フェッラーラはエミリア・ロマーニャ州の主要都市で、14~16世紀にエステ家が理想都市を目指して整備した初のルネサンス都市として知られる。本遺産は1995年にフェッラーラ市街とポー川やその支流であるヴォラーノ川下流のデルタ地帯(三角州)が世界遺産リストに登録され、1999年に北東部の田園地帯であるディアマンティーナに拡大されると同時に登録基準(iii)(v)が追加された。
ポー川流域では肥沃なデルタ地帯を利用して古くから集落が築かれていたようだが、流れがしばしば変わったこともあり大きな都市跡は残されていない。5世紀頃、河口付近で港町コマッキオが発達し、ポンポーザ修道院が創設された。7~8世紀にはポー川の南に切り拓かれたサン・ジョルジョ地区を中心にフェッラーラも町として発展し、初の大聖堂となるサン・ジョルジョ大聖堂(現在のサン・ジョルジョ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂)が建設された。
教皇領やモデナ伯領を経てコムーネ(自治都市)として独立すると、北東85kmほどにあるヴェネツィア(世界遺産)や南のフィレンツェ(世界遺産)をはじめトスカーナの諸都市との貿易で発達。町の中心はポー川の北に移動・拡大され、城壁を巡らせて堅固な城郭都市となった。この際、サン・ジョルジョ大聖堂も川の北に移転している。
フェッラーラが最盛期を迎えるのは12世紀末にエステ家が入り、14世紀に教皇からフェッラーラ公に封ぜられてフェッラーラ公国が成立して以降だ。特に大きく変化したのが15世紀のエルコレ1世の時代で、建築家ビアージョ・ロセッティに13kmにわたって城壁を拡張させ、稜堡や堀を築き、サン・ジョルジョ大聖堂とエステ家の居城・エステンセ城を中心に城内を整備させた。目指したのはルネサンスらしい整然として暮らしやすい都市=ルネサンス理想都市で、個々の建物より全体の調和が重視され、高さがそろった赤レンガの街並みが完成した。ロセッティは他にもコスタビリ宮殿(現・国立考古学博物館)やスキファノイア宮殿、ディアマンティ宮殿、サン・フランチェスコ教会、サン・クリストフォロ・アッラ・チェルトーザ教会をはじめ数多くのルネサンス様式の名建築に携わっている。
エステ家のエルコレ1世やアルフォンソ1世・2世らは芸術を奨励して多くの芸術家を招いたため、フェッラーラは音楽や絵画・建築の都として大いに名を馳せた。建物はアンドレア・マンテーニャやヤーコポ・ベッリーニ 、ピエロ・デラ・フランチェスカといったフェッラーラ派の画家の絵で飾られ、ジェイコブ・オブレヒトやエイドリアン・ウィラートらの音楽であふれた。
また、エステ家は運河や水路を建設し、灌漑設備を充実させて後背地の農地を整備した。こうした土地はフェッラーラ北東部のディアマンティーナから河口のデルタ地帯にまで及び、自然と調和した美しい田園風景を生み出した。各地に「デリツィエ」と呼ばれるルネサンス様式の別邸が築かれたが、エステ家のデリツィエ=デリツィエ・エステンシとしてはデリツィエ・ディ・ベルリガードやデリツィエ・ディ・ベンヴィニャンテ、デリツィエ・デル・ヴェルギネーゼ、デリツィエ・デッラ・ディアマンティーナをはじめ10棟が残されている。ルネサンス建築は一般的に都市内部の主要教会堂や宮殿に見られるもので、田園風景と調和した稀有な例となっている。デルタ地帯周辺では他にもメゾラ城やトレ橋をはじめ多くの歴史的建造物を見ることができる。
アルフォンソ2世は子供に恵まれず、従弟にチェーザレ・デステがいたが、教皇クレメンス8世は彼を後継者として認めなかった。この結果、フェッラーラは1598年に教皇領となり、エステ家が町を去ってモデナ(世界遺産)に移ると衰退し、以後その繁栄を取り戻すことはなかった。
世界遺産の構成資産はフェッラーラとディアマンティーナの2件となっている。
代表的な宮殿や公共施設としては、まずフェッラーラのランドマークになっているエステンセ城が挙げられる。もともとエステ家のニッコロ2世が1385年に建設を開始した城塞で、15世紀にエルコレ1世がロセッティに依頼して公爵家の宮殿として改修した。16世紀にアルフォンソ1世・2世が画家ティツィアーノやドッソ・ドッシ、彫刻家アントニオ・ロンバルドらを起用して装飾を充実させ、現在の形がほぼ完成した。教皇領以降は教皇や自治体・国家の施設として使用された。マルケザーナ塔、サン・パオロ塔、サンタ・カテリーナ塔、レオーニ塔という4基の塔を持つ「口」形のコートハウス(中庭を持つ建物)で、周囲は堀に囲まれ、中央はオレンジのロッジアと呼ばれる中庭となっている。城塞といっても宮殿・官庁・議場を兼ねており、公爵家礼拝堂やゲーム・ルーム、ギャラリー、ホールなど数多くの施設が設けられている。
