イギリスの首都ロンドンに位置するロンドン塔は正式名称を「女王陛下の王宮にして城塞 "Her Majesty's Royal Palace and Fortress"」というように、王のための宮殿でありロンドンを守るための城塞だった。二重の城壁と21の塔を持つ要塞宮殿で、ノルマン建築の最高峰といわれている。
ロンドンに大きな町が築かれたのは2,000年前、1世紀といわれる。ローマ帝国がグレートブリテン島に築いた植民都市ロンディニウムにさかのぼり、10世紀までに島で最大規模の都市に成長した。11世紀にエドワード懺悔王がウェストミンスター寺院と宮殿(世界遺産)を建設してイングランド王国の中心となった。
1066年、エドワード懺悔王の跡を継ぎ、フランス北部のノルマン公国の領主である、つまりフランス人でありノルマン人であるウィリアム1世がウェストミンスター寺院(世界遺産)で戴冠してイングランド王位に就いた。ノルマン人による支配=ノルマン・コンクェストだ。ウィリアム1世は外様で政敵が多く、また首都ロンドンが北海や大西洋に通じる重要な港を持つにもかかわらず軍事的に脆弱だったこともあり、ローマ帝国時代の城壁やテムズ川などの地形を活かして都の強化に乗り出した。
こうしてロンドンの軍事拠点として、また王が暮らす王宮として建設された要塞宮殿がホワイト・タワーだ。当時のイギリスの城砦は木や土やレンガで築かれていたが、ウィリアム1世は各地から巨大な石を輸入して積み上げた。たとえば基部で厚さ4.6mにもなる壁はイギリスのケント州やフランスのノルマンディー地方から運ばれた石灰岩の切石が用いられている。こうした切石による組積造(建材を積み上げた構造)の無骨だが重厚・堅固な建築はノルマン様式の典型で、以後の時代の軍事建築のモデルとされ、チェスター城、ロチェスター城、ヘディンガム城、ノリッジ城、カリスブルック城などで模倣され、あるいは参考とされた。ホワイト・タワーは高さ27mを誇り、ロンドンでもっとも高い建築であったことからロンドン塔と呼ばれていたが、ヘンリー3世が13世紀に白漆喰の装飾を施して以来、この名が付いた。
ロンドン塔は特に13~14世紀、ヘンリー3世やエドワード1世、リチャード2世らによって拡張と増改築が進み、水門塔であるブラディ・タワーや側防塔であるビーチャム・タワー、エントランスを守るミドル・タワーやバイワード・タワー、ヘンリー6世が幽閉され拷問室としても知られるウェイクフィールド・タワー、テムズ川から囚人を運び入れた反逆者の門=セント・トマス・タワーをはじめ数々の塔が建てられた。おおよそこの頃、二重の城壁と塔が立ち並ぶ、現在見られるロンドン塔が完成した。
要塞内には武器庫・宝物庫・造幣局・天文台・動物園などが設置され、ジェームズ1世(スコットランド王としてはジェームズ6世)の治世の1600年前後までは実際に王宮としても機能していた。王室宝物館であるジュエル・ハウスにはイングランド王冠「インペリアル・ステート・クラウン」や世界で2番目に大きいダイヤモンド「偉大なアフリカの星(カリナンI)」が収められており、堅牢なロンドン塔に対する信頼の高さがうかがえる。
また、政治犯を収容する刑務所としても使用され、バラ戦争に破れたヘンリー6世や弱冠12歳で王位を継いだエドワード5世、ヘンリー8世の王妃だったアン・ブーリン、史上初の女王ジェーン・グレイらが幽閉され、処刑された。重罪人はロンドン塔の北にあるタワー・ヒルで公開処刑されたが、王族や貴族は城内のタワー・グリーンで処刑され、隣接するセント・ピーター・アド・ヴィンキュラ礼拝堂に葬られた。タワー・グリーンにはアン・ブーリンやキャサリン・ハワード、ジェーン・グレイらが斬首された場所がモニュメントとなって残されている。彼らの幽霊の目撃情報も多く、ホーンテッド・マンション(幽霊屋敷)としても知られている。
世界遺産の資産はロンドン塔の全域で、全体は大きく3エリア、外壁の外の堀、内壁と外壁の間のアウター・ウォード、内壁の内側のインナー・ウォードに分けられる(ホワイト・タワーと周辺の庭はインナーモスト・ウォードとも呼ばれる)。敷地にはホワイト・タワーを中心に、ブラディ、ビーチャム、ベル、ボウヤー、ブリック、ブロード・アロー、バイワード、コンスタブル、クレイドル、デヴェリン、デヴロー、フリント、ランソーン、マーティン、ミドル、セント・トマス、ソルト、ウェイクフィールド、ワードローブ、ウェルという計21基の塔が立っている。
この中でもっとも重要な塔が天守閣に相当するホワイト・タワーで、もともと「ロンドン塔」はホワイト・タワーを示していた。ウィリアム1世が1066~87年頃に約20年を掛けて完成させたノルマン様式の王宮兼城塞で、平面35.9×32.6m・高さ27mを誇る。もともと地上2階・地下1階だったが、15世紀までに増築されて地上3階・地下1階となり、国王は最上階で暮らしていた。頂部に掲げられた4基の小塔は見張り兼砲台で、1基には王立天文台が設置されていた。南東部分は半円形に張り出しており、内部に収められているセント・ジョン礼拝堂(福音記者ヨハネ礼拝堂)のアプス(後陣)を形成している。礼拝堂のステンドグラスはヘンリー3世が13世紀に改修したもので、同じ頃、全体が白漆喰で装飾されてホワイト・タワーと呼ばれるようになった。
