マケドニア王国テッサロニカ地方の州都として発達したテッサロニキではいち早くキリスト教が普及し、ヨーロッパへの宣教の拠点となった。4~15世紀にかけてビザンツ様式を中心に初期キリスト教美術が開花し、数多くの名建築やモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)、フレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)の傑作が制作された。世界遺産は全長5kmの市壁と教会堂・修道院など15件の構成資産からなる。
テッサロニキは紀元前315年頃、マケドニア王カッサンドロスによって港湾都市として建設され、王妃テッサロニカにちなんで命名された。紀元前168年にピュドナの戦いでローマに敗れてマケドニアが滅びると自由都市となり、エグナティア街道の要衝として発展し、ローマ(世界遺産)やビザンティオン(現・イスタンブール。世界遺産)、あるいはエーゲ海を巡る貿易で繁栄した。
50年頃、イエスの使徒であるパウロがテッサロニキを訪れ、キリスト教の宣教を行った。その活動拠点に立つとされるのがブラタデス修道院だ。パウロは密告を受けて町を去るが、『新約聖書』に収められている「テサロニケの信徒への手紙一」と呼ばれる書簡を書き、ひそかに信仰を続けるテッサロニキの信者らを激励した。
3~4世紀のテトラルキア(ローマ帝国の4分割統治)の時代、テッサロニキは皇帝ガレリウスの治める東の領域の首都となり、ガレリウス宮殿や戦車競技場ヒッポドローム、自身の廟であるロトンダ、ガレリウス凱旋門などが建設された。306年に建設された直径24.5mのロトンダは廟として使われることはなく、4世紀後半にテオドシウス1世の命でキリスト教会堂に改修された。
キリスト教について、ガレリウスは当初、同時代のディオクレティアヌスやリキニウス、コンスタンティヌス1世といった皇帝らとともに弾圧していたが、311年に病没する直前に寛容令を発布して弾圧を停止した。313年にはリキニウスとコンスタンティヌス1世がミラノ勅令でキリスト教を公認。380年にテオドシウス1世がキリスト教を国教化し、392年にはキリスト教以外の宗教が禁止された。また、380年には教皇ダマスス1世とアレクサンドリア総主教ペトロス2世によって三位一体(父なる神、子なるイエス、聖霊の三者を同一の存在であると認める考え方)を認めない教派を異端とするテッサロニキ勅令が発されている。
476年に西ローマ帝国が滅亡すると、テッサロニキは首都コンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)に次ぐビザンツ帝国(東ローマ帝国)第2の都となり、キリスト教の拠点都市となった。
キリスト教が弾圧されていた時代、キリスト教徒たちは地下墓地カタコンベなどに集って礼拝を行ったが、キリスト教が認められると集会所であるバシリカが利用された。やがてバシリカを改修したバシリカ式教会堂に発展し、半円に飛び出したアプス(後陣)に主祭壇を置いて至聖所とした。典型的なバシリカ式教会堂が5世紀に建設されたアケイロポイエトス聖堂で、最古級の初期キリスト教建築として知られている。
アギオス・デメトリオス聖堂も同様のバシリカ式教会堂で、4世紀の創建だが7世紀に焼失し、630年前後に現在見られる五廊式(身廊+4つの側廊)の巨大な教会堂として建て替えられた。地下のカタコンベはキリスト教弾圧時代に聖デメトリオスが投獄されていた場所で、303年に殉教している。また、この聖堂には後述するイコノクラスム以前の貴重なモザイク画が残されている。
バシリカ式教会堂は長方形の平面プランを持つが、5世紀末~6世紀初頭にラトモウ修道院のカトリコン(中央聖堂)として築かれたオシオス・ダヴィド聖堂は正方形の平面プランと3つのアプスを持つ(3アプス式)。この辺りの時代から正教会では正方形の平面プランが普及していく。
