コルフ島はギリシアとアルバニア国境付近、イオニア諸島の中ほどに位置し、アドリア海の入口に浮かんでいる。アドリア海最奥部に位置する海洋国家ヴェネツィア共和国は島の中央東岸付近の港湾都市コルフ(ギリシア名ケルキラ)に堅固な要塞を築き、15世紀からおよそ4世紀にわたってオスマン帝国に対する最前線の防衛拠点として整備した。
コルフは紀元前8世紀頃にギリシア世界に組み込まれ、紀元前734年にコリント人が植民都市ケルキラを建設した。町は南イタリアのギリシア勢力圏マグナ・グラエキアとの貿易で発達し、ローマ時代にはローマ(世界遺産)やナポリ(世界遺産)との貿易で繁栄した。ローマ帝国が分裂するとビザンツ帝国(東ローマ帝国)領となり、やがてゴート人やノルマン人の圧力や侵略を受けて要塞が築かれた。旧市街の旧要塞のある岬には6世紀半ばにゴート人がはじめて砦を築いたといわれている。
7世紀に成立したヴェネツィア(世界遺産)は9~10世紀に海賊やイスラム教勢力を一掃してアドリア海の制海権を掌握し、イオニア海やエーゲ海に進出する。ビザンツ帝国の海上防衛を担当すると西アジアとの東方貿易(レヴァント貿易)で優位に立ち、香辛料や金を輸入して繁栄し、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ(いずれも世界遺産)と並ぶイタリア4大海洋都市国家に成り上がった。ヴェネツィアは第4回十字軍(1202~04年)でビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)を襲撃して一旦はこれを滅ぼし、コルフ島を含むエーゲ海とイオニア海の多くの島々や沿岸都市を手に入れた。この後、コルフ島はエピロス専制侯国やナポリ王国の支配を受け、混乱の中で城や要塞が強化された。一例が現在の旧要塞の岬に立つマーレ城やテラ城、コルフ島北西部のアンジェロ城、北東部のカシオピ城、中部のガルディキ城だ。ヴェネツィアはナポリの国内紛争に乗じて1386年にふたたびコルフを占領し、以後1797年まで支配を続けた。
イスラム王朝であるオスマン帝国は14世紀にすでにトラキア(アナトリア半島と隣接するバルカン半島南東部)などバルカン半島の一部を支配していたが、1453年にビザンツ帝国を滅ぼすと本格的にヨーロッパ進出に乗り出し、15世紀後半にはバルカン半島の多くを制圧した。16世紀前半、オスマン帝国はイランのサファヴィー朝やエジプトのマムルーク朝といった大国と戦っており、ヨーロッパ方面にはさほど目を向けなかった。しかし1520年に即位した皇帝スレイマン1世の時代に最盛期を迎え、1526年にハンガリーを占領し、1529年には神聖ローマ帝国の帝都ウィーン(世界遺産)を襲撃して包囲した(第1次ウィーン包囲)。
ヴェネツィアはこうしたオスマン帝国の圧力に対して最前線であるコルフの防衛力強化を図った。15世紀に岬に要塞やドック・岩壁・兵器庫といった港湾施設を整備し、16世紀はじめには岬の付け根にコントラフォッサと呼ばれる運河を築いて島から切り離し、城壁と堀(運河)で守られた難攻不落の要塞とした。1537年にオスマン帝国によって包囲されたが城内への侵入は許さず、これを撃退した。ただ、城内に入れなかった多くの市民が殺害され、奴隷として連れ去られた。戦後、ヴェネツィアはヴェロネーゼの建築家ミケーレ・サンミケーリに依頼して要塞の改造を行い、運河に沿ってふたつの稜堡を設置した。1571年、ふたたびオスマン帝国の来襲を退けたものの、やはり城外の町は破壊された。
これを受けてヴェネツィアは町全域を取り囲む壮大な都市改造に着手する。イタリア・サヴォイア家の建築家フェランテ・ヴィテッリの計画に基づいて市街を巡る市壁と堀を築いて4つの城門を設置し、北西に新要塞を建設した。さらに17世紀に建築家フィリッポ・ヴェルナダが改修を行うなど時代時代の増改築を受けた。1716年にオスマン帝国が襲来するとコルフを包囲し、新要塞の西のアヴラミの丘と南のサロッコの丘を占領して砲撃を行った。包囲は7週間に及んだがついに帝国軍は撤退し、コルフはオスマン帝国の襲撃を凌ぎ切った。戦後、ヴェネツィア軍司令官ヨハン・マティアス・フォン・ダー・シュレンブルクは最後の改修を行い、アヴラミ、サロッコ、サルヴァトーレなどの丘に砦を築き、城壁を改修した。
