ベームステル湖はアムステルダム以北、北海とアイセル湖(淡水化される前はゾイデル海)に挟まれたノールデルクワルティア地方最大の水域で、17世紀に風車で排水してベームステル干拓地となった。ルネサンスの幾何学的なレイアウトに沿って畑や道路・運河・堤防・集落・樹木が配されており、牧歌的な文化的景観を奏でている。
オランダは古くから埋め立てと干拓(海を堤防で囲み、排水して陸地化すること)によって居住が可能になった。現在340万haの国土うち1/3は海面下にあり、堤防がなく排水をしなかった場合、65%が浸水するといわれている。
ノールデルクワルティアは養分豊富な泥炭地(植物の死骸が完全に腐る前に堆積した土地)で、ドンクと呼ばれる丘の上に居住がはじまり、畑を開墾して定住生活を行った。土地が低かったため嵐によって容易に水没し、また開墾による地盤沈下や川の水位上昇によっても浸水したため数多くの堤防や水路が建設された。15世紀に風車を利用した排水システムが登場し、16世紀に風車の改良が進むと池や湖を排水して土地を埋め立てた。北海沿いの沿岸がすべて堤防で結ばれると埋め立てや干拓はさらに活発化した。
1600年前後にフランドルの物理学者シモン・ステヴィンが風車3~4基のネットワークを用いた排水方法を考案すると、大きな湖の排水が可能になった。ベームステル湖は7,208haに及ぶノールデルクワルティア最大の水域で、16世紀に排水プロジェクトが始動した。アムステルダムやハーグの役人や商人123人が出資してベームステル社が設立され、1607年に排水権が与えられた。同年に測量や設計が開始され、15基の風車網を構築して排水を行った。排水は1612年に完了して干拓地が誕生し、出資者には17%の利益が配分された。
ベームステル干拓地は湖の輪郭を維持した海面下最大4m・最小3mの低地で、周囲を環状堤防と3つの水門を持つ環状運河で囲まれている。風車によって汲み上げられた水は水路を通ってワッデン海(世界遺産)やゾイデル海(アイセル湖)に排出された。耕作地や道路・水路はルネサンスの幾何学的なレイアウトを理想として設計された。まず900×180mの細長いロットをベースとし、この短辺に排水路とアクセス用道路が配された。そして5つのロットを並べて900×900mの正方形のユニットを構成し、4つユニットを大ユニットとした。こうした正方形の辺は海岸線と平行あるいは垂直に設定された。現在でもその幾何学的構造を視覚的に確認することができる。
干拓地はもともと穀物生産に使用されたが、排水が十分でなかったため土壌が適さず徐々にウシを繁殖させる牧草地に転用された。19世紀後半に3か所の蒸気式ポンプ場が導入されるとより深い排水が可能になり、耕作地や牧草地としてはもちろん、温室園芸や果樹栽培が並行して行われるようになった。20世紀に入るとディーゼル発電に置き換えられ、現在は2か所の完全自動のディーゼル式ポンプ場で排水されている。農場にはシュトルプボエデリと呼ばれるピラミッド形の巨大な寄棟屋根を持つユニークな小屋が残されている。一方、町には裕福な商人によるマリエンフーベルやボシュレイクなどのカントリーハウス(貴族や富農が地方に築いた豪邸)が建設され、対照をなしている。
干拓地の開発に伴って5つの居住地が計画されていたが、実際には3つ、中央にミッデンベームステル、北西にウェストベームステル、北東にノールトベームステルが開発された。その後、南東のザイドーストベームステル(オーストベームステル)や西のクラーテルブールトなど周辺部の開発が進んだ。これらの町を通るように大きな道路が整備され、道路や堤防の脇にはポプラなどの樹木が植えられた。もっとも栄えた町はミッデンベームステルで、オランダの建築家ヘンドリック・デ・ケイゼルが設計したプロテスタントのヘンドリック・デ・ケイゼル教会(現・ベームステル教会)や鍛冶屋・学校・画家カレル・ファブリティウスの生家などが残されている。ウェストベームステルはローマ・カトリックのコミュニティが設立された場所で、修道院や教会が築かれた。ノールトベームステルはもっとも小さな村で、農業集落として建設された。ザイドーストベームステルはもともと園芸エリアで、19世紀半ばから定年した農民が暮らす落ち着いた居住地となった。近郊のハルフウェフは古い労働者エリアだ。ハルフウェフのネッケル通り沿いにある要塞はアムステルダムを守る要塞網のひとつで、干拓地の南西から南東にかけて点在する5基の要塞(スパイケルボール付近の要塞、イスペル通り沿いの要塞、ミッデン通り沿いの要塞、ネッケル通り沿いの要塞、プルメレントの北要塞)は世界遺産「オランダの水利防塞線群」の構成資産でもある。
ベームステル干拓地は人類の創造的な才能を示す傑作であり、古代とルネサンスの理想が干拓地に集約され美しい景観を生み出した。
ベームステル干拓地の革新的で創造力に富んだ景観はヨーロッパや世界の開拓プロジェクトに深く永続的な影響をもたらした。
ベームステル干拓地の建設は人類が社会的・経済的飛躍を遂げる重要な時期において、人類と水の関わりに大きな進歩をもたらした。
1612年に排水がはじまって以来、ベームステル干拓地は堤防で区切られた独立した地理的・行政的単位となっている。いまだ残る堤防がベームステルの自治体の境界を構成し、農業景観として関係と機能を維持するために必要なすべての要素、干拓地のグリッドパターンや合理的なレイアウト、木々が並ぶ道路パターン、水路と環状堤防を備えた環状運河の平面構成、プロットのサイズ、建設の規模、農場の場所とスタイル、歴史的集落の構造などを含んでいる。
一帯の景観は以前のまま変わっていないわけではない。庭園を備えた多くの住宅が残っているが、18~19世紀に約50棟の伝統的な家々が取り壊されて農場に替わった。当時の記念碑的な入場ゲートが一帯の場所を示している。
水位制御の方法も時間とともに変化した。19世紀後半には約40基の風車が3か所の蒸気式ポンプ場に置き換わり、後にディーゼル発電に移行し、そのうちの2か所は現在、電動化・完全自動化されている。
開発は規制されており、資産に対する脅威は特に確認されていない。洪水などの自然災害は、1932年に大堤防アフシュライトダイクが建設され、ゾイデル海がワッデン海から分離されてアイセル湖となって以来、減少している。観光についても資産の脅威とはなってはいない。
ベームステル干拓地の建設以来、根底にある概念や建築コンセプトに本質的な変更はなされておらず、農場のサイズや土地区画に関する主要なデザイン的特徴、たとえば木々が並ぶ水路と道路のパターン、環状堤防と環状運河、村の歴史的構造と場所、道路沿いの農場の帯状区画の開発といったものは手付かずで維持されている。これは17世紀に描かれたバルタザール・フロリス・ファン・ベルケンローデの銅版地図レリーフなどでも証明されている。
干拓地の農業利用は継続されており、景観の視覚的な広がりや開放性はほとんどどこからでも確認することができる。ただ、穀物の耕作地は徐々に牧草地などへ転換されており、酪農や温室園芸・果樹栽培・球根栽培などに使用されている。建築においてレンガや木材などの伝統的な素材がいまも使用されており、住宅の屋根の傾斜などについても伝統的な形状が尊重されている。