キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院

Kyiv: Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings, Kyiv-Pechersk Lavra

  • ウクライナ
  • 登録年:1990年、2005年軽微な変更、2019年名称変更、2021年軽微な変更、2023年危機遺産登録
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)
  • 資産面積:28.52ha
  • バッファー・ゾーン:476.08ha
世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院」、聖ソフィア大聖堂。左奥の建物はメトロポリタン宮殿
世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院」、聖ソフィア大聖堂。左奥の建物はメトロポリタン宮殿
世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院」、聖ソフィア大聖堂。中央がアプスに描かれた『オランス(祈りの聖母)』
世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院」、聖ソフィア大聖堂。中央がアプスに描かれた『オランス(祈りの聖母)』 (C) A-bg78
世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院」、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院の全景。中央右が高さ96.5mを誇る鐘楼、その右の黄金のドーム群がウスペンスキー大聖堂
世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院」、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院の全景。中央右が高さ96.5mを誇る鐘楼、その右の黄金のドーム群がウスペンスキー大聖堂 (C) Falin
世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院」、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院。右がウスペンスキー大聖堂(復元)、左はトラベズナ聖堂、その間に立つのが鐘楼
世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院」、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院。右がウスペンスキー大聖堂(復元)、左はトラベズナ聖堂、その間に立つのが鐘楼
世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院」、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院、ウスペンスキー大聖堂のイコノスタシス
世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院」、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院、ウスペンスキー大聖堂のイコノスタシス。一つひとつの絵がイコンで、至聖所のある内陣と外陣を分けるイコノスタシスを構成している
世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院」、ベレストヴォの救世主聖堂
世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院」、ベレストヴォの救世主聖堂 (C) Rasal Hague

■世界遺産概要

ウクライナの首都キーウ(キエフ)に位置する聖ソフィア大聖堂とキーウ・ペチェールスカヤ大修道院は11世紀、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)時代に創建された教会堂と修道院で、正教会の総本山であるコンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)を目指して建設が進められ、東ヨーロッパ社会にキリスト教が広がるきっかけとなった。構成資産は大聖堂・修道院の関連施設と、修道院隣接のベレストヴォの救世主聖堂の3件。

なお、本遺産は2005年と2021年の軽微な変更によりバッファー・ゾーンが拡大され、2019年の名称変更で英語のスペルがキエフ "Kiev" からキーウ "Kyiv" に改められた。

また、2023年にはロシアによるウクライナ侵攻の影響で危機遺産リストに登載されている。

○資産の歴史

東ヨーロッパにまだキリスト教が浸透していなかった10世紀。988年に洗礼を受けてキリスト教に改宗したキエフ大公国のウラジーミル1世はキリスト教を国教化し、ビザンツ(東ローマ)皇帝バシレイオス2世の妹アンナと結婚。そして帝都コンスタンティノープルに置かれていたコンスタンティノープル総主教の下に入り、正教会の組織を整備した。これによりキエフ大公国はヨーロッパ社会に認められ、ウラジーミル1世は後に聖人として列聖されて「聖公」の尊称を得ている。

キエフ大公国は急速にヨーロッパ化して正教会の信仰やビザンツ文化を取り入れた。11世紀前半、ウラジーミル1世は木造の聖ソフィア教会を建設し、息子ヤロスラフ1世はコンスタンティノープルのハギア・ソフィア大聖堂(現・アヤソフィア)を参考に石造で改築したという(異説あり)。

1051年には聖アンソニーと弟子の聖テオドシウスが洞窟で生活をはじめ、洞窟修道院を創設。やがて教会堂や僧院が建設され、ウクライナ語で「洞窟」を意味する「ペチェールス」を冠してキーウ・ペチェールスカヤ大修道院が誕生した。中世の修道院は住民に宗教だけでなく医療や教育・各種福祉・産業を提供する開拓組織であり、キエフ大公国の文化をリードして西洋化・文明化に大きく貢献した。修道士たちは聖アンソニーにならって地下通路を掘り、地下聖堂や瞑想室を作って修行を行った。