1797年、ヴェネツィアはナポレオンのフランスに降伏し、フランスとオーストリアで結ばれたカンポ・フォルミオ条約によって共和国は消滅し、オーストリアに吸収された。この過程でコルフはフランス領となり、ロシア、オスマン帝国領を経て1814年にイギリスの手に渡った。1821年にギリシアが独立すると1864年にイギリスからギリシアに委譲された。このとき新旧要塞の武装解除が行われ、城壁や一部の施設が解体された。1923年のコルフ事件(アルバニアを巡ってイタリアとギリシアが対立した事件)や1943年の第2次世界大戦の爆撃で大きな被害を受けたが、それでも旧市街は中世・近世・近代が混在する美しい街並みをいまに伝えている。
世界遺産の資産はおおむね東の旧要塞から西の新要塞までで、間の旧市街全域が地域で登録されている。
旧要塞はコントラフォッサより東の岬部分で、全体を巡る城壁と、テラとマーレのふたつの峰を守る城壁(テラ城、マーレ城)という二重の城壁で囲まれている。城壁や要塞はヴェネツィア時代のものがよく残されているが、建物の多くは19世紀にイギリスが建設したもので、刑務所・火薬庫・病院・兵舎・聖ゲオルギオス聖堂などが伝えられている。ドーリア式(ドリス式)のギリシア神殿を模した聖ゲオルギオス聖堂は19世紀前半にジョージアン様式(ジョージ1~4世の治世にあたる1714~1830年のジョージアン時代の建築様式。古代・中世の様式を復興した新古典主義様式や歴史主義様式を特徴とする)で建設され、当初はイングランド国教会に所属していたが、ギリシア領になると正教会に引き渡された。4,000人ほどを収容するホールで、現在はイベント会場として使用されている。旧イギリス病院はイギリス軍の病院として1835年に建設された建物で、ギリシア、イタリア、ドイツ時代も病院や司令部・刑務所として使用されていた。新要塞のあるアギオスマルコスの丘にはもともとビザンツ時代の砦があり、17世紀にオスマン帝国の侵略に備えてヴェネツィアによって要塞が建設され、19世紀にイギリスによって強化された。星形要塞のように砲撃に備えて外側に飛び出した稜堡を持ち、プンタ・ペルペトゥアと呼ばれる稜堡やバロック門・火薬庫・地下水槽などを備えている。
旧市街は狭く曲がりくねった道路が迷路のように入り組んでいる。「カントニア」と呼ばれるが、イスラム都市の迷宮構造の影響と思われる。旧市街を取り囲む城壁の痕跡は少ないが、海岸沿いにスピリア門が残っている。イギリス時代の19世紀にスペース不足から多くの建物が6階建てなどに高層化された。
代表的な宗教建築として、まず聖スピリドン聖堂が挙げられる。旧市街のランドマークとなっている赤いドームの鐘楼を持つ教会堂で、1590年頃にバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・単廊式(身廊のみで側廊を持たない様式)で築かれた。外観はシンプルながら豪奢な内装で知られ、15世紀までさかのぼる聖画像イコンや18世紀に描かれた画家ティスドキサラスによる天井画、19世紀に制作された大理石製のイコノスタシス(身廊と至聖所を区切る聖障)など見所は数多い。主祭壇にはオスマン帝国の侵略を何度も追い払ったという聖スピリドナスの遺物が収められている。ディマルキオ広場に位置する聖ヤコブ=聖クリストフォロス聖堂はヴェネツィア時代にローマ・カトリックの大聖堂だった教会堂で、現在の建物は16世紀に建設された。ルネサンス様式のファサード(正面)とゴシック様式の鐘楼を持ち、内部はバシリカ式・単廊式で、美しいステンドグラスで彩られている。聖スピリオティッサ聖堂は1577年にバロック様式で築かれたバシリカ式・三廊式の教会堂で、聖遺物として9世紀のビザンツ皇帝テオフィロスの皇妃である聖テオドラの遺骨を収めている。太陽のような装飾を持つファサードのバラ窓や、イコノスタシスの美しいイコンで知られる。他にもイコノスタシスは聖ニコラオス教会などでもすばらしい作品を見ることができる。聖アンティヴォニオティッサ教会は現在ビザンチン博物館として公開されている旧教会堂で、建設は15世紀でコルフ最古級の教会堂のひとつに数えられている。バシリカ式・単廊式の教会堂跡で、コルフにもたらされた特に優れたイコンやフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)を収蔵している。
