3,000年の歴史を誇るシチリア島の古都シラクサと、紀元前13~前7世紀にさかのぼる5,000を超える墓を有するパンタリカのネクロポリス(死者の町)からなる世界遺産。構成資産はシラクサの主要地区と、オルティジャ島、パンタリカのネクロポリスの3件。
シラクサには紀元前6000年ほどまでさかのぼる新石器時代の遺跡が発見されている。シラクサの北西15kmほどに位置するパンタリカでは紀元前13世紀ほどの遺跡が発掘されており、ミケーネ文明を引き継ぐシケル人が石造文明や鉄器を持ち込んだものと考えられている。一例が紀元前12~前11世紀に築かれたアナクトロンの王宮跡だ。紀元前13~前7世紀の間、パンタリカはネクロポリスとなって約5,000もの墓が残された。ギリシア人が入植を開始すると石切場に替わり、町やネクロポリスとしては使用されなくなった。
紀元前743年頃、ギリシアのコリントスの住人がシラクサのオルティジャ島に入植し、ナクソスに次ぐ第2のギリシア植民都市シュラクサイを建設する。シュラクサイはマグナ・グラエキア(南イタリアのギリシア勢力圏)の中心都市に発展し、シチリア本島側に新市街ネアポリスを建設すると人口は30万人に達した。哲学者キケロはシュラクサイを「もっとも美しく偉大なギリシア都市」と称賛している。この時代にアポロン神殿やアテナ神殿といった数々のドーリア式神殿やテアトロン(ギリシア劇場)などの劇場が築かれている。
紀元前4世紀に僭主ディオニシウス1世がカルタゴを破ってシチリア全域を支配。しかし、第2次ポエニ戦争(紀元前218~前201年、ハンニバル戦争)の包囲戦に敗れて共和政ローマのシチリア属州に組み込まれ、州都シラクサとなった。砂の上に図を描いて考え込んでいるアルキメデスをローマ兵が殺害したという有名なエピソードはシラクサ包囲戦での出来事だ。町を取り囲むディオニシウスの城壁はディオニシウス1世によって築かれたもので、ネアポリス考古学公園にあるアルキメデスの墓に彼の棺が収められていると伝わるが確証はない。
ローマ時代にシラクサは帝国の主要港のひとつとなり、海運で繁栄した。キリスト教が弾圧されると信者たちはカタコンベ(地下墓地)に集い、その教えを学んで宣教した。4世紀にローマ帝国がキリスト教を解禁し、やがて国教化するとバシリカ(集会所)や神殿が教会堂に改修された。一例が、アテナ神殿を改築したシラクサ大聖堂やバシリカを転用したサン・ジョヴァンネッロ教会だ。ローマ時代の遺跡には他にアンフィテアトルム(円形闘技場)や各種カタコンベがある。
ローマ帝国以降はヴァンダル王国、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の支配を受け、9世紀にはイスラム王朝であるアグラブ朝の版図に入った(シチリア首長国)。ローマ・ビザンツ帝国時代にキリスト教が浸透し、数々の初期キリスト教の教会堂が築かれたが、シチリア首長国の時代にこれらはイスラム教の礼拝堂であるモスクに改修された。
11世紀後半に北ヨーロッパから移住してきたノルマン人がシチリア島に侵入。1085年にイスラム教勢力を駆逐して大聖堂や教会堂を回復した。ノルマン人のルッジェーロ2世が1130年にシチリア王国を建国するが、1194年に王位は神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の手に移ってホーエンシュタウフェン家の支配を受けた。この時代のノルマン様式(ノルマン文化のロマネスク様式)の建物にはサン・ニコロ・アイ・コルダリ教会やサン・マルティーノ教会、マニアーチェ城などがある。
13世紀にシチリア王国はフランス・アンジュー家、次いでアラゴン王国の支配下に入り、15世紀にスペイン王国が成立するとハプスブルク家やスペイン・ブルボン家の支配を受けた。この頃、ナポリ王国と統合され、両シチリア王国が成立している。この時代の建物にはサン・クリストフォロ教会やランツァ・ブッケリ宮殿、ミリアッチョ宮殿などがある。