また、ウラジーミル1世やヤロスラフ1世は修道院に隣接したベレストヴォに大公宮殿を建設し、ウラジーミル家の宮殿コンプレックスとして整備した。救世主聖堂は12世紀はじめにウラジーミル2世モノマフが創建したとされるウラジーミル家の私設教会堂だ。

しかし、キーウは12世紀にウラジーミル・スーズダリ大公国、13世紀にモンゴル帝国の侵攻を受けて破壊された。特にベレストヴォの宮殿コンプレックスは1240年のモンゴル帝国バトゥの攻撃によって徹底的に破壊され、灰燼に帰した。聖ソフィア大聖堂も外壁はほとんど破壊され、宝物類が略奪されたが、ビザンツ様式のモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)やフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)は破壊を免れた。この侵攻によりキエフ大公国は滅亡し、キーウは急速に衰退した。

以降、キーウはリトアニア大公国やポーランド=リトアニア連合王国、ロシア帝国等の支配下に入って政治的重要性を失った。一方でキリスト教の聖地としてありつづけ、ウクライナの文化的中心を担った。17世紀、ウクライナの人々は「コサック」と呼ばれる共同体や共同体意識で結び付き、ヘーチマン国家と呼ばれる自治体を作った。キーウはウクライナ・コサックの中心となり、文化的繁栄を迎えてウクライナ・バロック様式のブームを迎えた。危機感を覚えたロシアはキーウを帝国の管理下に収めて政治運動を弾圧したが、キーウはロシア正教会の聖地でもあり、キリスト教を中心とした文化は衰えることはなかった。現在見られる聖ソフィア大聖堂やキーウ・ペチェールスカヤ大修道院、救世主聖堂の多くの建物はこの時代に築かれたものだ。

○資産の内容

世界遺産の資産は3件で、聖ソフィア大聖堂、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院、ベレストヴォの救世主聖堂となっている。

聖ソフィア大聖堂は1011年頃にウラジーミル1世が創建し、息子ヤロスラフ1世が1037年頃に石造で完成させたと伝わる教会堂だ。当時の建物は1240年のモンゴル軍総司令官バトゥによる襲撃で大きな被害を受けた。その後、修復されたものの、1482年にはタタール(モンゴル系)のクリミア・ハン国によってふたたび破壊された。再度修復された後、一時はローマ・カトリックに移行したが、1633年にウクライナ正教会が荒れていた大聖堂を入手し、イタリアの建築家オクタヴィアーノ・マンチーニに依頼してウクライナ・バロック様式で再建した。教会堂は54.6×41.7mの長方形で、内部に二重の回廊と中央にギリシア十字形の身廊を持つ内接十字式(クロス・イン・スクエア式)・五廊式・5アプス式の教会堂で、13のドームを頂いている。特筆すべきは内装のモザイク画とフレスコ画で、20世紀はじめの改修時に石膏層の下から発見された。バロック装飾を施す際に石膏で塗り固められたものと見られ、非常によい状態で保たれていた。身廊や内陣を彩るのは11世紀に描かれたビザンツ様式の黄金のモザイク画で、高さ5.45mに及ぶアプスの祈りの聖母マリア像『オランス』や、中央ドームの4人の大天使に囲まれたイエス像『全能者ハリストス(ハリストスは正教会でキリストを示す)』をはじめ、イエスや天使・使徒らの姿が描き出されている。フレスコ画もやはり11世紀までさかのぼるもので、外側の回廊や階段などに描かれている。聖書や聖人の物語から狩猟や音楽会・競技会など生活の様子を描いたものまで題材は多岐にわたり、特にヤロスラフ1世の家族を描いた『ヤロスラフ賢公の娘たち』と、キリスト教の棄教を拒否して亡くなった殉教者を描いた『セヴァストポリの40人の殉教者』は名高い。また、聖ソフィア大聖堂は大公家の墓でもあり、ヤロスラフ1世の石棺をはじめ数々の石棺を収めている。隣接する鐘楼は1699~1706年の建設で、4層の角楼で高さ76mを誇る。壁面は見事なバロック様式のレリーフで覆われており、18世紀に鋳造されたマゼパの鐘やラファエルの鐘をはじめ歴史的な鐘を有する。他に代表的な大聖堂の施設には、もともと修道院食堂だったトラベズナ聖堂(食堂聖堂)や、府主教の在所として使用されていたメトロポリタン宮殿(府主教宮殿)、18世紀後半に建てられた神学校であるブルサ、鐘楼と接続された南塔、ウクライナ・バロックの傑作として知られるザボロフスキー門などがある。

