拠を伝えている。

■完全性

資産は顕著な普遍的価値を表現する十分な領域を持ち、眠っているあるいは立っている考古学的遺構・歴史的建築はほぼ無傷で保たれている。文化財として保護されているのはもちろん、周辺のブトリント湿地は2002年にラムサール条約登録地となり、2005年にはブトリント国立公園に指定され、保護されている。開発圧力は低いが、水の浸食や周辺都市や道路の拡大には若干の懸念が残る。

なお、この世界遺産はアルバニア争乱の影響で1997~2005年まで危機遺産リストに搭載されていた。

■真正性

遺跡はオスマン帝国の時代に放棄され、その後ほぼ手付かずとなったため古代・中世の遺構がよく保存されており、地中海の文化・文明の希有な証拠となっている。1924年以降に行われた修復や保全作業のレベルは高く、その後は1964年のヴェネツィア憲章(建設当時の形状・デザイン・工法・素材の尊重等、建造物や遺跡の保存・修復の方針を示した憲章)に基づいて適切に行われている。

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