サモス島はエーゲ海の東、現在トルコのある小アジア・アナトリア半島の沖わずか1~2kmの場所に浮かぶ島。島の南東に築かれた古代港湾都市ピタゴリオンはギリシア本土や小アジアの諸ポリスと貿易を行い、大いに繁栄した。その象徴が古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが「ギリシア最大の神殿」と讃えたヘラ神殿(ヘライオン)だ。
サモス島では紀元前5000~前4000年紀から人間の居住の跡があり、紀元前2000~前1000年紀にミケーネ人やイオニア人によって開拓が進められた。特にマスカットから作られる甘口のサモス・ワインの産地として名を馳せた。島の南東部に築かれた港湾都市ピタゴリオンは紀元前7~前6世紀にはエーゲ海でも随一の貿易港に発展し、エーゲ海や小アジアはもちろん、黒海や西アジア、北アフリカとも交易を行った。一説では地中海から大西洋に通じるジブラルタル海峡に到達した最初のギリシア民族といわれている。地中海東部ではアケメネス朝が勢力を強めたが、エジプトと同盟を結んでこれに対抗した。
紀元前6世紀前半には僭主(せんしゅ。支配者)ポリュクラテスが島を支配し、独裁政治を断行した。100隻に及ぶ艦隊を率いてレスボス島、リニア島、ミレトスなどエーゲ海や小アジアの島や都市を次々と征服して勢力を拡大した。ピタゴリオンには華麗な宮殿や公共施設が築かれ、彫刻やモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)といった芸術文化が発達した。紀元前5世紀の歴史家ヘロドトスは著書『歴史』の中でサモス人による3つの偉大な建築を記している。エウパリノスのトンネル、港の堤防、ヘラ神殿がそれだが、いずれもこの時代に建造されたものだ。
エウパリノスのトンネルはポリュクラテスの命令で建造された全長1,036mのトンネルで、平均で高さ1.8m・幅1.8mほど穴が続いている。最大の目的は山上の泉からピタゴリオンに水を引くことで、貯水池で貯められた水は全長890mの粘土製導水管を通って町に運ばれた。建築家エウパリノスは徹底した測量を行い、山上と町の両側から同時に穴を掘って山中で接続したという。
港の堤防はピタゴリオンの港に巡らされたもので、突堤は海上400mまで突き出し、水深は最大20mに及んだという。激しい北風と波から船を守るために全長数百mの堤防が建設され、地中海有数の大艦隊を支えていた。堤防はローマ時代やビザンツ帝国時代など時代時代の改修を受けているため当時どれほどの大きさだったか判別は難しいが、1988年に防波堤が倒壊した際に古代の堤防が発見されている。
ヘラ神殿はピタゴリオンの南西5kmほどに位置する神殿で、最高神ゼウスの妻であり、女神の女王であるヘラを祀る聖域に築かれた。ピタゴリオンとは聖なる道で結ばれ、道の両脇には神々の像が立ち並んでいた。ヘラ神殿はこれまで2~3度ほど再建されている。第1神殿(ヘカトンペドス神殿)は紀元前8世紀の建設で、33×7mほどのレンガ造の神殿だった。一説では古代ギリシアで初となる周柱式神殿(柱で囲まれた神殿)とされるが、紀元前670年頃に洪水で破壊され、まもなく修復されている。第2神殿(ロイコス神殿)は建築家ロイコスとテオドロスの設計で紀元前570~前560年ほどに建設された。105×52.5mという大きさを誇り、100本以上のイオニア式の柱が立ち並ぶ二重周柱式の画期的な石造神殿だった。この神殿は紀元前550年頃にアケメネス朝の襲撃を受けて破壊された。第3神殿(ポリュクラテス神殿)はポリュクラテスの命令で紀元前530~520年代に建設が開始された。108.63×55.16mというとてつもない規模で、ヘラクレイトスをして「ギリシア最大の神殿」と言わしめた。高さ20mの155本もの柱が立ち並ぶ三重周柱式の石造神殿だったが、250年以上を経たローマ時代に入っても完成せず、天井や梁部分が見つからないことから未完成に終わったと考えられている。その後、神殿の神像や石材はローマ(世界遺産)などに持ち去られ、現在は柱が1本残るのみとなっている。ローマ時代にこの場所に小さな神殿が建設されたが、5世紀に取り壊された。
ポリュクラテスの治世の末期にアケメネス朝との対立が激化し、ポリュクラテスは紀元前522年に同朝のサトラップ(地方行政官)に暗殺された。その後、サモス島はアケメネス朝に征服され、急速に衰退した。まもなく独立を取り戻し、ペルシア戦争(紀元前499~前449年)やペロポネソス戦争(紀元前431~前404年)を戦ったが、紀元前4世紀にふたたびアケメネス朝の支配を受けた。紀元前5~前3世紀には学問で栄え、数学者ピタゴラス、哲学者エピクロス、天文学者アリスタルコスらを輩出した。また、芸術でも高い評価を得て、サモスの彫刻はギリシア中で取引された。
この後はマケドニアのアレクサンドロス帝国、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アッタロス朝ペルガモン、ローマ帝国と宗主国を替え、ローマ都市として整備された。この頃にはエウパリノスのトンネルの水道管も詰まって使えなくなっており、水道橋が建設された。さらにビザンツ帝国、オスマン帝国の支配を受け、5世紀にはキリスト教のバシリカ式教会堂や修道院も建設された。
サモス島のヘラ神殿は古典建築を理解するうえで基本となるきわめて重要な建造物である。列柱、周柱式、二重・三重周柱式など、各段階における革新的な様式や構造はギリシア世界全域の神殿や公共建築に多大な影響を与えた。また、エウパリノスの成熟した技術は工学や公共事業のモデルとなった。
サモス島は紀元前6世紀にギリシア世界をリードする海上貿易大国となり、その力はほとんど手付かずで残る考古遺跡の範囲の広さと遺構・遺物の内容の豊富さに表れている。
サモス島の遺跡はギリシア・ローマ時代の世界でもっとも印象的で完全なもののひとつであり、資産には顕著な普遍的な価値を伝えるすべての重要な要素が含まれている。その重要性はその後の開発の影響をほとんど受けていない考古遺跡の範囲と内容の豊かさに反映されている。完全性に対する脅威としては、地層の活動や湿度の影響、海洋環境の変化、違法建築や無秩序な放牧などが挙げられる。
資産の真正性はもともとの構造を尊重した保全と修復法を実施することで維持されている。修復は古代遺跡の特性を損なわず、その保全・強化・展示を目的に行われている。発掘後に明らかになった本来の形状を保持するため介入は最小限に留められており、修復に使用されるすべての素材は古代のものとの適合性を調べるために専門家によって事前に分析されている。