クリミア半島の南に位置するギリシア人入植地タウリカ・ヘルソネソス(ケルソネソス)の古代都市遺跡と周辺のホーラ跡、およびその文化的景観を登録した世界遺産。ホーラはポリス(ギリシア都市)を支えていた農業後背地で、構成資産はポリス跡と周辺のホーラ跡、計8件からなる。
タウリカ・ヘルソネソスでは石器時代と青銅器時代から集落の遺跡が出土している。大きく発達したのは紀元前5世紀頃で、ギリシア系ドーリア人が港を築いて黒海貿易の拠点とした。紀元前4~前3世紀には港湾都市として発達し、ポリスの周辺にブドウなどの栽培を行う「ホーラ」と呼ばれる農業後背地が開拓され、ギリシア時代には黒海最大のワイン生産地として名を馳せていたという。タウリカ・ヘルソネソスは海上貿易だけでなく、中央アジアの遊牧民族であるスキタイ人と貿易を行い、シルクロードの交易都市としても知られていた。しかし紀元前3世紀半ばからギリシアとスキタイの戦争が激化し、ギリシア勢力はクリミア半島から追放された。
紀元前63年、ローマがクリミア半島を征服し、タウリカ・ヘルソネソスを版図に収める。ローマはこの地を戦略拠点として整備し、港湾都市として再建した。しかしながらホーラにおけるワイン生産は下火になり、牧場や採石場として使用された。476年の西ローマ帝国滅亡後、タウリカ・ヘルソネソスはローマとビザンツ帝国(東ローマ帝国)の同盟都市となり、4~5世紀にキリスト教が広がると教会堂が建設された。7~9世紀にはビザンツ帝国の都市となり、貿易と手工業で繁栄した。9世紀にはハンガリー、ハザール、ペチェネグといったアジア系遊牧民族が進出して停滞した。
988年、ノルマン系のルーシ(国家)であるキエフ大公国(キエフ・ルーシ)のウラジーミル1世が9か月にわたってタウリカ・ヘルソネソスを包囲してこれを落とす。同年に洗礼を受けてキリスト教に改宗して国教化すると、ビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹アンナと結婚した。その際の洗礼が行わたといわれる場所に立つのが聖ウラジーミル大聖堂(聖ヴォロディームィル大聖堂/ヘルソネソス大聖堂)だ。また、ウラジーミル1世はキーウ(キエフ)に戻ってカイザリア聖堂や什一聖堂など数々の教会堂を築いて宣教に尽力した。これによりノルマン人のキリスト教化が進み、ヨーロッパ社会に広く認められた。ウラジーミル1世は後に聖人として列聖されて「聖公」の尊称を得ている。
タウリカ・ヘルソネソスはヴェネツィアやジェノヴァ(いずれも世界遺産)といったイタリア海洋都市国家と交易を行って繁栄するが、1202~04年の第4回十字軍でビザンツ帝国が滅んだ後に誕生した亡命政権であるトレビゾンド帝国やテオドロ公国の支配を受け、13世紀半ばにはモンゴル帝国のバトゥの侵略を受けて破壊された。その後、ジェノヴァやヴェネツィア、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)、クリミア・ハン国の版図に入るが衰退し、15世紀には放棄された。
タウリカ・ヘルソネソスは全盛期に1万ha以上の領地を持っていたが、世界遺産に登録されているのは約260haで、ポリス跡とその周辺のホーラ跡となっている。ポリス跡には二重の市壁があり、市内は碁盤の目状の方格設計で整然と整備されていた。ポリス跡に残っていた教会跡がウラジーミル1世が洗礼が受けた教会であると考えられ、1850年代に聖ウラジーミル大聖堂の建設がはじまった。1870年代に完成した大聖堂はビザンツ様式のギリシア十字式クロス・ドーム・バシリカで、設計は建築家ニコライ・チャギン、イコン(聖像)の絵は画家アレクセイ・コルズキンが担当した。地下教会にはウラジーミル1世の数々の聖遺物を収めており、ウクライナやロシアでは聖地として崇められている。これ以外にはギリシア神殿やテアトルム(ローマ劇場)、ワイン醸造所、要塞、塔、教会堂である1935年のバシリカやウヴァロフのバシリカなどの跡が発掘されている。
農業後背地ホーラは道路と区画壁によって400以上に均等に分割され、それぞれの区画で主にブドウが栽培されていた。灌漑システムが備えられ、要所には塔や砦が設けられた。一帯ではさらに以前にさかのぼる石器時代と青銅器時代の遺跡も発見されている。
本遺産は登録基準(iv)「人類史的に重要な建造物や景観」、(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていた。しかし文化遺産の調査・評価を行っているICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、(iv)のギリシア時代の方格設計の都市レイアウトについて歴史上の顕著な例でも重要な段階でもないとし、(vi)のキリスト教の普及に対する貢献についてはそれを実証する具体的な遺跡が不十分で、古代ギリシア神話における役割についてはさらに比較研究が必要であるとして認めなかった。
タウリカ・ヘルソネソスはギリシア、ローマ、ビザンツと黒海北部の住民との間で行われた交流に関する類を見ない物理的証拠を提供している。ポリスと周辺のホーラはこうした文化間の影響と交流の中心であり、この役割を千年をはるかに超える長期にわたって継続してきた。
ポリス跡に隣接するホーラは400以上に均等に区画整理されており、古代の土地割当システムを表現し、環境を利用した往時の農業景観を伝えている。壁・要塞・農場・レイアウトの遺跡はポリスの生活スタイルを具現化し、農作物などの変化に関わらず農業と景観の連続性を示している。
構成資産はポリス跡をすべて含むが、ホーラについてはすでに半分が都市開発で失われ、残っているもののうち一部が資産に含まれ、一部がバッファー・ゾーンに指定された。指定の範囲で顕著な普遍的価値を構成する十分な証拠が提供されるが、今後残りのホーラを資産に拡張することで完全性はさらに強化される。
ホーラに対する都市開発の影響は大きく、広範な景観に関して完全性は脆弱であり、無神経な都市開発やインフラ開発によるさらなる悪影響を防ぐために決定的で一貫した保護および管理メカニズムが必要である。タウリカ・ヘルソネソスの町はその価値を損なう侵略的な開発を経験しているが、そうした建造物のいくつかの移転は約束されている。
素材・デザイン・原料についてポリスとホーラに関する考古学的遺跡の真正性はよく保たれている。タウリカ・ヘルソネソス遺跡の40haのうち約10haが発掘され、町の歴史と発展についての理解が深まった。一方ホーラでは発掘がほとんど進んでいないが、その構造とレイアウトについてはよく理解されている。アナスティローズ工法(できるかぎり元の建築要素を利用して再建する工法)が採用されたいくつかのケースを除き、大きな修復や保護プロジェクトは実施されておらず、このため素材と原料の真正性は高いレベルで維持されている。形状とデザインの真正性は都市レイアウトとホーラの区画区分との関係で十分に保持されている。配置とロケーションに関する真正性については古代都市の一部を破壊した20世紀建築だけでなく、ホーラの遺跡近郊への都市の進出とインフラ・プロジェクトによっても影響を受けている。こうした脅威はヨット・クラブと関連建造物の現在地からの移転や、大聖堂を考古学遺跡の中に統合する施策などによりできる限り減らすことができた。