オランダの英語の正式名称は「オランダ王国 "Kingdom of the Netherlands"」だが、"Netherlands" はオランダ語の「ネーデルラント "Nederland"」に由来し、「低地の国」を意味する。オランダの代表チームは "NED" の他に "PBA" と略されることもあるが、これはフランス語の "Pays-Bas" やイタリア語の "Paesi Bassi" といったラテン語の派生言語に由来し、やはり「低地の国」を意味している。
「まことに世界は神がつくり給うたが、オランダだけはオランダ人がつくったということが、よくわかる」(司馬遼太郎『オランダ紀行』)といわれるように、オランダの国土の1/3は海抜0m以下の低地だが、こうした低地の国を可能にしたのが「干拓」だ。干拓とは、海を堤防で囲み、内部の海水を排水して海底を陸地にすること。スホクラントはゾイデル海に浮かぶ島だったが、1942年にノールトーストポルダーの干拓事業で周囲が干拓地となって陸続きとなり、農業地帯へ変貌を遂げた。スホクラントは6,000年にわたるオランダの水との戦いの象徴なのである。
氷河時代、スホクラント周辺は氷河に覆われていた。最終氷期に氷河が溶けるとスホクラントは小高い丘になり、氷河に削られた周囲は泥炭地や砂地・湿地になった。海水面はいまよりかなり低く、ゾイデル海の場所にはフレヴォ湖と呼ばれる湖があり、はるか沖まで陸地が占めていた。紀元前10000年の後期旧石器時代の定住跡が出土しており、紀元前1800~前420年ほどには農業が行われていた。
中世、湖はアエルミア湖と呼ばれていた。湖の面積は拡大し、短い川で北海と結ばれていたが、まだ淡水湖だった。しかし、800~1200年に気候が温暖化して海面水位が上昇。嵐になると海と陸を隔てる泥炭地がさらわれ、海水が流入して土地が破壊されるようになった。12~13世紀には数千~数万人の死者を出す大洪水にたびたび襲われ、やがて内陸の湖は湾になり、ゾイデル海が誕生した。土地を盛り上げてテルプと呼ばれる人工島を造ったり、テルプを結んで堤防を築いたりしていたが、これらの多くが失われた。
スホクラントや周辺の島々でもより高いテルプや堤防を築いて対応したが、海の侵食は進んだ。1804年にはスホクラントの島全体を保護する石の堤防が建設されたが、嵐や流氷にたびたび破壊された。1825年の大洪水ではスホクラントの島全体が浸水し、灯台と2km以上の護岸が破壊された。1859年、ついにオランダ政府はスホクラントの放棄を決定。これを受けてミデルブールトやエメロールト、エンスといった町から約650人の住民が退避し、周辺の村々に移住した。退避前に建物のほとんどは取り壊されたが、ミデルブールトの教会など一部の建物はそのまま残され、沿岸警備隊のビルなどに転用された。
19世紀後半、高潮防止と干拓開発を目的にゾイデル海を堤防で封鎖する計画が進められ、1918年にゾイデル海開発計画(レリー計画)が採択された。1927年にゾイデル海の出口にあたるワッデン海の浅瀬に大堤防アフシュライトダイクの建設がはじまり、1932年に全長32.5km・幅90m・高さ7.8mの堤防が完成した。そしてゾイデル海は淡水化されてアイセル湖となり、海面下6mほどまで水位が下げられた。
続いてウィーリンゲルメール、ノールトーストポルダー、東フレヴォランド、南フレヴォランドの干拓が開始された。スホクラントを含むノールトーストポルダーには31.5kmの堤防が建設され、1940年に堤防がすべて接続され、1942年に排水が完了した。これによりスホクラントはノールトーストポルダー市の自治体となり、島は広大な農場に浮かぶ丘となった。資産内には160以上の古代遺跡があり、島だった頃の堤防やテルプ、港、教会堂・住宅跡や町のレイアウトが残されており、現在の新市街に引き継がれている。
なお、アイセル湖(ゾイデル海)の出口にはワッデン海の干潟が広がっているが、こちらは「ワッデン海(オランダ/デンマーク/ドイツ共通)」として世界遺産リストに登録されている。
本遺産は登録基準(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていたがその価値は認められなかった。
海による一時的あるいは恒久的な侵食の絶え間ない脅威の中で、湿地集落の不安定な生活に適応した先史時代および歴史時代初期の社会の証拠を伝えている。
オランダ人の水に対する絶え間ない戦いの一部であり、20世紀でもっとも偉大でもっとも先見の明のある成果のひとつである旧ゾイデル海の開拓の結果として誕生した農業景観である。地域の歴史は住宅群や墓地・テルプ・堤防・区画システムなどのある小さな地域によく示されている。
1942年以降、農業用に開発された人工的な干拓地だが、島の輪郭はハッキリと維持されており、堤防やテルプなどさまざまな遺跡が残されている。島だった地域の全域と周辺が資産となっており、先史時代の定住地の痕跡や建造物群、東部の4つのテルプ、干拓地の土地区画、島の周囲の緑のエリアなどにより、スホクラントの歴史のすべての段階が確認できる。ただ、こうした遺跡を守るために排水システムと農業を管理する適切な監視体制が必要である。
本遺産の真正性は存在そのものにあり、水に対するオランダの戦いを象徴するものである。スホクラント周辺には先史時代の入植地・堤防・テルプなど少なくとも152の遺構があり、これらは島だった頃の輪郭を示し、6,000年にわたる生活と時間の経過とともに失われていく土地の様子を表している。島自体は今日でも完全に本物である。
初期の建物にはオランダ改革派教会や隣接する大臣の家(1834年)、復元されたミデルブールトのアイスボートのためのボートハウスなどがあるが、他の建物はすべて1859年の避難後に取り壊されている。ミデルブールトのスホクラント博物館にある木造建築は1980年頃の伝統的なゾイデル海様式の建物と納屋のレプリカだ。エメロールトでは灯台守の家(1882年)や霧信号所(1921年頃)が保存されている。たとえば堤防のあるエメロールトの港やミデルブールトの擁壁、南のテルプにある古い灯台の基礎、南端の教会堂の基礎など、特徴的な構造は一部再建・復元されている。ミデルブールトの教会については専門の会社がもともとの素材を用いて完全に復元しており、オリジナルではないものの当時の家具も配されている。現在使用されている港・防波堤・灯台については現行の法律に従って再建されている。