アドリア海のフヴァル島に広がるスタリー・グラード平原の農業後背地ホーラでは紀元前4世紀頃からブドウやオリーブの生産が行われている。ギリシア人が形成した土地分割システムはいまだに現役で、2,400年の歴史を持つ美しい文化的景観が引き継がれている。世界遺産の資産には東のスタリー・グラードから西のヴルボスカまで東西6km・南北3kmほどの平原が登録されている。スタリー・グラードについては南の歴史地区、ヴルボスカについては港周辺を除いた農業地区が資産に含まれている。
フヴァル島では紀元前3500~前2500年には新石器時代のフヴァル文化が成立しており、スタリー・グラード平原では紀元前6~前5世紀頃にイリュリア人(イリュリアはアドリア海東岸地域)が生活を行っていたようだ。ギリシア人による入植は紀元前4世紀にはじまり、紀元前394年にシチリア島のシュラクサイ(現・シラクサ。世界遺産)の僭主ディオニシウス1世がフヴァル島の南東に浮かぶヴィス島を征服。紀元前384年にはシュラクサイの同盟国だったエーゲ海のパロス島の住民がフヴァル島を侵略し、植民都市パロス(ファロス)を築いて移住した。入植地は現在のスタリー・グラードの町の南側一帯で、聖ヨハネ教会の周辺などでギリシア・ローマ時代の遺跡が発掘されている。
多くのギリシア植民都市では近郊に「ホーラ」と呼ばれる農業後背地を開拓したが、パロスでも東のスタリー・グラード平原で開拓を行った。この平原の土壌は最終氷期(約7万~1万年前)に海底に堆積した黄土でできており、黄土は多孔質で保水力が高くミネラル分をよく含んでいるため農業に非常に適していた。ギリシア人たちは平原を905×181mの16haほどの細長い大区画に分割し、さらに1区画を181×181mの正方形の小区画5つに細分化した。こうした主要大区画が75ほどあり、境界は石を積み上げた石垣で隔てられた。石垣の大きさは場所によって異なるが、おおむね大区画の石垣は掘り出した大きな石を使って高く積み上げられ、小区画の石垣は石をただ積み上げた乾式の簡単なものだった。また、乾季が長い地中海性気候に対応するため周囲に多数の貯水槽と側溝を築いて雨水回収システムを整えた。こうした区画の周囲に小屋や砦が築かれ、やがて集落に発達した。資産の南東に広がるドル、ヴルバニ、スヴィルチェ、ヴリスニク、ピトヴェといった町がその一例とされるが、こうした町がギリシア起源である明確な証拠は発見されていない。文献に登場するのは最古のピトヴェで13世紀で、中世の農村建築の遺構や遺物が発見されている。
紀元前4世紀半ばにシュラクサイの支配体制は崩壊し、パロスはギリシア化したイリュリア人の国となった。共和政ローマと女王テウタ率いるイリュリア王国との間で戦われた第1次イリュリア戦争(紀元前229~前228年)においてローマ軍がパロスを含むイリュリアを打ち破り、新国王としてテウタを裏切ったパロスの統治者デメトリウスを担ぎ上げた。デメトリウスは第2次イリュリア戦争(紀元前220~前219年)でローマ軍と戦うが敗れ、パロスは破壊されてローマに占領された。紀元前2世紀にはフヴァル島全域がローマの植民地となり、パロスはファリアに名前を変え、ローマの海軍基地が設置された。ファリアは港湾都市として発達し、スタリー・グラード平原ではワインを生産して輸出した。
ローマ時代後期にキリスト教が広がり、5~6世紀の礼拝堂や洗礼堂の遺構や墓が発掘されている。7世紀にスラヴ人によってダルマチア地方の主要都市サロナが崩壊すると避難民が集まり、8世紀にはスラヴ人を取り込んで同化した。12世紀にファリアは教区となって司教座が設置され、1278年にはヴェネツィア(世界遺産)による支配がはじまって1797年まで継続した。15世紀頃にファリアはヴェネツィアの交易都市カンポ・サン・ステファニとして繁栄し、ホーラには区画の石垣すべてに名前を付けて管理した。16世紀にオスマン帝国の襲撃を受けて町の多くが焼失し、17世紀半ばにはオスマン帝国の侵略から逃れてきた避難民によってスタリー・グラード北側のマロ・セロ地区が開拓された。