「アドリア海の女王」の異名を持つヴェネト州の州都ヴェネツィアはアドリア海最奥部の湾にできた町。ヴェネツィア湾は砂が堆積してできた長い砂州によってほぼ閉じられて潟湖(せきこ。ラグーン。湖のように閉じた浅い海岸)を形成しており、リド、マラモッコ、キオッジアの3つの水路がアドリア海と潟を結んでいる。400の橋、177の島、150の運河が存在するといわれる水の都で、この地で海軍力を伸ばしてイタリア4大海洋都市のひとつに成長し、ビザンツ・ゴシック・ルネサンス・バロックなど多彩なスタイルが混在する華やかな海上都市を築いた。本遺産は文化遺産の6つの登録基準のすべてを満たすわずか3件の世界遺産のひとつでもある。
3~5世紀、ゲルマン人を中心とした民族大移動が開始され、イタリア半島とその周辺には多くの異民族が押し寄せた。ヴェネツィア周辺は5世紀にゲルマン系の西ゴート人、続いてアッティラ率いるフン人の侵略を受けた。こうした圧力を受けて一部の人々はヴェネツィア湾に逃げ込み、潟に杭を打って杭上(こうじょう)住居を建てて住み着いた。砂地や泥地は歩きにくいため島や潟には運河が張り巡らされ、船が交通手段となった。こうして造船術や操船術が磨かれて海軍力につながっていく。
リド島のマラモッコにはビザンツ帝国(東ローマ帝国)の総督府が置かれ、イタリアを征服したランゴバルド王国などに対する前線基地となった。しかし、7世紀に帝国の力が衰えると指導者オルソ・イパートに公爵位が与えられ、697年にはパオロ・ルシオ・アナフェストを初代ドージェ(総督。元首)に選出し、ヴェネツィア共和国が成立した(異説あり)。この頃の中心は湾の東のエラクレアやイェーゾロ、南のリド島やオリヴェロ島(現・サン・ピエトロ島)で、オリヴェロ島にはサン・ピエトロ・ディ・カステッロ大聖堂や要塞が築かれた。
9世紀はじめ、ドージェとなったアニェッロ・パルテチパツィオは都をヴェネツィア本島のリアルトに遷し、ドージェの居城としてドゥカーレ宮殿を建設。また、ヴェネツィア商人がエジプトのアレクサンドリアから持ち込んだ『新約聖書』「マルコによる福音書」の福音記者である聖マルコの遺体を収めるためにサン・マルコ教会を建て、聖マルコを守護聖人とした(1807年に司教座が置かれて大聖堂となる)。さらに、サン・ザッカリア教会と修道院を建設したほか、リアルトやオリヴェロ島に城壁を築き、アドリア海に対する防壁となっているリド島やペレストリーナ島の軍備を強化して海洋都市国家の基礎を築いた。
8世紀後半から9世紀はじめにかけて、ローマ皇帝となった大国・フランク王国のカール大帝とイタリア王となったその息子ピピンが攻め寄せるが、ヴェネツィアは攻撃を凌ぎ切った。この功績によりビザンツ皇帝からアドリア海の貿易権を認められている。9~10世紀にはアドリア海の海賊やイスラム教勢力を一掃してイオニア海やエーゲ海に進出。ビザンツ帝国の依頼で海上防衛を担当すると、その代償として金印勅書を与えられ、免税特権を得て西アジアとの東方貿易(レヴァント貿易)で優位に立ち、香辛料や金を輸入して繁栄した。この頃にはアマルフィ、ピサ、ジェノヴァ(いずれも世界遺産)と並ぶイタリア4大海洋都市国家に数えられた。
11世紀にはじまる十字軍の遠征では第1回の途中から参戦し、数百隻の大船団を派遣した。十字軍はエルサレム(世界遺産)を奪還し、周辺に聖地四国を中心とするキリスト教国家を建国した。ヴェネツィアはこうした国々でも特権を得て地中海東部で独占的な地位を確保した。第4回十字軍ではライバルだったアドリア海のサダル(世界遺産)を攻撃し、さらにビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)を攻めて一旦はこれを滅ぼした。一連の戦いでサダルやキプロス島・クレタ島など数多くの都市や島々を獲得した。こうした海戦で活躍した船団を建設していたのが1104年に築かれた国立造船所アルセナーレ・ディ・ヴェネツィアだ。
