ピサはイタリア4大海洋都市国家のひとつで、大聖堂・鐘楼(ピサの斜塔)・洗礼堂・カンポサント(記念墓所)等からなるドゥオモ広場はその中心であり象徴だった。ドゥオモ広場からはじまったピサ・ロマネスク様式のムーブメントはイタリア中世およびルネサンスの芸術文化に多大な影響を与え、「奇跡の広場 "Piazza dei Miracoli"」と称賛された。なお、「ドゥオモ」はラテン語で「神の家」を意味する "domus" を語源とし、大聖堂を意味する。また、本遺産は2007年に資産とバッファー・ゾーンが若干拡大されている。
ピサはアルノ川とセルキオ川の合流地点にできた港湾都市で、紀元前5世紀以前からギリシアやマグナ・グラエキア(南イタリアのギリシア勢力圏)といった海域と内陸のガリア(ライン川からピレネー山脈、イタリア北部に至る地域。おおよそ現在のフランス・ドイツ西部・イタリア北部に当たる)を結ぶ交易拠点として繁栄した。ローマ帝国では初代皇帝アウグストゥスらが主要港ポルトゥス・ピサヌス(ピサ港)として整備し、やがてイタリア西部最大の港となった。ただ、ふたつの川の堆積物で港が埋まり、何度かその位置を変えている。こうした脆弱な地層が鐘楼や洗礼堂の傾きの原因となっている。
476年の西ローマ帝国滅亡後も教皇領やビザンツ帝国(東ローマ帝国)の主要港として発展を続けた。8世紀にはノルマン人、9世紀以降はサラセン人(イスラム教徒)がたびたび侵出して海賊行為を繰り返すが、海軍力を増強して対抗し、時に北アフリカまで遠征してこれを打ち破った。11世紀には北西140kmほどに位置するライバル都市ジェノヴァとともにリグリア海やティレニア海で支配権を確立し、ジェノヴァ、アマルフィ、ヴェネツィア(すべて世界遺産)と並ぶイタリア4大海洋都市国家のひとつに成長した。
11世紀はじめ、サラセン人の侵攻をたびたび撃退すると、拠点となっていたコルシカ島やサルデーニャ島を攻略し、1063年にはシチリア島のパレルモ沖海戦でイスラム艦隊を撃破して大勝を収めた。これを記念して翌年から建設がはじったのがピサ大聖堂で、1118年に完成して奉献された。
ピサ大聖堂は建築家ブスケットと彼を引き継いだライナールドの設計で、もともとはビザンツ様式の影響を受けて「+」形のギリシア十字式平面プランが予定されていた。後にローマ・カトリックの教会堂に普及する「†」形のラテン十字式に改められたが、内部のモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)やマトロネウム(中2階の空間)などはビザンツ様式の影響を多分に受けた。また、サラセン・アーチと呼ばれた尖塔アーチ(頂部が尖ったアーチ)や長球(楕円を回転させた形)ドーム、外壁やアーチなどに見られる白と黒のポリクロミア(色の異なる石を並べて描いた縞模様)などはイベリア半島のイスラム建築=ムーア建築の影響とされる。さらに目を引くのが西ファサード(正面)やアプス(東の後陣)に見られるおびただしい数の柱で、こうした柱廊装飾を「ロッジア」と呼ぶ。イタリア北部で生まれた装飾で、特に西ファサードでは4層のロッジアが見られる(多層ロッジア)。ポリクロミアとロッジアはピサ・ロマネスク様式の最大の特徴となっている。大聖堂の内部にも多くの見所があり、ボナンノ・ピサーノ作の守護聖人・聖ラニエリのブロンズ扉、イエスが水をブドウ酒に変えたという奇跡のアンフォラ(陶器の壺)、ジョバンニ・ピサーノ作の説教壇などが名高い。
