紀元前5世紀後半、アケメネス朝ペルシアに対する勝利を記念してギリシア都市国家アテネ(アテーナイ)の中枢に築かれた古代ギリシア美術・建築の最高峰が集う神殿コンプレックス。アクロ=高所・頂上、ポリス=都市で「頂(いただき)の都市」を意味する。高さ156m・平面170×350mほどの丘の上にはプロピュライア、パルテノン神殿、アテナ・ニケ神殿、エレクテイオンをはじめ数多くの遺構が立ち並んでいる。
西を除く3方を断崖に囲まれたアクロポリスの丘は紀元前2000年紀から城塞として使用されていた。紀元前1600年にはミケーネ文明を担ったミケーネ人が進出して宮殿や礼拝堂を建設し、紀元前1200年頃には麓にペラスギコンと呼ばれる城壁が建設された。紀元前8世紀に女神アテナの神殿が築かれ、紀元前6~前5世紀には数々の神殿を有する聖域として崇拝されていた。アテナはポリスの守護神として広く信仰されていた女神で、ヘシオドス『神統記』やアポロドロス『ギリシア神話』では全知全能の神ゼウスの頭部から鎧をまとった姿で誕生したとされ、戦略や知恵・芸術・工芸を司るオリュンポス12神(聖山オリュンポスに住む神々)の1柱に数えられている。
都市国家アテネはオリーブやブドウといった果樹栽培と銀の採掘によって成長し、やがてスパルタなどと並んでギリシア最大のポリスへと発達した。しかし、アケメネス朝ペルシアのギリシア侵略がはじまってペルシア戦争(紀元前499~前449年)が勃発すると、ギリシアの諸ポリスは存亡の機を迎える。紀元前480年、ペルシア皇帝クセルクセス1世は最大50万といわれる大軍勢を率いて来襲したのに対し、スパルタ王レオニダス率いるギリシア連合軍はわずか数千~1万程度にすぎなかった。テルモピレーの戦いでギリシア連合軍を打ち破ったペルシア軍はポリスを破壊しながら進軍し、ついにアテネを占領してアクロポリスを徹底的に破壊した。追い込まれたギリシア連合軍だったが、アテネ海軍の活躍もあって同年のサラミス海戦で奇跡的な勝利を収め、翌年のプラタイアの戦いにも勝利してペルシア軍をバルカン半島から駆逐することに成功した。
ペルシア戦争に勝利した諸ポリスはペルシア軍の再来に備え、サラミス海戦等で絶大な戦力を見せつけたアテネを盟主にデロス同盟を結成する。政治家ペリクレスはデロス同盟諸国から集めた資金を投入してアテネの再興を図り、アクロポリスの再建を開始した。ペリクレスは紀元前443~前430年のあいだストラテゴスと呼ばれる将軍職に就き、アテネを中心にギリシアの帝国化を推し進め、アテネの黄金時代「ペリクレス時代」を築き上げた。ペリクレスによるアクロポリスの再建は彫刻家フェイディアスが指揮を執り、建築家イクティノスやカリクラテスらの指導の下で進められた。
アクロポリスの中心的な建物が白大理石で築かれた白亜のドーリア式(ドリス式)神殿、パルテノン神殿だ。アテナに捧げられた「処女宮」を意味する神殿で、基壇は69.5×30.9m、ファサード(正面)に8本の柱が連なる八柱式で、長辺には17本、計46本の柱が取り囲む周柱式となっている。中心部は本殿=ナオスと後殿=セコスからなり、かつてナオスには黄金と象牙によって作られたフェイディアス作のアテナ・パルテノス像が収められていた。パルテノン神殿はきわめて美しい外観を持つが、ファサードの四角形が黄金長方形(長辺:短辺がおおよそ1:1.618の長方形)であるなど黄金比を多用しているうえに、人間の視覚のクセを矯正する「リファインメント」と呼ばれる微妙な調整が貢献しているといわれている。具体的には、基壇は中央がやや盛り上がっており、外側の柱は垂直ではなくわずかに内側に傾き、柱と柱の間(柱間)は外側ほど広く、円柱はまん中よりやや下を膨らませ(エンタシス)、四隅の柱がわずかに太くなっているなど、きわめて繊細な調整が施されている。かつてはペディメント(頂部の三角破風部分)やフリーズは極彩色の彫刻やパネルで彩られていたが、神殿が倒壊すると徐々に失われていった。彫刻や彫刻パネルは現在、アテネの新アクロポリス博物館を中心に世界中の博物館に散在している。特に19世紀にイギリスの外交官であるエルギン伯トマス・ブルースがイギリスに持ち帰った彫刻群は「エルギン・マーブル」と呼ばれ、大英博物館の目玉のひとつになっている。