地中海東部を支配するヴェネツィアと西部を支配するジェノヴァの間で13~14世紀にかけて4次にわたるヴェネツィア=ジェノヴァ戦争が戦われた。一進一退を繰り返し、第4次のキオッジャ戦争でも決着がつかずに和解したが、両国とも甚大な被害を出した。これを機にジェノヴァが衰退したのに対し、ヴェネツィアは再興に成功し、地中海商業圏の頂点に立った(ジェノヴァはこの後、金融都市として再興する)。
こうした富を背景にヴェネツィアは芸術家や建築家を招いて町を整備した。東のビザンツ帝国からはビザンツ、北のドイツやフランスからはゴシック、14世紀以降になると西のフィレンツェやローマからルネサンスの芸術家や建築家がヴェネツィアに集った。サン・マルコ教会は11~12世紀に5つのドームを持つギリシア十字形のビザンツ様式で改修され、内部は黄金のモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)で覆われた。1340年にゴシック様式で改修されたドゥカーレ宮殿は後にルネサンス様式が加えられた。ドゥカーレ宮殿に隣接する国立マルチャーナ図書館は1468年の創建で、現存するイタリア最古の公立図書館であり、ルネサンス様式の傑作として知られる。15世紀後半に築かれたサン・マルコ同信会館やサン・ロッコ同信会館もルネサンス様式だが、ルネサンス美術ヴェネツィア派の画家ティントレットのコレクションで知られる。
16世紀はじめにフィレンツェやローマでルネサンスは衰退するが、ヴェネツィアやヴェローナ、ヴィチェンツァといったイタリア北部で最後の輝きを見せる(後期ルネサンス)。この時代の建築家として名高いのがアンドレア・パッラーディオで、ギリシア・ローマ建築のオーダー(基壇や柱・梁の構成様式)とルネサンス建築のドームを組み合わせ、バロック建築の要素を加えてパッラーディオ様式として一大潮流を生み出した。ヴェネツィアにおけるパッラーディオの代表作がサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂やレデントーレ教会だ。また、ヴェネツィアの象徴的な建物が1687年に完成したサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂だ。地盤の弱い干潟に10万本の杭や木片を並べて土台を築き、その上にビザンツ様式によく見られる正八角形の集中式(有心式。中心を持つ点対称かそれに近い平面プラン)の身廊を築き、ルネサンス様式の象徴である巨大なドームを被せ、外装や内装はバロック様式で築かれた。こうした教会堂や宮殿はティントレットやティツィアーノ・ヴェチェッリオ、パオロ・ヴェロネーゼ の3大画家をはじめとするヴェネツィア派の絵画で飾られた。
15~16世紀に繁栄は終わりを告げる。イスラム王朝であるオスマン帝国が勢力を伸ばしてヨーロッパに進出し、1453年にはビザンツ帝国が滅亡する。1538年、ヴェネツィアをはじめとするキリスト教連合軍がプレヴェザの海戦に敗れ、地中海東部の制海権を喪失。さらに1570年にはオスマン帝国がヴェネツィア領だったキプロス島を占領する。これに対して教皇ピウス5世はローマ・カトリック諸国に呼びかけてスペイン、ヴェネツィア、ジェノヴァ、教皇などが神聖同盟を結成。同盟軍は1571年のレパントの海戦に大勝するものの、キプロス島は奪還できず、制海権も戻らなかった。
15世紀後半に大航海時代がはじまると世界貿易の中心は地中海から大西洋・インド洋に移り、ヨーロッパの中心はスペインやポルトガルに移行した。この後もバルカン半島を占領したオスマン帝国に対するヨーロッパ諸国の防波堤となって戦闘を繰り返し、大トルコ戦争(1683~99年)などで勝利するが、ジェノヴァやリヴォルノ、トリエステなどの台頭もあってかつての繁栄は取り戻せなかった。1797年にフランスのナポレオンに占領されてヴェネツィア共和国は滅亡。ナポレオンのイタリア王国やオーストリアの傀儡であるロンバルド=ヴェネト王国を経た後、1866年のプロイセン=オーストリア戦争でイタリア王国に組み込まれた。