大聖堂の付属鐘楼の建設はピサーノの設計で1173年にはじまるが、開始後まもなく地盤沈下がはじまって北に傾いた。工事を進めていくと今度は南に大きく傾き、4層目まで建設したところで予算不足で中止された。約100年後の13世紀後半に再開されるが、傾いた下層はそのまま残し、5層目を水平に調整して建設が進められた。この再建も7層目で中止され、結局完成したのはさらに100年後の1372年となった。この間に7層目も傾いたため、頂上はステップの数を変えて高さをそろえている。この結果、鐘楼は傾いているだけでなく途中で角度を変えるきわめて特殊なデザインとなった。20世紀後半、鐘楼が年1.2mmのペースで傾きを増している事実が確認された。倒壊の危険があるため1990年に塔への入場が禁止された。1997年に塔北側の地中に何本ものドリルを突き刺し、77tの土を抜き取ることで1度以上の角度が是正された。現在、高さ56mを誇るこの鐘楼は5.0~5.5度傾いており、頂上は垂直の状態と比較して南に4mほどずれている。しかしながら今後300年以上の安定が確認されたため、人数制限はあるものの頂上まで上ることができる。鐘楼の外周部は6層のロッジアで、207本の柱が立ち並んでいる。
大聖堂の西にたたずむ高さ54.86m・直径34.13mを誇る建物は洗礼堂だ。洗礼は入信の際に行われるサクラメント(秘跡。キリスト教の儀式)で、洗礼盤に入れた聖水によって行われる。この洗礼盤を備えた堂宇が洗礼堂で、初期キリスト教建築やビザンツ建築ではしばしば教会堂とは別に集中式(有心式。中心を持つ点対称かそれに近い平面プラン)の専用の建物が建設された。ピサのドゥオモ広場でもこれを引き継いで円形の洗礼堂が築かれた。ディオチサルヴィの設計で1152年に着工したが、こちらも幾度かの中止を経て完成は1363年にずれ込んだ。長い建築期間の間にスタイルを変えており、下部はロマネスク様式、上部はゴシック様式となっている。ドームと説教壇はニコラ・ピサーノによる設計だ。実は洗礼堂も傾いているが、わずか0.6度ということで目立っていない。
カンポサントは偉人の墓所で、ジョヴァンニ・ディ・シモーネの設計で1277年に建設がはじまり、1464年に完成した。クロイスター(中庭を取り囲む回廊)は14世紀に描かれた聖書やピサの物語を描いたブオナミーコ・ブファルマッコの美しいフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)で覆われていたが、第2次世界大戦の爆撃で多くが失われた。
ピサのドゥオモ広場、特に大聖堂と鐘楼は物理学に与えた影響でもよく知られている。1564年にピサで生まれたガリレオ・ガリレイはピサ大学に通っていた19歳のとき、大聖堂で揺れるバティスタ・ロレンツィ作の青銅製のシャンデリア(香炉とも)を見て「振り子の等時性(振り子が往復する時間は振り子の揺れ幅や重さによらず一定であること)」を着想したという。また、鐘楼の上から大小ふたつの鉛玉を落とて同時に落ちることを確認した「落体の法則(物質は質量によらず同一の自由落下を行うという法則)」の実験でも知られる。ガリレオは地動説を提唱したことで異端審問(宗教裁判)で有罪判決を受け、「それでも地球は動く」と小さく呟いたという逸話でも知られるが、1992年に教皇ヨハネ・パウロ2世は鐘楼の頂上で破門を解いて謝罪している。これらの逸話のどこまで事実なのか定かではないが、ドゥオモ広場が科学史においても重要な役割を果たしてきたことに変わりはない。
ピサは1096年にはじまる第1回十字軍に参戦して地中海東部にアンティオキアやアッコ(世界遺産)など数多くの植民地を獲得。さらにエジプトのカイロやアレクサンドリア、小アジアのコンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)などにも自治領を設け、免税特権を受けた。1136年にはライバルのひとつであるイタリア南部の海洋都市国家アマルフィを征服し、ヴェネツィアに対抗するため12世紀後半にはスペインやフランスと協力関係を結んで地中海西部における支配体制を固めた。