プロピュライアは「前門」を意味し、アクロポリスへ通じる唯一のルート上に重厚な門塔として立ちふさがっていた。建築家ムネシクルスの設計で、柱はパルテノン神殿と同様ドーリア式、中央通路両側にはイオニア式の列柱が立ち並んでいた。「アクロポリスでもっとも華麗な建物」といわれたが、17世紀にオスマン帝国の弾薬庫として使用され、1656年に弾薬が爆発して倒壊した。
プロピュライアに隣接するアテナ・ニケ神殿はイオニア式の神殿で、「ニケ」は勝利を意味し、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との戦い=ペロポネソス戦争(紀元前431~前404年)の勝利を祈願してアテナに捧げられた。周柱式ではなく前後に列柱を備えたアンフィプロスタイルのイオニア式神殿で、ドーリア式のパルテノン神殿やプロピュライアと比べて細く高い柱を特徴としており、繊細で女性的な美しさを誇るイオニア式の美しさが確認できる。
イオニア式を極めたプロスタイル(前柱式)の神殿がエレクテイオンだ。かつてのアテネの名君エリクトニオスに捧げられた神殿で、当時ナオスにはエリクトニオス、アテナ、ポセイドンの3つの像が収められていた。エレクテイオンは中心となる神殿の南北に高さの異なるポーチを取り付けた複雑な形を取っており、「乙女のポーチ」と呼ばれる南ポーチは6体の女人像柱=カリアティードで支えられている。ただし、現在のカリアティードはレプリカで、オリジナルのうち5体はアテネの新アクロポリス博物館、1体はロンドンの大英博物館に収められている
これ以外の建築物や構築物としては、かつてアクロポリスにそびえていたという高さ9mほどのアテナ・プロマコス像、医学の神アクスレピオスを祀ったアスクレピオス神殿、約5,000人を収容したオデオン(野外音楽堂)のヘロディス・アティコス音楽堂、15,000人前後を収容したテアトロン(ギリシア劇場)であるディオニュソス劇場、全長163mの列柱廊跡・エウメネスの柱廊などが知られている(音楽堂や劇場は世界遺産資産外でバッファー・ゾーンに位置する)。
ペリクレスは「地上のゼウス」と呼ばれるほどの力を誇ったが、民主主義を促進したことでも知られている。民会(国会)を結成し、18歳以上のすべての男性市民に民会への参加を認めて直接民主制を完成させた。といっても女性に参政権はなかったし、最盛期の人口20~30万人のうち1/4~1/3を占めていたのは奴隷だった。アテネの富はデロス同盟の資金と奴隷労働によって支えられていた。こうした民会が行われていたのがアクロポリスの北西に位置するアゴラ(公共広場)で、アゴラ周辺に議会や裁判所などの行政施設やヘファイストス神殿などの神殿群が置かれていた(これらもバッファー・ゾーン内)。
ギリシアで勢力を増すアテネとデロス同盟に対し、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟が結成され、紀元前431年にペロポネソス戦争が勃発。紀元前前404年のアテネの降伏をもってスパルタの勝利に終わり、アテネの黄金時代は終わりを告げた。
アクロポリスはローマ時代、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)時代を通じて聖域として祀られていたが、ローマ神殿やキリスト教会として改修され、内部の宝物や彫刻類は持ち去られた。17世紀のオスマン帝国時代にアクロポリスは要塞として使用されたため敵国の砲撃の標的となり、多くが破壊された。