世界遺産の資産は潟全体で、ヴェネツィア本島のみならずジュデッカ島、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島、ムラーノ島、ブラーノ島、リド島、ペレストリーナ島、トルチェッロ島などの島々が含まれている。
ヴェネツィア本島の代表的な教会建築として、まずサン・マルコ大聖堂が挙げられる。守護聖人・聖マルコの聖遺物(遺体)を祀るために828年に創建された聖堂で、11世紀後半に現在見られるビザンツ様式の建物に建て直された。司教座が置かれて正式に大聖堂となったのは1807年で、それ以前はサン・ピエトロ・ディ・カステッロ聖堂に司教座が置かれていた。一面を覆う黄金のモザイクや見事な彫刻が立ち並ぶイコノスタシス(身廊と至聖所を区切る聖障)、宝石で彩られた主祭壇など、豪華絢爛な内装で知られる。隣接のサン・マルコの鐘楼は高さ98.6mを誇り、下部はレンガ造のロマネスク様式、上部はロッジア(柱廊装飾)で飾られたゴシック様式で、頂部に大天使ガブリエルの黄金像を頂いている。ただ、1902年に倒壊して1912年に再建されている。ヴェネツィア最初期の教会堂がトルチェッロ島のサンタ・マリア・アッスンタ聖堂だ。創建は639年で、11世紀はじめにバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)のビザンツ様式で再建された。特に11~12世紀に描かれた「最後の審判」をはじめとするビザンツ様式のモザイク画が名高い。レンガ造・ゴシック様式のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂は1430年の竣工で、ラテン十字形・三廊式でドミニコ会の聖堂として知られる。ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(世界遺産)にも似た意匠で、十字形の交差部にルネサンス様式のドームを冠している。同様の造りはサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂 などでも見られる。1481~89年に建設されたサンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会は彫刻家ピエトロ・ロンバルドが設計したヴェネツィア最初期のルネサンス建築で、こぢんまりとした造りながら均整の取れた姿から「ベネチアの宝石」と称賛される。身廊はロマネスク様式、ファサード(正面)はバラ窓などゴシック様式の影響を受けており、多彩な様式の折衷が見られる。サン・ピエトロ島のサン・ピエトロ・ディ・カステッロ聖堂は7世紀創建で、ヴェネツィア湾最古の大聖堂で1807年まで司教座が置かれていた。現在のラテン十字形・三廊式、ルネサンス様式の建物はパッラーディオの設計で17世紀はじめに完成したものだ。やはり交差部にドームを冠しており、主祭壇の壁や天井は見事な絵画で彩られている。1566~1610年に建設されたサン・ジョルジョ・マッジョーレ島のサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂もパッラーディオの作品で、「凸」形の身廊・側廊、ラテン十字形の交差部に設けられたドームなどにルネサンス様式の特徴が見られる。同時に、ファサードには1~2階を貫く大きな柱(ジャイアント・オーダー)のようなバロック的な要素も含んでおり、後期ルネサンスを代表するパッラーディオらしい意匠となっている。高さ75mの鐘楼からはヴェネツィアの潟を一望することができる。同様のデザインを持つのが1577~92年に建設されたジュデッカ島のレデントーレ教会で、パッラーディオ様式の到達点といわれる。サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂は1629~31年に大流行したペストが沈静化したことから聖母マリアに謝意を示すために築かれた教会堂だ。ヴェネツィアのバロック建築家バルダッサーレ・ロンゲーナの設計で、全体はバロック様式ながら平面プランはビザンツ建築の八角形・集中式で、ルネサンス・バロック建築の象徴である直径21.55mの巨大なドームが見事に調和している。トンマーゾ・リューの彫刻やティツィアーノの絵画など、数多くの芸術作品でも知られる。サン・バルナバ教会は10世紀創建の教会堂で、現在の建物は18世紀に半ばにロレンツォ・ボシェッティの設計で建て直されたものだ。ジャイアント・オーダーやコンポジット式(イオニア式とコリント式の特徴を備えた様式)の柱をはじめユニークで美しい造形で知られる。これ以外にも、ティツィアーノの絵画やヴェチェッリオのフレスコ画で知られるサン・サルヴァトーレ教会や、ドメニコ・ロッシの設計でジョヴァン二・バッティスタ・ピアッツェッタらの絵で知られるサン・スタエ教会、ヴェネツィア・ガラスのシャンデリアと美しいモザイク画で有名なムラーノ島のサンティ・マリア・エ・ドナート聖堂、バロック様式のサン・モイゼ教会など、著名な教会堂は数多い。
代表的な宮殿・邸宅としては、宮殿であると同時に政庁・裁判所・議事堂でもあったドゥカーレ宮殿が挙げられる。9世紀にアニェッロ・パルテチパツィオが築いた宮殿がはじまりとされ、14~15世紀にゴシック様式で増改築され、現在見られる2層の列柱(ロッジア)が取り囲む特有のデザインが完成した。やはりロッジアが美しいゴシック・ルネサンス折衷の中庭や、金色のスタッコ細工やフレスコ画で覆われた黄金の階段、尋問室と獄舎を結ぶバロック様式・大理石製のソスピリ橋(ため息橋)、メイン・ホールでティントレット『天国』をはじめとする絵画で覆われた大評議会ホール、ハインリヒ・ハンセンやティントレット、ティツィアーノ、ティエポロらの絵で飾られた四扉ホールなど、数多くの見所がある。サンタ・ソフィア宮はかつて外壁が金箔で覆われていたことから「黄金の館」カ・ドーロの異名を持つ。コンタリーニ家が1428~30年に建設したゴシック様式の宮殿で、1~3階のファサードに展開するロッジアがヴェネツィア・ゴシックらしい外観を生み出している。カ・フォスカリはドージェのフランチェスコ・フォスカリがバルトロメオ・ボノの設計で1452~53年に建設した宮殿で、こちらも美しいヴェネツィア・ゴシックの意匠で知られる。同様の造りはバルバロ宮やジュスティニアン宮、ペーザロ・オルフェイ宮(フォルチュニイ宮)、カヴァッリ・フランケッティ宮など多くの宮殿・邸宅で見られる。15世紀後半に入ると直線的で装飾的なゴシック様式に変わり、大きな窓が均等に並ぶルネサンス様式が支配的となった。一例が16世紀に建設されたヤーコポ・サンソヴィーノ設計のコルネール宮で、エントランスにポルティコ(列柱廊玄関)を設置したシンプルながら均整の取れたデザインとなっている。リヒャルト・ワーグナーが亡くなった場所として知られるカヴェンドラミン・カレルギー(現・カジノ・ディ・ヴェネツィア、ワーグナー博物館)はマウロ・コドゥッシの設計で、1481~1509年にルネサンス様式で建設された。同様のルネサンス建築はティエポロ宮やゾルジ・ガレオーニ宮、バルバリゴ宮、カメルレンギ宮などでも見られる。カ・ペーザロはヴェネツィア・バロックの第一人者であるバルダッサーレ・ロンゲーナ設計によるバロック様式の宮殿で、1710年に完成した。2~3階にイオニア式・コリント式の柱を多用したロッジアを備え、内部も著名な芸術家のフレスコ画や絵画で飾られている。カ・レッツェ(レッツェ宮)もロンゲーナの作品で、やはりバロック様式となっている。