代表的な宮殿・公共建築としては、聖ミカエル=聖ゲオルギオス宮殿が挙げられる。1819~24年に建設されたギリシア神殿を思わせるジョージアン様式の建物で、イギリスの知事だったトーマス・メイトランド邸として築かれ、ギリシア王家の夏の離宮となり、現在は一部がアジア美術館として公開されている。ドーリア式の列柱と庭園、眼前に広がる旧要塞と湾の眺めの調和が見事。ディマルキオ広場に面したコルフ市庁舎は1663~93年頃にルネサンス様式で建設された。もともと貴族の集会所で、1720年に聖ゲオルギオス劇場として改修され、1903年から市庁舎となった。イオニア議事堂は1850~60年代にイオニア諸島の代表が集まるイオニア議会のために築かれた建物で、地元の建築家イオアニス・クロニスによって新古典主義様式で建設された。ギリシアの支配下で議会は解散され、現在はイベントや展示会などのホールとして使用されている。コルフ読書協会は1836年に設立された文化協会と図書館の施設で、イオニア諸島に関する35,000冊以上の蔵書を中心に、版画や地図・彫刻・絵画などの史資料を収蔵している。
なお、ヴェネツィア共和国がアドリア海に築いたスタート・ダ・マーレ(海洋防塞線)の要塞群を登録した世界遺産に「16~17世紀ヴェネツィア共和国の軍事防衛施設群:スタート・ダ・テッラ-西部スタート・ダ・マーレ」がある。こちらはベルガモの要塞都市、ペスキエーラ・デル・ガルダの要塞都市、パルマノヴァの都市要塞(以上、イタリア)、ザダルの防衛システム、シベニク=クニン郡の聖ニコラ砦(以上、クロアチア)、コトルの要塞都市(モンテネグロ)の3か国の6件を構成資産としている。
本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」、(ii)「重要な文化交流の跡」でも推薦されたが、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、(i)についてはルネサンス後期の軍事建築を示すものであるが完全には証明されていないとして、(ii)についてはコルフ旧市街の価値は要塞と旧市街にあり、古代ギリシアや近代イギリスなどの影響は地中海の多くの場所に共通するものでこの地に限定されたものではないとしてその価値を認めなかった。
ヴェネツィアが建設した東地中海における傑出した要塞群を有し、これらは相次ぐ包囲戦を戦い抜いて設計の質の高さを証明した。また、旧市街は中世後期とルネサンス期の構造・形態を維持し、19世紀の新古典主義様式による高層建築を加えて独自の進化を遂げた。
コルフ旧市街は要塞化された地中海の港湾都市で、街並みは主として19世紀のイギリス時代のものであるが、旧要塞や新要塞などにヴェネツィア時代の痕跡が残されている。19~20世紀にかけてイギリスとギリシアは多くの要塞施設や砦を破壊・解体し、また第2次世界大戦などで深刻な爆撃を受けて一部の歴史的建造物が破損あるいは焼失した。それでも要塞は全体的にその構造や形状を維持しており、旧市街の構造も変化していない。大戦後に制定された厳格な法的措置や、1967年に国の文化遺産に指定されたことで以後適切に保全されており、完全性は維持されている。
コルフはビザンツ帝国の小さな町から西洋の都市モデルに沿って発達しており、その過程のすべての文化の影響を都市の構造と形状に残している。市街の場所は古代から変わっておらず、ふたつの要塞に挟まれた地域の構造はおおよそ引き継がれており、軍事的な必要性に応じて主に復興時に改修が加えられた。
19世紀にイギリスはヴェネツィアの防衛システムを解体し、1864年以降はギリシア政府が続いた。この結果、20世紀以前の建物の約70%はイギリス時代のものとなっている。20世紀には第2次世界大戦の爆撃により旧市街、特に西側が破壊された。一部は1960~70年代に建て替えられたが、他の建物とは明確に区別されており、その時代の美観を表現している。このように旧市街は数々の戦争で破壊され、現在の形は主にヴェネツィア時代の都市デザインに基づき、19~20世紀に建設された建物で構成されている。
こうした変化にもかかわらず、コルフの要塞化された旧市街は本物であるといえる。15~20世紀に西洋と東洋の接点で発生した多くの戦争に巻き込まれつつ、兵器と戦略の発展に対応してヴェネツィアとイギリスによって変化がもたらされ、現在の形に至った。要塞を含む旧市街はこうした歴史を証明するために十分な完全性を備えており、建物の構造や形態について真正性も維持されている。また、建物に関する古い記録が豊富に残されており、形態や構造の理解を容易にし、適切な修復を可能にしている。