シラクサは1542年と1693年に壊滅的な地震に襲われ、カターニア(世界遺産)やヴァル・ディ・ノートの町々(世界遺産)と同様に多くの建物がバロック様式で建て直された。サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会や大司教宮殿(アルチヴェスコヴィレ宮殿)、ヴェルメキシオ宮殿などが一例だ。シラクサはこうした地震と地中海貿易の衰退、18~19世紀のペストやコレラの流行・内乱などで繁栄を終えた。
世界遺産の構成資産は、海岸からおよそ15kmの位置にある「パンタリカのネクロポリス」と、海岸沿いに展開するシラクサの「エピポラエ、アクラディーナ、テュケーとネアポリス、エウリアロ城、ディオニュシオス城塞とスカラ・グレカ地域」、オルティジャ島の「オルティジャ」の3件。シラクサについて、オルティジャ島はほぼ全域が登録されており、市街については市街を取り囲む丘に立つディオニュシオスの城壁とその周辺が登録されている。ただ、市街でもサンタ・ルチア広場やヨハネ・パウロ2世公園の周辺、サン・ジョヴァンニのカタコンベ、ネアポリス考古学公園などいくつかの例外が存在する。
パンタリカはイブレイ山地アナポ渓谷に位置するネクロポリス群で、主にフィリポルト、カヴェッタ、ノルド(北)、ノルド=オヴェスト(北西)、スッド(南)の5つのネクロポリスからなる。ギリシア人による入植前に繁栄したシケル人をはじめとする先住民族の墓地遺跡で、紀元前13~前7世紀にかけて築かれた約5,000の墓が集中している。石灰岩の岩壁を掘って小洞窟を作り、内部を玄室として遺骨を収めていた。丘の上にある37.5×11.5mほどメガリス(巨石記念物)はアナクトロンで、紀元前12~前11世紀のミケーネ様式の宮殿と考えられている。6世紀には異民族や海賊の侵入に悩まされた人々がこの地に逃げ込み、9世紀にイスラム教勢力がシチリア島に侵入するとキリスト教徒たちは渓谷の奥深くに逃げ込んで洞窟に住み着き、内部にイコン(聖像)を描いて岩窟教会や岩窟住居として使用した。一例がサン・ミチディアリオ教会、サン・ニコリッキオ教会、クロフィチッソ教会(十字架教会)だ。
シラクサのギリシア・ローマ遺跡としては、まずオルティジャ島のアポロン神殿が挙げられる。紀元前6世紀の建設と見られるマグナ・グラエキア最古級のドーリア式神殿で、基壇55.4×21.5mの周柱式神殿の遺構が残されている。同世紀にゼウス神殿(資産外)やアテナ神殿、アルテミス神殿といったドーリア式神殿も築かれている。アテナ神殿はシラクサ大聖堂の場所にあり、アルテミス神殿が隣接していた。その近隣のアレトゥーサの泉は女神アルテミスに仕えていた精霊が姿を変えたと伝わる泉で、島の重要な淡水供給源だった。
市街を取り囲むディオニュシオスの城壁はディオニュシオス1世が紀元前5~前4世紀に建設した高さ6mほどの城壁で、全長は21km、オルティジャ島にはさらに6kmほどの城壁が築かれた。エウリアロ城は城壁の西端の城塞で、堀や城壁・塔・砦が複雑に張り巡らされている。オルティジャ島のマニアーチェ城は古代から砦が築かれていた南の岬の突端に立つ城塞で、現在の建物は13世紀前半に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が建築家リッカルド・ダ・レンティーニに依頼して建設させたものだ。ネアポリス考古学公園はギリシア・ローマ遺跡が特に集中している場所で、数多くの遺構が発掘されている。紀元前5世紀創建のテアトロンは半円形のギリシア劇場で、約15,000人を収容した。1世紀に築かれたアンフィテアトルムは140×119mの楕円形で、剣闘士や猛獣の戦いが行われた。ピスティーナはローマ時代のプールで、サン・ニコロ・アイ・コルダリ教会の敷地の地下に広大な遺構が残っている。ピスティーナに貯められた水はアンフィテアトルムに送られ、船を浮かべて海戦が行われることもあったという。同園にはこれ以外に、アルキメデスの棺が収められているとの伝説が伝わる洞窟・アルキメデスの墓、古代の採石場であるディオニュシオスの耳、儀式場や競技場が設けられたヒエロンの祭壇、基壇が残るアウグストゥス凱旋門などがある。