8世紀に建設されたアギア・ソフィア聖堂も正方形の平面プランに3つのアプスを有する。中央にドームを冠しているが、ドームとバシリカを組み合わせた建物を「ドーム・バシリカ」、ドームと十字形バシリカを合わせたものを「クロス・ドーム・バシリカ」という。また、正方形の平面プランの内部にギリシア十字を埋め込んだものを「内接十字式(クロス・イン・スクエア式)」と呼ぶが(上図参照)、アギア・ソフィア聖堂は最初期の内接十字式クロス・ドーム・バシリカだ(ただしドームは復元)。8~9世紀はイコノクラスム(聖像破壊運動)が行われた暗黒の時代でもあり、『旧約聖書』で禁じられた偶像崇拝の禁止を厳格に守ってイコンや彫刻、モザイク画、フレスコ画の破壊運動が起こった。この聖堂はこの時代のほぼ唯一の教会堂で、当初は十字架以外の装飾を持たなかったが、後にモザイク画が追加された。
1028年に建てられたパナギア・ハルケオン聖堂も内接十字式クロス・ドーム・バシリカで、南東にアプス、北西にナルテックス(拝廊)を持つ。東にアプス、西にエントランスを持つのはローマ・カトリックの教会堂と同様だ。
1202年に第4回十字軍が結成されると、十字軍はコンスタンティノープルを襲撃し、ビザンツ帝国を崩壊させた。1204年にラテン帝国が誕生し、その下でテッサロニキ王国が成立。しかしまもなくテッサロニキ王国は滅び、1261年にはミカエル8世パレオロゴスがコンスタンティノープルを奪還してビザンツ帝国を再興した。帝国最後の王朝パレオロゴス朝の下で古代ギリシアやローマの研究が進められ、パレオロゴス朝ルネサンスと呼ばれる華やかな文化が花開いた。この時代にテッサロニキは最盛期を迎え、15件の構成資産のうち8件の教会堂が13~14世紀に建設された。基本的には内接十字式のクロス・ドーム・バシリカだが、優美かつリアルなモザイク画やフレスコ画はこの時代特有のものだ。特筆すべきものとして、アギオス・ニコラオス・オルファノス聖堂のフレスコ画や、アギイ・アポストリ聖堂のモザイク画が挙げられる。
1430~1912年にかけてイスラム王朝であるオスマン帝国の支配下に入ると、ほとんどの教会堂はモスクに改修され、イスラム教の聖地として整備された。イスラム教はキリスト教以上に偶像崇拝の禁止を守ったが、モザイク画やフレスコ画は漆喰に塗り込められることで保護された。20世紀に入ってギリシア王国の支配下に入ると、構成資産の多くは教会あるいは博物館に改装された。
ロトンダ、アギオス・デメトリオス聖堂、オシオス・ダヴィド聖堂のモザイク画は初期キリスト教美術の偉大な傑作のひとつである。
テッサロニキでは特に初期キリスト教時代、中期ビザンツ時代、そしてパレオロゴス朝ルネサンス時代にキリスト教美術が飛躍した。これらを伝えるテッサロニキの教会群の影響は初期にはビザンツ世界、後にはセルビア世界において重要な役割を果たした。
テッサロニキの教会群は4~15世紀、1,000年以上の期間にわたって発展した種々の建築様式の卓越した例である。バシリカ、クロス・ドーム・バシリカ、内接十字式、3アプス式等々、正教会の教会堂の主要な類型が網羅されている。
15件の構成資産はほぼ手付かずであり、あるいは市壁のように最小限の損失で維持されている。資産の範囲は構造を保護するために十分であり、いくつかにはバッファー・ゾーンも設けられている。建設されてから今日までほとんどの建物は継続的に使用されており、一部で損壊等があるものの、それが良好な保存状態をもたらした。
いずれの構成資産も開発や変更が行われている都市域にあり、将来的に開発圧力にさらされる可能性を秘めている。また、地震などの自然災害のリスクも懸念される。
すべての構成資産は幾世紀にもわたる使用にもかかわらず建築や装飾などにおいて建設当初の姿をほぼ維持している。20世紀の第1四半期にモニュメントの修復が開始され、初期の低品質の修復や増築部分が修正・削除される一方で(一例がアギイ・アポストリ聖堂のポータル(玄関)と預言者エリヤ聖堂のバットレス)、記録があるものについては小規模の修復が行われた(一例がパナギア・ハルケオン聖堂のナルテックスの南ドーム)。例外が旧市街のほとんどを燃やし尽くした1917年のテッサロニキ大火で、鎮火後にアギオス・デメトリオス聖堂の大規模な修復が行われた。過去30年間、これ以外の修復については小規模なものに留まっている。これまでテッサロニキで行われてきたこうした修復・強化作業は真正性の維持と増進に貢献している。