キーウ・ペチェールスカヤ大修道院は1051年に聖アンソニーとその弟子・聖テオドシウスが穴居生活を開始したことを起源とする修道院で、まもなく洞窟の上に木造のウスペンスキー聖堂(生神女就寝聖堂。正教会では生神女は聖母マリア、就寝はマリアの死や被昇天を示す)を建設したという。修道士たちは聖アンソニーらにならって地下通路を掘り、地下聖堂や瞑想室を作って修行を行った。地下通路は全長600m超に及び、幅1.0~1.5m・高さ2.0~2.5mほどで、聖アンソニー聖堂や聖バルラーム聖堂、十字架昇天聖堂といった地下聖堂や修道士たちの墓が築かれた。一方、地上の建物の多くは17~18世紀のウクライナ・バロック期に築かれたものだ。修道院の主要教会堂が1073~78年の建設と伝わるウスペンスキー大聖堂で、17~18世紀に再建されたが、第2次世界大戦中の1941年に爆破された。現在の建物は1990年代に再建され、2000年に奉献されたものだ。内接十字式のギリシア十字形の教会堂で、中央と四隅の5つのドームに加えて、ファサード(正面)にもドームが掲げられている。聖アンソニーと聖テオドシウスを祀る隣接のトラベズナ聖堂も12世紀の創建だが、19世紀に取り壊されており、現在の建物は1893~95年の再建だ。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)の三廊式で、内陣に巨大なドームを掲げている。いずれの教会堂もモザイク画やフレスコ画・絵画・イコノスタシス(身廊と至聖所を区切る聖障)をはじめ華麗なバロック装飾で覆い尽くされている。18世紀半ばに建設された大聖堂の鐘楼は高さ96.5mを誇り、完成当時はキーウでもっとも高い建造物だった。正八角形・4層で新古典主義様式とバロック様式の影響が見られ、2層にはドーリア式、3層にはイオニア式、4層にはコリント式の柱が見られる。修道院のメイン・ゲート上に位置する至聖三者大門聖堂は1106~08年の建設と伝わる教会堂で、17~18世紀にウクライナ・バロック様式の内接十字式で再建された。美しい門と教会堂で、また門は楽園に続く聖なる門とされたことから神聖視され、数多くの画家に描かれた。

修道院に隣接した救世主聖堂はウラジーミル2世モノマフが12世紀はじめに創建したと伝わる私設教会堂だが、モンゴル帝国やクリミア・ハン国の攻撃を受けて破壊された。現在の建物は1640~43年頃に再建されたものだ。外見からギリシア十字形が確認できる独立十字式(フリー・スタンディング・クロス式)の教会堂で、鐘楼は19世紀はじめに増設された。内部は見事なフレスコ画で彩られており、17世紀のフレスコ画はギリシアのアトス山(世界遺産)の画家のものと伝わっている。また、わずかに11〜12世紀のフレスコ画も残されている。

■危機遺産リスト登録理由

本遺産は2022年2月24日に開始されたロシアのウクライナ侵攻による潜在的な危険に脅かされていることから、2023年の第45回世界遺産委員会で危機遺産リストへの登載が決定された。

構成資産に対する直接的な攻撃は見られないものの、近郊へのミサイル攻撃による震動や衝撃・破片の影響を受けており、攻撃対象となる高いリスクを負っている。こうした危機に対して世界遺産委員会は懸念を表明し、ウクライナの保護・保全の取り組みを称賛しつつ、さらなる措置に対する支援を約束した。