代表的な公共施設として、国立マルチャーナ図書館が挙げられる。ヴェネツィア・ルネサンスの旗手ヤーコポ・サンソヴィーノの設計で1537~88年にサン・マルコ広場に隣接して建設された。イタリア最古の公立図書館でギリシア文学など古典研究の中心地となり、現在でも100万冊以上の蔵書を有するイタリア有数の図書館として知られる。サン・マルコ広場を取り囲む旧行政館や造幣局もサンソヴィーノのデザインだ。同広場にたたずむムーア人の時計塔(サン・マルコ時計塔)はルネサンスの建築家マウロ・コドゥッシの設計で1500年頃に完成した。頂部にはムーア人(イベリア半島のイスラム教徒)の彫像が打ち鳴らす鐘、その下にはヴェネツィアの象徴でもあるサン・マルコのライオン像、聖母子像のあるギャラリー、そしてラピスラズリの文字盤を持つ巨大な時計を掲げている。アルセナーレ・ディ・ヴェネツィアはヴェネツィア共和国が1104年に創設した国立造船所で、ガレー船を建造して海洋都市国家ヴェネツィアの繁栄を支えた。船だけでなく船に載せる大砲やそのための鉄、ロープや帆布などの生産も行い、製鉄所や織物場等も備えていた。ルネサンス様式のテッラ門や運河・水門・倉庫・工場などさまざまな施設が残されており、一部は海洋史博物館として公開されている。リアルト橋はヴェネツィア本島の大動脈であるカナル・グランデに架かる4基の橋のひとつで、12世紀頃に木橋が建設され、1588~91年にアントニオ・ダ・ポンテの設計で現在の石造アーチ橋に建て替えられた。全長48m・幅22.1m・水面からの最大高7.5mで、その美しい姿からヴェネツィアのひとつの象徴となっている。
118の島に建てられた町はラグーンの水面に浮かぶように築かれており、きわめて独創的で美しく、カナレット、フランチェスコ・グアルディ、ウィリアム・ターナーなど多くの芸術家に影響を与えた。ヴェネツィアのラグーンはトルチェッロ島のサンタ・マリア・アッスンタ聖堂から本島のサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂まで建築における傑作が世界でもっとも集中している場所のひとつであり、ヴェネツィア共和国の黄金時代はサン・マルコ大聖堂、ドゥカーレ宮殿、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂、サン・マルコ同信会館、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂、サン・ロッコ同信会館、サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂といった比類ない美しさを誇るモニュメントに代表されている。
建築と芸術の発展に対するヴェネツィアの影響はきわめて大きい。セレニッシマ(ヴェネツィア共和国)からダルマチア海岸の拠点を経て小アジアやエジプトへ航路が延びており、イオニア海やペロポネソス半島、クレタ島、キプロス島には明確にヴェネツィアに影響を受けた建造物が築かれている。
そしてまた海での力を失いはじめてからもヴェネツィアは偉大な画家のおかげでまったく異なる方法で影響力を行使しつづけた。ジョヴァンニ・ベッリーニ、ジョルジョーネ、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロといった画家たちは空間・光・色の認識を完全に変え、ヨーロッパの絵画と装飾芸術の発展に決定的な功績を残した。
その位置的な特殊性からヴェネツィアは東洋と西洋、キリスト教とイスラム教を結ぶ文化の結節点にあり、その影響は数千もの建築や芸術作品で確認することができる。
ヴェネツィアには共和国の栄華を示す比類ない建造物群が存在する。サン・マルコ広場とピアッツェッタ周辺のサン・マルコ大聖堂、ドゥカーレ宮殿、国立マルチャーナ図書館、コッレール博物館、旧行政館といったすばらしいモニュメントから13世紀の学校・病院あるいは慈善施設や協同組合、セスティエーレと呼ばれる6地区のカッリ(路地)やカンポ(建物に囲まれた広場)の控えめな住宅まで、ヴェネツィアは中世の建築の完璧な類型を示し、そうした価値は環境や位置といった特殊な条件に適応した都市構造の際立った特徴とリンクしている。