ミドル・タワーとバイワード・タワーはロンドン塔の正規のエントランスで、前者は堀の外、後者は堀の内側に設置され、両者は石橋で結ばれている。この堀はかつてテムズ川から引かれた水で満たされた水堀だった。いずれも13世紀にヘンリー3世が建設し、14世紀にリチャード2世によって改築されている。
セント・トマス・タワーは外壁南面中央に設置された塔で、13世紀にヘンリー3世によって設置され、カンタベリー大司教トマス・ベケットにちなんで命名された。13世紀にエドワード1世によって下部に反逆者の門(トレイターズ・ゲート)が設置された。囚人はこの水門から運び込まれ、「この門をくぐった者は二度と出ることができない」とささやかれたという。塔にはエドワード1世の寝室と伝わる部屋があり、王家の宿泊施設として使用されていた。
ブラディ・タワーはセント・トマス・タワーの内側、内壁に立つ塔で、やはりヘンリー3世によって建設され、後に上階が増築された。もともとガーデン・タワーと呼ばれていたが、1585年にノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーが自殺(あるいは変死)してから「血塗られた塔」の名が付いたと伝えられる。エドワード5世とヨーク公リチャードの「塔の中の王子たち」が殺害されたと伝わる場所でもある。
ウェイクフィールド・タワーはブラディ・タワーと隣接する内壁南面の塔で、13世紀はじめにヘンリー3世が宮殿として建設した。実際ヘンリー3世ははここで暮らしていたが、17世紀のクロムウェルの攻撃で大きく損傷した。15世紀にヘンリー6世が幽閉され亡くなった場所とされ、その死を悼んで礼拝堂が設置されている。同じく内壁南面のランソーン・タワーは王妃のための宮殿として整備されたものだ。
ビーチャム・タワーは13世紀にエドワード1世によって建てられた内壁西面の側防塔で、長いあいだ監獄として使用されていた。アン・ブーリンやキャサリン・ハワードらが幽閉された場所で、囚人たちが壁に刻んだ文字やレリーフが残されている。
クイーンズ・ハウスは16世紀にヘンリー8世がアン・ブーリンのために1530年頃に建設したハーフティンバー(木造と石造を組み合わせた半木骨造建築)の宮殿で、アン・ブーリンや娘のエリザベス1世が暮らしていた。しかし、アン・ブーリンはまもなくその正面の庭であるタワー・グリーンで処刑された。ヘンリー8世はタワー・グリーンの北にセント・ピーター・アド・ヴィンキュラ礼拝堂を建設して処刑した貴族らを埋葬した。
ジュエル・ハウスは1378年頃、エドワード3世が建設した王室宝物館で、それまでウェストミンスター寺院(世界遺産)に保管されていた英国王冠インペリアル・ステート・クラウンが収められた。それ以外にも聖エドワード王冠、ダイヤモンド・カリナンIといった王室のコレクションが展示されている。
11世紀終わりに建設されたロンドン塔はウィリアム1世の時代からイングランド王室の象徴的なモニュメントであると同時に傑出した城塞で、チェスター城、ロチェスター城、ヘディンガム城、ノリッジ城、カリスブルック城など多くの城や砦が石造建築のモデルとした。
ホワイト・タワーは11世紀後半のノルマン建築の卓越した例である。ロンドン塔の建造物群は中世の軍事建築の歴史を証言する重要な資料である。
堀と城壁に囲まれたノルマン以降の主要な建造物はすべて資産に含まれており、法的に保護されている。資産そのものはよく保全されており脅威はほとんどないが、周辺は開発が進んでおり、ロンドン塔を含む景観の悪化が懸念される。テムズ川岸にあるという位置とランドマークとしての視覚的優位性、大きさや高さが与える印象はロンドン塔の重要な要素であり、これらのいくらかはシティ・オブ・ロンドン東部の新しいビルによって毀損されており、資産内外の景観に悪影響を及ぼしている。首都を守る要塞であり玄関口でもあるロンドン塔のテムズ川とロンドン市両者に対する直接的で広い関係や長い視野は不適切な開発によって脅かされつづけている。こうした開発は都市の距離感やスカイラインに悪影響を与える可能性がある。
ノルマン朝の権力の象徴としてのホワイト・タワーの役割は、その巨大な構造で明らかである。ノルマン建築の革新的で傑出した例であり、11世紀後半のヨーロッパでもっとも保存状態のよい要塞宮殿である。13~14世紀、ヘンリー3世とエドワード1世の増改築によってロンドン塔は二重の城壁を持つ複合的な要塞となったが、当時の建造物はほとんど残されている。かつては軍や銀行・武器庫・造幣局・宝物庫・天文台・動物園など王室のさまざまな機関や施設が設置され、その発展を促した。建物と機関との関係はもはや明らかではないが、伝統や文書資料・関連する物品、たとえば王室の武器庫に収蔵されている鎧や武器によって示されている。ロンドン塔はまた、ヨーロッパ史における重要なイベントが起きた場所であり、絞首台や反逆者の門・地下牢といったドラマの舞台も維持されている。
世界遺産登録時点でその形状・デザイン・素材は無傷でわかりやすく、アントニー・サルヴィンが19世紀に行った要塞の再中世化のための大規模な修復も許容できる。ロンドン塔はもはや要塞として使用されていないが、何世紀にもわたる使用と機能の物語を明確に伝えており、進化をもたらした伝統と技術を実証しつづけている。
ただ、ロンドン市との戦略的立地と歴史的関係を反映するロンドン塔はその環境と立地を尊重しない開発に対して脆弱である。