アテネのアクロポリスは自然環境に適応した建築の最高の表現である。彫刻家フェイディアスの協力を得て建築家イクティノスとカリクラテスが設計を進めたパルテノン神殿、建築家ムネシクルスによるプロピュライア、ムネシクルスとカリクラテスによるアテナ・ニケ神殿およびエレクテイオン……アクロポリスに立ち並ぶこうした紀元前5世紀の建造物群は見事に調和しており、きわめて独創的な美しさを誇る記念碑的な景観を見せている。
アテネのアクロポリスのモニュメントは古代ギリシア・ローマ時代のみならず現代においても模範的な建築モデルとされ、並外れた影響力を及ぼしている。世界中の新古典主義様式のモニュメントはすべてのアクロポリスのモニュメントに触発されている。
神話から制度化された儀式まで、アテネのアクロポリスはその正確性と多様性において古代ギリシアの宗教に関するユニークな証拠を提示している。特にアテナに捧げられた神殿はさまざまな神話や伝説の元となり、アテナはその後、都市の女神(アテナ・ポリアス)、戦争の女神(アテナ・プロマコス)、勝利の女神(アテナ・ニケ)、工芸品の女神(アテナ・エルガネ)などとして崇められた。こうした女神アテナ信仰の中心にある神殿がパルテノン神殿である。紀元前6世紀頃に生まれたこうした神話や信仰はさらに多彩な神殿や祭壇・奉納品を生み出し、アテネの宗教に豊かさと複雑さをもたらした。
アテネのアクロポリスは紀元前16世紀以降の重要な歴史的段階を示す建築アンサンブルの傑出した例である。紀元前1600~前1100年にはミケーネ人が進出し、アクロポリスは要塞や城壁に守られた宮殿を含む城塞として整備された。アクロポリスのモニュメントは紀元前5世紀に頂点を迎え、そのユニークな構造・デザインによって古代ギリシア建築の最盛期を切り拓いた。
アテネのアクロポリスは世界の歴史の中で色あせることのない出来事やアイデアと直接かつ具体的に関連付けられている。一例がペルシア戦争のサラミス海戦で奇跡の勝利を招き寄せたアテネの軍人テミストクレスや民主主義の確立に貢献したペリクレスであり、アクロポリスはこうした功績を雄弁に物語っている。また、ソクラテスやプラトン、デモステネスといったアテネの哲学者や、イクティノス、カリクラテス、ムネシクルスといった建築家、あるいはフェイディアス、アゴラクリトゥス、アルカメネスといった芸術家の仕事を伝えており、人類の文化遺産のきわめて重要な部分を証言している。
アテネのアクロポリスは状態のよい独創的ですばらしい建造物群であり、資産には顕著な普遍的価値を伝えるために必要なすべての重要な要素が含まれている。古代の建築技術の高い完成度のおかげでモニュメントの自然な経年変化に対しても高い耐性を備えており、避けられない劣化にもかかわらずその美しさを保持し、計り知れない芸術的・歴史的価値をいまに伝えている。また、民主主義や哲学に関する出来事やアイデアと直接かつ具体的に関連付けられたすべての特徴を維持している。紀元前5世紀から今日に至る歴史的な動きによって大規模な損傷がもたらされたが、現在進行中の修復と保全作業によりモニュメントの安定性や可読性が向上している。
古代ギリシアの芸術・建築で彩られたアクロポリスの真正性は高いレベルで保持されており、モニュメントの真正性と構造的な完全性を維持するために1975年に開始された統合的な介入は今日も続けられている。修復作業は明確な理論的・学術的根拠に基づいており、ヴェネツィア憲章(建設当時の形状・デザイン・工法・素材の尊重等、建造物や遺跡の保存・修復の方針を示した憲章)に従って行われている。人的介入は不可欠なものに限定されており、古代の構造やデザインを尊重しつつ、可逆性の原則に沿って実施されている。さらに、修復作業に使用される工法や用具は古代の職人のものを流用しており、劣化した場所の修復に使用される白大理石は古代と同じペンテリ山から採石されている。そのため修復箇所はモニュメントのオリジナルの部分と完全な互換性を有している。