また、シラクサには各地にカタコンベが残されている。一例がサン・ジョヴァンニのカタコンベで、墓地の他に岩窟教会や岩窟住居があり、各種施設やフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)が残されている。6世紀には地上にサン・ジョヴァンニ・アッレ・カタコンベ教会が建設されたが、屋根や天井が倒壊して現在は遺跡となっている。市内最大を誇るサンタ・ルチアのカタコンベは304年に亡くなったシラクサの聖ルチアの殉教地とされ、フレスコ画で彩られたビザンツ様式やノルマン様式の地下礼拝堂が残されている。
シラクサの代表的な宗教建築として、まずシラクサ大聖堂が挙げられる。正式名称をメトロポリターナ・デッラ・ナティヴィタ・ディ・マリア・サンティッシマ大聖堂(聖母マリア生誕メトロポリタン大聖堂)といい、7世紀にアテナ神殿を組み込む形で建設されたため、身廊ではギリシア時代のドーリア式の柱を見ることができる。アラブ人の侵入で8世紀後半にモスクに転用されたが、11世紀末にノルマン人ルッジェーロ1世が奪還してファサード(正面)やアプス(後陣)、屋根、フレスコ画などが改修された。1693年のヴァル・ディ・ノート地震でファサードや鐘楼は完全に倒壊し、ファサードについてはバロック建築家アンドレア・パルマの設計で1753年に修復された。全長90mほどもある細長いバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)の教会堂で、巨大な八角形のドームを頂いている。バロック&ロココ様式のファサードはコリント式の柱やブロークン・ペディメント(上部が欠けた三角破風)、使徒や聖人の彫像やレリーフ、スタッコ(化粧漆喰。石灰などからなるセメントに水と細かい砂を加えたモルタルを塗り付けて形を整えたもの)といった華麗な装飾で飾られている。内部にはビザンツ時代の聖十字架像やドームのフレスコ画などで彩られたサンティッシモ・クロチフィッソ礼拝堂や、アゴスティーノ・シーラのフレスコ画やフィリッポ・ヴァッレの彫刻などで飾られたサクラメント礼拝堂など、数々の礼拝堂や祭壇がある。
サン・ジョヴァンネッロ教会は4世紀のバシリカの上に建てられた歴史ある教会堂で、屋根や天井は倒壊しているが13世紀に築かれたゴシック様式の柱やアーチ、15世紀のポータル(玄関)といった美しい遺構が残されており、現在も教会堂として使用されている。サン・ニコロ・アイ・コルダリ教会はノルマン様式の教会堂で、11~12世紀の建設と見られる。バシリカ式・単廊式の重厚な教会堂で、地下にローマ時代のプール=ピスティーナの遺構が残されている。サン・マルティーノ教会も12世紀創建のノルマン様式のバシリカ式・三廊式教会堂で、13~14世紀にゴシック様式のバラ窓やポータルが取り付けられた。同様の歴史を持つのがサンタ・ルチア・アル・セポルクロ教会で、1100年頃創建のノルマン建築ながら、14~17世紀にゴシック様式のバラ窓、ルネサンス様式のクロイスター(中庭を取り囲む回廊)、バロック様式のファサードなどが増築された。隣接する八角形の聖堂はシラクサの聖ルチアの殉教地とされ、地下にはサンタ・ルチアのカタコンベが広がっている。サンタ・ルチア・アッラ・バディア教会は15世紀に建設された修道院教会だが、1693年の地震で倒壊し、1695~1703年に建築家ルチアーノ・カラッチョロによってバロック様式で再建された。ナルテックス(拝廊)-身廊-八角形のアプスからなるユニークな造りで、ファサードはねじり柱やさまざまな種類のペディメント、レリーフ、彫刻といったバロック装飾で飾られている。内部も同様で、主祭壇にはカラヴァッジオの傑作『聖ルチアの埋葬』が掲げられている。