ムニチパーレ宮殿(現・フェッラーラ市庁舎)もエステ家の宮殿で、13世紀に中心部の建設が行われ、15世紀後半に増築されておおよそ現在の姿となった。大聖堂に面した東ファサード(正面)については20世紀はじめにゴシック・リバイバル様式で再建されている。公爵の中庭を中心としたコートハウスで、ローマ凱旋門を模したポータルにはニッコロ3世の騎馬像が掲げられている。黄金のバラと木製格天井を持つ黄金の間やフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)が美しいアレンゴの間、美しい木製パネルで覆われた公爵夫人の間など、数多くの特徴的な部屋を持つ。
ポルタ・マーレ通りとエルコレ1世デステ通りが交わる交差点は「天使の十字路」と呼ばれており、ルネサンス都市の構造を色濃く残している。南西の角に立つディアマンティ宮殿はエルコレ1世の依頼でロセッティが1500年前後に建設したルネサンス様式の典型的な宮殿で、ダイヤモンド(ディアマンテ)と呼ばれる四角錐の突起を持つピンク大理石の切石で覆われていることからこの名が付いた。南東に位置するトゥルキ・ディ・バーニョ宮殿も同時期にエルコレ1世とロセッティが建設したルネサンス様式の宮殿で、後にバーニョ家に売却された。こちらはレンガ造で、ポータルにコリント式の四角形のピラスター(付柱。壁と一体化した柱)を持つ。北西のプロスペリ・サクラティ宮殿はエルコレ1世の担当医師のために築かれたルネサンス様式の邸宅で、ポータルにはコリント式の円柱とエンタブラチュア(柱とペディメントの間の梁構造)を持つ。庭に面した北西部はロッジア(柱廊装飾)となっている。
デリツィエ・デル・ヴェルギネーゼは15世紀末あるいは16世紀はじめにアルフォンソ1世がジローラモ・ダ・カルピに設計を依頼したヴィッラ(別邸)で、白漆喰のレンガ造とルネサンス様式の幾何学式庭園が特徴的だ。林や農場が広がる風光明媚な土地で、アルフォンソ1世は妻の死後、ここで余生を過ごしたという。
これ以外に代表的な宮殿建築として、アルベルト5世が14世紀末に建設しロセッティが増改築を行ったスキファノイア宮殿や、ロセッティの代表作のひとつとされるコスタビリ宮殿などがある。
代表的な宗教建築として、まずサン・ジョルジョ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂が挙げられる。中世の城壁外に築かれた旧・サン・ジョルジョ大聖堂で、7世紀の創建ながら15世紀にロセッティが鐘楼とともにルネサンス様式で再建し、18世紀にはファサード(正面)が改修された。ルネサンス様式のラテン十字形・三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)の教会堂で、ファサードはジャイアント・オーダー(1~2階を貫く柱を持つファサードの展開様式)などバロック様式の影響も見られる。修道院が隣接しており、ルネサンス様式のクロイスター(中庭を取り囲む回廊)を内包している。
フェッラーラ大聖堂とも呼ばれるサン・ジョルジョ大聖堂は城壁内に築かれた新たな大聖堂で、1135年に奉献された。トランセプト(ラテン十字形の短軸部分)を3基持つトリプルクロス形・三廊式の教会堂で、ロマネスク様式をベースに上部はゴシック様式でイタリア特有のロッジアで覆われている。上部に白大理石を使用した西ファサードは柱が立ち並び、4層ものロッジアで装飾されており、ポータルの見事な彫刻群とともに荘厳な雰囲気を醸し出している。身廊のサイドにもロッジアが見られるが、アプス(後陣)についてはロセッティによってルネサンス様式で改修されている。身廊について、内部は18世紀に五廊式から三廊式に改築されており、この時代にバロック様式の豪奢なレリーフやスタッコ細工・絵画・彫刻などで覆われた。15世紀後半に築かれた鐘楼は建築家レオン・バッティスタ・アルベルティ設計のルネサンス様式で、やはり各層にロッジアとポリクロミア(縞模様)が見られる。