しかし、ピサの勢力拡大を恐れた近郊のジェノヴァやフィレンツェ(世界遺産)、ルッカといった周辺都市と対立し、地中海東部でもヴェネツィアと敵対した。幾度かの戦いを経た1284年、メロリアの海戦でジェノヴァに大敗すると海軍の多くを喪失。さらに14世紀に入るとフィレンツェが急成長を遂げ、1406年に占領されるとフィレンツェ共和国やトスカーナ大公国の版図に入った。15~16世紀には川の流れが変わってピサ港に土砂が堆積して水深が浅くなり、トスカーナ地方の主要港としての立場も失った。これによりピサの繁栄は終了した。
きわめて芸術的な独創性を持つデザイン空間が広がるピサのドゥオモ広場には大聖堂・洗礼堂・鐘楼・カンポサントという4棟の圧倒的な傑作がある。これらのモニュメントには大聖堂のモザイク画や青銅製の扉、洗礼堂および大聖堂の説教壇、カンポサントのフレスコ画など、世界的に有名な芸術作品が含まれている。
ピサのドゥオモ広場のモニュメントは歴史上のふたつの時期に建築と芸術において大きな飛躍をもたらした。ひとつは11世紀から1284年というピサの繁栄期で、洗練されたポリクロミアとロッジアの使用を特徴とする新しいスタイルの教会堂が広がった。ピサ大聖堂ではじめて採用されたピサ・ロマネスク様式はルッカやピストイアなどトスカーナ地方の他の地域でも見られるが、サルデーニャ島やコルシカ島のピエヴェ(洗礼堂を伴う教会堂)により控え目な形で示されているように、特にピサの海域で普及した。もうひとつは14世紀で、トスカーナの建築は1302~11年にかけて大聖堂の説教壇を彫刻したジョヴァンニ・ピサーノのような記念碑的なスタイルが主流となった。これはカンポサントのフレスコ画、ブファルマッコ作『死の勝利』に見られるようにペストの大流行と重なる「トレチェント(1300年代)」と呼ばれた絵画芸術の新時代に対応するものである。
ピサのドゥオモ広場のモニュメント群は、明確な目的を持って築かれた典型的な宗教建築物で構成されており、中世キリスト教建築の傑出した例である。
ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)は19歳のとき、ピサ大聖堂のシャンデリアが揺れるのを見て「振り子の等時性」を着想し、鐘楼の頂上から鉛玉を落として「落体の法則」の実験を行ったと伝えられている。「奇跡の広場」のふたつの主要な建物は物理学の歴史の決定的な段階に直接かつ明確に関連付けられている。
ドゥオモ広場は今日見られるように、中世にさかのぼる長い歴史を持つ記念碑的な建造物群と公共空間を有する。1064年に置かれた新しい大聖堂の定礎にはじまり、本来の "square" の意味する正方形の広場として14世紀に竣工した。資産は8.87haで254haのバッファー・ゾーンが設定されており、顕著な普遍的価値を示すすべての要素が含まれている。広場の完成後、何世紀にもわたって行われた人的介入はそれぞれのモニュメント、あるいはモニュメント間の構造と空間の完全性を維持し、容易に理解し目に見える形でいまに伝えられている。2007年の軽微な範囲拡大が3つの主要な視覚軸をより適切に保護するとともに、バッファ-・ゾーンの設定が資産の視覚的な品質と特性の保護状態をさらに高める役割を果たす。しかし、資産の北と西についてはさらに保護が必要である可能性がある。
ピサのドゥオモ広場の建造物群は顕著な普遍的価値を伝える歴史的・芸術的な資質と特性を長いあいだ保持してきた。記念碑的な建造物群と広場の完成後、その価値と重要性を尊重しつつ数多くの人的介入が広場と都市の関係を強化した。近年、すべての修復は有資格者によって行われ、国際基準と国内基準に適合した形で行われている。特に場所・配置・形状・デザインの点で資産の真正性は長期にわたって維持されている。