また、スタリー・グラード平原の東でも14~15世紀にヴルボスカやイェルサが港として整備され、やがて港湾都市に発達した。1797年にヴェネツィア共和国が消滅するとオーストリアの版図に入った。19世紀末にフィロキセラ(ブドウネアブラムシ)が流行してブドウの木は全滅し、農地のほとんどが放棄されたが、やがて接木によって回復した。第1次世界大戦でユーゴスラビア王国、第2次世界大戦でユーゴスラビア社会主義連邦共和国となり、1991年のクロアチア独立でクロアチア領となった。
ホーラにおける農業活動は現在も続いており、以前と変わらずブドウとオリーブが生産されている。ギリシア時代に起源を持つ大区画や小区画のグリッド構造は航空写真でハッキリと確認できる。代表的な建物や遺跡としては、古代ギリシアの集落跡マスリノヴィク、ローマ時代の別荘跡ヴィッラ・ルスティチェ、5~6世紀創建で11世紀にロマネスク様式で改修された聖ヨハネ教会、16世紀の建設でスタリー・グラードの守護聖人・聖ロクスに捧げられた聖ロクス教会、15世紀創建で16世紀に要塞化されたドミニコ会修道院の聖ペトロ教会、16世紀にオスマン帝国に対する防衛拠点となったルネサンス様式の要塞・トヴルダリ城などが挙げられる。
紀元前4世紀にさかのぼるスタリー・グラード平原の土地区画システムは、地中海世界におけるギリシアのホーラの農地分割のための幾何学的モデルの卓越した例である。
スタリー・グラード平原の農地では2,400年にわたって当初と同様の農作物が栽培されており、農業システムが継続的に使用されている。長きにわたる文化の永続性と持続可能性を示す稀有な証拠である。
スタリー・グラード平原の農地とその周辺環境は古代から継続する人間の伝統的な居住地の際立った例である。ただ、現代の経済発展の影響で農村部では過疎化と伝統農業の放棄の危機に直面している。
ギリシアの土地分割システムは平野で同じ作物、スタリー・グラード平原では主にブドウとオリーブの生産を持続的に行うための農業システムであり、現在においても明確に識別することができる。後の時代に道路が建設されたがホーラの構造に沿ったものであり、ホーラは長きにわたって尊重され、周辺の環境と調和した文化的景観を引き継いでいる。現在もなお生産は続けられ、農業システムは機能的にも形態的にも維持されており、周辺の環境も自然保護区として保護されている。
スタリー・グラード平原周辺の景観はまた、地中海の風景の視覚的な統一性と連続性を体現している。平原の南端には村々が連なっていて肥沃な農地の限界を示しているが、これらはおそらくホーラを利用して生活を行った中世以降の農村の名残である。スタリー・グラードの町でもギリシア・ローマ時代の遺構やモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)などの装飾や遺物が発見されているが、古代の考古学的要素についてはかなり限られている。
現在、過疎化による農業人口の減少や伝統農業の放棄などからホーラの維持が懸念されている。
ギリシアのホーラの土地分割システムの真正性は地上と空中からの観察・調査によって平原全域にわたって明確に示されている。石垣の構造は本物であり、崩れると同じように石を積み上げて修復し、ギリシア時代から素材・形状が維持されている。ただ、農地に建てられた乾式工法(セメントやモルタルといった接合剤を使用しない工法)による石造りの小さな小屋(トリム)については起源をたどるのが困難で、年代は確定していない。イリュリアやギリシア・ローマ時代の砦や要塞・貯水池といった数少ない建築的・考古学的証拠は資産の真正性の証明に貢献している。平原の周囲に点在する村々の位置はホーラの農業活動を反映しているが、現代に残る村の建造物は古くても中世、多くは近現代のものであり、真正であるとはいえない。その結果、古代からの歴史を持つといわれる村々でも多くが資産から外れている。