ポンポーザ修道院はコディゴロの町に位置する旧修道院で、創設は7世紀以前とされるが、文書で確認できるのは9世紀となっている。修道院教会はバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式でロマネスク様式の教会堂で、11世紀に献納された。見事な内装で名高く、床は大理石の象眼(素材を彫って別の素材をはめ込んだ装飾技法)細工やモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)、アプスや壁面はフレスコ画で覆われている。高さ48mを誇る鐘楼は初期ロマネスク様式の一種であるロンバルディア様式の傑作で、1063年頃の建設と見られる。周辺は修道院で、フレスコ画が見られる僧院や修道院長が暮らしたラジョーネ宮殿などの施設がある。
チェルトーザ記念墓地はカルトゥジオ会修道院の要請を受けて15世紀にボルソ・デステが建設を進めた墓地で、ボルソ・デステをはじめ市の著名人の墓が収められている。ナポレオン1世による修道院の廃院後に市の所有となり、幾何学的に区切られた庭園を持つ広大な墓地となった。墓地内に築かれた教会堂がサン・クリストフォロ・アッラ・チェルトーザ教会で、ボルソ・デステがロセッティに依頼して1498~1551年に建設された。ルネサンス様式のラテン十字形・単廊式の教会堂で、数多くの絵画や彫刻が収められている。
これ以外の代表的な宗教建築としては、5世紀創建と伝われる最古級の教会堂で15世紀末にロセッティによってルネサンス様式で再建されたヴァードのサンタ・マリア教会、10世紀創建で16世紀にアルベルト・シアッティによってルネサンス様式で再建されたサン・パオロ教会などがある。
ルネサンス都市フェッラーラで表現された都市計画の発展はその後数世紀にわたって都市デザインの実践と保全計画に多大な影響を与えた。ビアジオ・ロセッティやジローラモ・ダ・カルピ、ジョヴァンニ・バティスタ・アレオッティといったフェッラーラ派の建築家たちは都市デザインと城壁・要塞といった要素を他のイタリアおよびヨーロッパ諸都市に拡散した。
ポー川デルタ地帯のエステ家の建造物群はルネサンス建築と自然景観が調和した稀有な例である。
フェッラーラの歴史地区はルネサンス期の都市計画の際立った例であり、そのレイアウトや形状はいまだ視認でき、都市構造は事実上手付かずである。
自然と調和したポー川デルタ地帯は計画的に築かれたすぐれた文化的景観であり、本来の形状のかなりの部分が維持されている。
エステ家の華麗な宮廷文化はルネサンス期の2世紀にわたって一流の芸術家や詩人・哲学者を魅了し、イタリアにおける新たなヒューマニズム(人文主義)の発展と運用の中心地となった。
資産はバッファー・ゾーンとともにフェッラーラとポー川デルタ地帯の顕著な普遍的価値を構成し、ルネサンスの文化的景観を理解するために必要なすべての要素を網羅している。これらが手付かずであることはフェッラーラのルネサンス期の都市レイアウトと景観、あるいは周辺部の農業景観の変容によって証明されている。ルネサンス都市フェッラーラは14~16世紀の都市計画に従って築かれた中世の城壁によって囲われており、城内の都市レイアウトはよく保全されている。大半が当時のまま引き継がれているこうした建造物群によって訪問者はその価値を容易に理解することができる。都市郊外ではいまに残るデリツィエの景観が際立っており、エステ家の時代に着手された土地改造計画の様子を示している。
こうしてフェッラーラとポー川デルタ地帯のルネサンス期の文化的景観はその歴史の全容を示しているが、農業の変化や経済優先の施策・新しいインフラの導入は懸念材料であり、完全性を維持するために総合的に取り組む必要がある。
ルネサンス都市フェッラーラとポー川デルタ地帯は際立ってよく保存された文化的景観であり、その形状・デザイン・素材・配置・精神・印象は本物である。デザインやレイアウトを含むルネサンス期の都市構造の独創性はルネサンス都市の中で明確に認識できる。いくつかのデリツィエは本来の大規模農業の環境とともに本物であり、1970年以降に実施された修復作業を経てよい状態を保っている。ポー川とプリマロ川、ヴォラーノ川 、サンダロ川といった支流周辺のルネサンス期の建造物群も状態がよく、古代の川の流れがハッキリと視認できる。資産の長い歴史からくる経年変化にもかかわらず顕著な普遍的価値の表現に関して真実性と信頼性を保持している。