なお、第45回世界遺産委員会ではウクライナの「リヴィウ歴史地区」と「オデーサ歴史地区」も危機遺産リストに登載されている。

■構成資産

○聖ソフィア大聖堂

○ベレストヴォの救世主聖堂

○キーウ・ペチェールスカヤ大修道院

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

本遺産は建築と装飾の両面で人類の創造的な才能を示す傑作である。

聖ソフィア大聖堂にはモザイク画とフレスコ画のすぐれたコレクションがあり、11世紀初頭の建築と芸術の独創性を証言している。特にアプスに描かれたモザイク画『オランス』はビザンツ美術の傑出した作品であり、階段塔の世俗的なフレスコ画などもユニークで、当時の神学的概念や生活の様子をよく表現している。また、平面プランは中央に五廊式の身廊を持つ内接十字式のクロス・ドーム・バシリカで、内部はビザンツ様式、外観はウクライナ・バロック様式という特有の様式を見せる。

キーウ・ペチェールスカヤ大修道院の建造物群はウクライナ・バロック様式の建物が連なるウクライナ屈指の芸術空間である。11~19世紀に築かれた地上と地下のユニークで多彩な建造物が含まれており、ドニプロ川を見下ろす美しい景観と調和している。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

本遺産はキエフ大公国、ビザンツ帝国、西ヨーロッパ諸国の文化的交流の成果である。また、建築と芸術はビザンツ様式をベースに地元の文化の影響を受けて独自の展開を見せている。一例がキーウ・ペチェールスカヤ大修道院の洞窟の地下教会堂や精神文化だ。また、同修道院のウスペンスキー大聖堂は12~15世紀に築かれた東ヨーロッパの教会堂のさきがけとなった。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

本遺産はキエフ大公国と周辺諸国のビザンツ文化の伝統に関する稀有な証拠である。この地で育まれた文化や宗教は数世紀にわたって東ヨーロッパの支柱となり、影響を与えつづけた。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

聖ソフィア大聖堂は建築と装飾に教会の特質を反映したユニークな建造物であり、その後のキエフ大公国と東ヨーロッパ社会の建築と芸術に決定的な影響を与えた。キーウ・ペチェールスカヤ大修道院は約9世紀をかけて形成された貴重な建造物群であり、建築の様式的変化と工学的発展を記録している。

■完全性

資産には顕著な普遍的価値を伝えるために必要なすべての重要な要素が含まれており、その特徴は維持されている。キーウ・ペチェールスカヤ大修道院は1926年、聖ソフィア大聖堂は1934年に国立の歴史・文化保護区に指定されて以来、法的保護を受けている。

聖ソフィア大聖堂はもともと広い視野を持つ開かれた都市環境の下で設計され、地域を統括する支配的な建築イメージで建設された。19世紀に大聖堂の設定は伝統的な都市構造の変化により変わっていった。

キーウ・ペチェールスカヤ大修道院の建造物群の完全性は第2次世界大戦で危機を迎え、付属教会であるウスペンスキー大聖堂は南東の塔を除いてほぼ破壊された。現在の建物は18世紀後半当時のウクライナ・バロック様式の復元で、1999~2000年に建設されたものだ。特に洞窟群は脆弱で、土壌の水分量などをつねにモニタリングして保存状態と予防措置の実施状況を監視する必要がある。

急速な都市開発、特に高層ビルの建設や、保護や保護システムの欠如は資産周辺を脅かす可能性があり、影響が懸念される。構成資産間の空間的なつながりや、周辺の都市・修道院の河川景観との関係性といった点でも、資産の完全性を保つために潜在的な脅威に対処する抜本的な計画が望まれる。

■真正性

資産はいずれも時代時代の改修や修復を受けているが、多くの建造物について修復は適切であり、オリジナルと同様の素材が使用されている。聖ソフィア大聖堂で行われた再建工事に対して1987年に「歴史的モニュメントの保護のためのヨーロッパ金メダル」が授与された。聖ソフィア大聖堂と関連修道院の建造物群は博物館として公開されており、教育やイベントに使用されている。

一方、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院は博物館として公開されているだけでなく、本来の目的である宗教行事も行われており、宗教的機能を維持している。

こうした建造物群を含む歴史的な景観は都市開発によって失われつつあるが、ドニプロ川沿いにたたずむキーウ・ペチェールスカヤ大修道院の伝統的なパノラマとシルエットは維持されている。

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