シベニクはアドリア海中部、ダルマチア海岸から聖アンソニー海峡を入った湾の奥に位置する港湾都市で、聖ヤコブ大聖堂(シベニク大聖堂/聖ジェームズ大聖堂)は迷路のように入り組んだ中世・近世の街並みの海岸沿いに立っている。15~16世紀に築かれた大聖堂で、ゴシックとルネサンスの芸術・建築の粋を集めたものとなっている。
アドリア海の美しい港湾都市の多くは古代のギリシアやローマ、あるいは中世のヴェネツィアの植民都市・要塞都市として建設され発展したが、シベニクは南スラヴ系のクロアチア人貴族スービック家によって10世紀に設立された。10~11世紀はクロアチア王国の都市として発展したが、1102年の滅亡後、11~14世紀にかけてヴェネツィア共和国、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、ハンガリー王国を行き来した。1412年にヴェネツィアが町を占領し、以来1797年の共和国消滅までその支配下に入った。
大聖堂の建設は1298年にシベニク教区が成立してから計画が進められ、1431年に着工した。1431~41年の第1期工事は地元の建築家フランチェスコ・ディ・ジャコモの監督で行われ、ロマネスク・ゴシック様式で西ファサード(正面)や身廊・側廊が築かれた。西と北の扉に関してはランゴバルドの彫刻家ボニーノ・ダ・ミラノによるゴシック装飾が施された。1441~75年の第2期工事ではクロアチア人建築家・彫刻家ゲオルギオス・ マテイ・ダルマチクスが指揮を執り、もっとも重要な東側のアプス(後陣。主祭壇などが置かれる半ドーム形の出っ張り)や洗礼堂・聖具室・トランセプト(ラテン十字形の短軸部分)などを後期ゴシック様式や初期ルネサンス様式で演出し、天井部分を完成させた。1473年のジャコモの死を受けて、1475~1535年の第3期工事はアルバニアの建築家アンドリヤ・アレシや、イタリアの著名な建築家・彫刻家ニッコロ・ディ・ジョヴァンニ・フィオレンティーノに引き継がれた。フィオレンティーノは初期ルネサンス様式の旗手であり、身廊の窓や天井、側廊、クワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)、トランセプトの天井、アプスなどを改修した。大聖堂は1555年に献堂(正式に神に捧げること)され、同年に西ファサードにバラ窓が追加された。
大聖堂は「†」形のラテン十字式のクロス・ドーム・バシリカで、長軸と短軸の交差部分に高さ32mの八角形ドームを冠している。三廊式(身廊の上下に側廊を設けた様式)で、身廊と側廊は植物の柱頭を持つゴシック様式の大理石柱で隔てられており、身廊の天井はシンプルな筒型ヴォールト(筒を半分に割ったような形の連続アーチ)、側廊の天井は交差ヴォールト(筒型ヴォールトを交差させた「×」形のヴォールト)となっている。身廊・側廊のそれぞれにアプスを持つ3アプス式で、中央の大アプスに主祭壇が置かれ、南アプスには洗礼堂が設けられている。洗礼堂のゴシック様式の彫刻やレリーフはダルマチクスによるものだ。72人の男女と子供の顔を描いたフリーズ(装飾梁)もよく知られている。
西ファサードはルネサンス様式の影響を受けた「凸」形のシンプルなデザインで、ゴシック様式のバラ窓やオラクル(円形の採光窓)を組み合わせている。西・南・北のポータル(玄関)周りはねじり柱やアーキヴォールト(アーチ部分の迫縁装飾)といったゴシックの細かい彫刻やレリーフで装飾されている。特にライオン門と呼ばれる北門には柱の下に2体のヴェネツィアのライオン像が置かれており、柱の上には最初の人間アダムとイヴの彫刻が設置されている。大聖堂の上に載せられた石像は聖ミカエル、聖ヤコブ、聖マルコ像で、中央の大アプスやトランセプトの受胎告知像とあわせてフィオレンティーノの作品だ。
聖ヤコブ大聖堂の構造的特徴はゴシック様式とルネサンス様式の見事な融合にあり、これが独創的で卓越した建築物ならしめている。
聖ヤコブ大聖堂は15世紀から16世紀にかけて北イタリア、ダルマチア、トスカーナの3つの文化圏の活発な文化交流の結果、生まれたものである。特に大聖堂のドームやヴォールトの技術的・構造的問題の解決に大きく貢献した。この作業を担ったのがフランチェスコ・ディ・ジャコモ、ゲオルギオス・ マテイ・ダルマチクス、ニッコロ・ディ・ジョヴァンニ・フィオレンティーノら3人の建築家で、独自の建築技術を創造してそれまでにない石造建築を生み出した。
聖ヤコブ大聖堂はゴシック建築からルネサンス建築への移行を示す記念碑的な建造物である。構造・建築・装飾といった点で特徴を示しているが、もっとも重要なのはその構造で、15~16世紀のヨーロッパ建築で同等のものは存在しない。また、彫刻やレリーフ・窓などの装飾についてもゴシック様式とルネサンス様式の数々の傑作を有している。
資産は聖ヤコブ大聖堂に限定されており、顕著な普遍的価値を示す主な要素はすべて含まれている。また、隣接した広場周辺の歴史地区がバッファー・ゾーンに設定されているが、こちらについては適切なものであるか証明が必要である。16世紀以降、聖ヤコブ大聖堂はたびたび修復を受けているが、損傷した石と同じ形状・デザイン・素材で行われている。1991年にはじまるクロアチア紛争ではドームなどが損傷したが、こちらも適切に修復された。全体的に保全状況はよく、完全性も維持されている。
聖ヤコブ大聖堂は建設当時の構造・形状・デザイン・装飾をほぼ保っており、修復を経ても建造物が所持する文化的文脈を忠実に維持している。こうした特徴は石造建築ではきわめてまれであり、真正性は高いレベルで保たれている。