地中海において、ヴェネツィアの潟は不可逆的な環境変化や気候変動に対してきわめて傷つきやすい潟湖の生態系の際立った例である。この地では潮の干満に応じて海面に出たり沈んだりする泥の棚が生態系に対して島々と同様にきわめて重要や役割を果たしており、伝統的な杭上住居や漁村・田畑は宮殿や教会堂に劣らず保護される必要がある。
ヴェネツィアは自然の厳しさを克服しようという人類の英知の勝利を象徴しており、人類の歴史と直接的かつ明確に関連している。「海の女王」と呼ばれたこの都市は勇敢にも潟の島々で誕生し、その勢力は潟をはるかに越え、アドリア海や地中海の隅々にまで広がった。また、ヴェネツィア商人マルコ・ポーロ(1254~1324)が中国やアンナム(ベトナム中南部)、トンキン(ベトナム北部)、スマトラ、インド、ペルシアに向かって出発したのもヴェネツィアであり、アラブ人や後のポルトガル人のように、世界発見におけるヴェネツィア商人の役割を証明している。なお、マルコ・ポーロはサン・ロレンツォ教会に埋葬されている。
その地理的特性によりヴェネツィアとその潟に展開する居住地は建造物・住居構造・潟内部の相互関係を保ち、完全性を維持している。海が町を取り囲んで他の町との境を形成しており、ヴェネツィアはそうした境界を保ち、景観の特性や潟の環境とともに物理的・機能的関係を引き継いでいる。このため都市の構造と形態学的特性は中世ならびにルネサンス期とほとんど変わっていない。この事実は空間の形式的・組織的な概念と、際立った建築的価値を生み出した文化と文明の技術的・創造的技術のレベルの高さを証明している。多様なスタイルと歴史的な層化にもかからず、建物と構造は有機的に融合して一貫性のあるユニットとなっており、技術的・物理的特性と建築的・美的クオリティを独立した一貫性のある建築言語を通じて表現している。
ただ、伝統的な住宅が宿泊施設や商業施設になるなど、都市居住地では機能面で変革が起きている。きわめて高い観光圧力が人口の大幅な減少、多くの建物の使用目的の変化、伝統的な生産活動とサービスの置き換えをもたらし、歴史地区の都市機能が部分的に変わりつつある。こうした機能的変化は資産のアイデンティティや文化的・社会的完全性に深刻な悪影響を与える可能性があるため、管理計画の優先事項となっている。
アクア・アルタと呼ばれる異常な高潮は資産の文化的・環境的・景観的価値に対する脅威であり、ヴェネツィアの潟と歴史的居住地の保護と完全性に重大な脅威をもたらしている。こうした異常水位はモーターボートによって引き起こされる波の被害などとともに建物や都市構造の劣化と損傷の原因のひとつとなっており、海底と塩性湿地の侵食により潟の形態と景観にも大きな影響を与えている。ただ、現時点では資産の完全性が危機的状況にあるとまではいえず、特別なモニタリング・システムを含む管理計画の優先事項として認識されている。
資産は埋め立てや干拓といった増築部分はあるものの都市構造について中世とルネサンス期の形態的・空間的特徴を引き継いでおり、数多くのモニュメントと建築コンプレックスはその特性と真正性を維持している。同様に都市システムについても中世からルネサンスに至るレイアウト・居住様式・空間構成を保っている。建造物の復元について、地元の人々は伝統的な素材と工法にこだわり、保全基準の適用とそれぞれの歴史に応じた素材の回復・使用に多大な注意を払っている。資産の真正な文化的価値は伝統的な保全方法と修復技術の実践によってもたらされている。
他の潟の居住地でも真正性は高いレベルで維持されており、地理的な性格と特異性が保たれている。人々が何世紀にもわたって開発し、潟の景観を形作ってきた歴史的プロセスは、真正性と歴史的一貫性の中に目に見える形で保存されており、容易に認識することができる。