シラクサの代表的な宮殿建築として、まずモンタルト宮殿が挙げられる。1397年頃の建設で、キアラモンターノ・ゴシックと呼ばれるシチリア島のキアラモンテ家が好んだゴシック様式で、ノルマン様式の重厚な造りとギザギザ模様を引き継いでいる。13~14世に築かれたベッローモ宮殿もゴシック様式だ。ヴェルメキシオ宮殿は17世紀はじめにジョヴァンニ・ヴェルメキシオが設計した宮殿で、1階はドーリア式の四角柱ピラスター(付柱。壁と一体化した柱)を持つ装飾の少ないルネサンス的な造りで、2階はイオニア式の四角柱ピラスターとブロークン・ペディメントや彫刻・レリーフで飾られたバロック的な造りとなっている。現在は市長の事務所を含む市庁舎となっている。ベネヴェンターノ・デル・ボスコ宮殿は15世紀に建設された宮殿が1693年の地震で倒壊した後、ベネヴェンターノ家が購入してルチアーノ・アリの設計で建て直された。ファサードや中庭の装飾・安定した構造が特に美しく、シラクサのバロック建築の最高峰とも評される。隣接のアレッツォ・デッラ・タルジャ宮殿はアレッツォ家の宮殿で、こちらも地震後の1700年頃にバロック様式で再建されている。湾曲したドゥオモ広場に沿ってファサードは緩く弧を描いている。ボルジア・デル・カザーレ宮殿は名門ボルジア家とインペリッツェリ家の婚姻を機に1760年に建設された宮殿だ。外観は地味だが、内部は見事なバロック&ロココ装飾で覆われており、美しいドレスが展示されていることで知られる。大司教宮殿はシラクサ大聖堂の南に隣接する宮殿で、13世紀頃の宮殿が地震後にバロック様式で建て直された。宝物館には大聖堂に寄贈されたさまざまな時代の芸術品が収蔵されているほか、18世紀後半に設立されたアラゴニア図書館にはシラクサの古代までさかのぼる史資料が収められている。
シラクサとパンタリカの遺跡とモニュメントのアンサンブルは何世紀にもわたる地中海文化の際立った証拠である。
シラクサとパンタリカのアンサンブルはその卓越した文化的多様性を通じて3,000年以上に及ぶ文明の発展に関する際立った証拠を提供している。
オルティジャ島を含むシラクサの都市域に存在する記念碑的な建造物と考古遺跡のグループは、ギリシア・ローマ・バロックなどいくつかの文化の影響を受けて発達した最高の建築的創造物を伝えている。
ギリシアの叙情詩人ピンダーや悲劇作家エスキラス、哲学者プラトン、数学者アルキメデスに代表されるように、古代シラクサは顕著な普遍的重要性を持つイベント、アイデア、文学作品と直接関係している。
資産には顕著な普遍的価値を構成するすべての重要な要素が含まれており、3件の構成資産にはそれぞれ相当程度のバッファ-・ゾーンも設定されている。シラクサは19世紀後半から現在まで都市化と都市域の拡大の影響を受けているが、栄光の時代の繁栄を伝える建築的・記念碑的な建造物と構造のほとんどは今日でも無傷で伝えられている。近年のすべての新しい開発は歴史地区や考古学エリアの外側で行われている。
ギリシアやローマ時代のテアトロン、ヒエロン2世の祭壇、オレッキオ・ディ・ディオニシウスといった歴史地区と考古学エリアのもっとも重要な建物や構造はよく保存されており、都市と建物の一般的な保存状態も過去30年間に整備された保護方針により大幅に改善された。
パンタリカのネクロポリスの中心部はもっとも重要で意味ある考古学的証拠を含んでいる。ネクロポリスと周辺景観を含むパンタリカは野生生物保護区にも指定されており、その要素は無傷ですぐれた保存状態にある。
シラクサの都市構造の多くはヘレニズム時代(紀元前323~前30年)後期の特徴を保持し、建造物は3,000年にわたる連続した文化と歴史を明確に反映しており、真正性は明白である。本来のヘレニズムの構造とさまざまな時代に起きた変化を示す証拠を比較することで、それぞれの文化がどのように作用し変化してきたかを正確に認識することができる。
すべての修復作業は綿密で詳細な研究に基づいて行われており、当局が監督する技術者や専門家の管理下でもっとも先進的で国際的な知見に基づいて可能な限りオリジナルの特徴や形状・構造・素材を維持する形で実施された。
墓はさまざまな時代に略奪されているが、それにもかかわらずパンタリカのネクロポリスはその完全性や良好な保全状態、近代的な開発が行われていないという事実により高いレベルの真正性を維持している。放棄された後は土地に大きな変化はなく、その際立った景観は往時の様子を正確に伝えている。