スイス南部、イタリア国境に近いティチーノ州の州都ベリンツォーナにある13~15世紀に築かれた3つの城、グランデ城(ウリ城)、モンテベッロ城(シュヴィーツ城)、サッソ・コルバロ城(ウンターヴァルデン城)と「ムラータ」と呼ばれる城壁を登録した世界遺産。ベリンツォーナが位置するティチーノ渓谷はイタリア-アルプス-ドイツ・フランスを結ぶヌフェネン・パス、サン・ベルナルディーノ・パス、ルコマニョ・パス、ゴッタルド・パスといった多くのアルパイン・パス(アルプス縦断山道)が収束する要衝にあるため古代からローマ帝国やビザンツ帝国(東ローマ帝国)、フランク王国、神聖ローマ帝国といった国々はこの地に城や砦を築いて守りを固めた。
なお、2023年の軽微な変更で資産とバッファー・ゾーンの範囲が若干変更されている。
ベリンツォーナには新石器時代から人間の居住の跡がある。紀元前1世紀にローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスがこの地を征服し、マッジョーレ湖の東に開いたティチーノ渓谷の丘、現在グランデ城が立つ場所に砦を築いたという。砦はまもなく放棄されたが、4世紀にゲルマン系民族の移動が活発化して圧力を受けるとディオクレティアヌスやコンスタンティヌスといった皇帝は砦を再建し、城壁や監視塔を加えて強化した。476年の西ローマ帝国滅亡後もビザンツ帝国やランゴバルド王国といった国々は砦を整備し、6世紀にフランス方面からフランク王国がイタリアに侵入した際にはランゴバルド王国との間で激しい戦闘が行われたという。8世紀後半にフランク王国はティチーノ渓谷を征服してイタリアに侵出し、現在のフランス、ドイツ、イタリアのほとんどを支配する大国を成立させた。フランク王国の支配下で砦は城壁を巡らせて要塞化され、城にふさわしい外観を獲得したという。フランク王国はその後、分裂し、ティチーノ渓谷は東フランク王国を母体として生まれた神聖ローマ帝国の版図に入った。
10世紀後半、神聖ローマ帝国とイタリア諸都市はベリンツォーナの領有権を巡って激しい綱引きを行い、1002年にイタリア・コモに所属することが確認された。この頃、グランデ城はコモ司教の宮殿として使用された。13世紀前後に教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)の対立が激化するとコモは神聖ローマ皇帝を支持する皇帝派に転向。ベリンツォーナは南80kmほどに位置するミラノにたびたび攻撃を受け、包囲された。13世紀後半、コモのルスカ家によってグランデ城の南東の山麓にモンテベッロ城が建設されたが、1340年頃にミラノのヴィスコンティ家に侵略・征服された。ヴィスコンティ家は14世紀はじめにミラノの支配権を確立した僭主で、1395年には神聖ローマ帝国から公爵位を得てミラノ公国を成立させた。15世紀はじめにベリンツォーナと周辺地域はスイスの盟約者団(旧スイス連邦)の保護下に入るが、ミラノは1422年のアルベドの戦いで盟約者団の同盟軍を打ち破ってベリンツォーナを再占領し、さらに北のレヴェンティーナなどまで勢力を広げた。この頃、ミラノはベリンツォーナに高さ4~5m・幅2mほどのムラータを張り巡らせ、渓谷を城と城壁・川・山で封じて税関を設けた。1478年のジョルニコの戦いでは同盟軍にレヴェンティーナを奪われてベリンツォーナ近郊まで迫られ、最終的にレヴェンティーナなどの永久放棄を宣言する代わりにベリンツォーナを死守した。戦後、ミラノはふたつの城を強化し、さらに山側にサッソ・コルバロ城を建設してムラータを延長した。現在見られる城やムラータの多くはこの時代に完成したものだ。
ミラノ公国では1450年に支配権がヴィスコンティ家からミラノの傭兵隊長の一族だったスフォルツァ家に移行する。しかしイタリア戦争(1494~1559年)において、1499年にフランス王ルイ12世がイタリアに侵攻し、ベリンツォーナを落としてミラノを占領した。ルイ12世はスイスの同盟軍の攻撃を恐れてグランデ城を強化したが反乱が勃発し、1500年にベリンツォーナはフランス軍を追放して盟約者団の下に入った。1503年にフランスとミラノはウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンといった盟約者団の州を承認し、ベリンツォーナは3国に共同統治された(このため3つの城はウリ城、シュヴィーツ城、ウンターヴァルデン城とも呼ばれる)。これにより盟約者団(つまりスイス)の独立が半ば確保され、ベリンツォーナは重要性を失って城や城壁は次第に放棄されていった。1798年のナポレオンによるスイス侵攻を受けて自治体が再編され、ベリンツォーナは1803年にティチーノ州に入った。
世界遺産の構成資産は5件で、グランデ城、モンテベッロ城、サッソ・コルバロ城と、前2者を始点としたムラータとなっている。
グランデ城はティチーノ渓谷の中心を抑える高さ40m・直径150~200mほどの丘の上に立つ城で、城から東・西・南にムラータが延びている。いまに残る遺構の多くは13~16世紀に築かれたもので、全体は防壁で3エリアに分かれており、東に高さ27mのビアンカ塔、その西に高さ28mのネラ塔が立っている。他にルドゥート(稜堡)や司教宮殿跡・教会跡などが残されている。建物の多くは1982~92年に復元されたもので、博物館やレストランなどが入っている。
モンテベッロ城はグランデ城の南東の山麓に立つ城で、コモのルスカ家によって13世紀後半に建設され、15世紀後半にミラノのスフォルツァ家によって現在の形に改修された。ひし形に近い形で北と西へムラータが延びており、かつてはグランデ城まで続いていた。19世紀に放棄されたが1903年から多くの建物が復元され、門塔や礼拝堂跡などが残されているほか州立博物館がオープンしている。
サッソ・コルバロ城はモンテベッロ城のさらに南東の高台の岩上に築かれた城で、1400年前後に最初の塔が建設されていたという。1478年に新たに北東の塔が建設され、その後南西の塔が築かれ、25×25mの正方形の城壁が整備された。当初は刑務所としても使用されていた。18世紀後半に放棄され、1803年からティチーノ州の所有になった。長い間、放棄されていたが、20世紀に入って数多くの復元・修復作業を受け、やはり博物館やレストランがオープンしている。
ムラータの多くは1422年のアルベドの戦いの後、ミラノによって築かれ、全長600m・高さ4~5m・幅2mほどでモンテベッロ城とグランデ城を結んでいた。同盟軍によって破壊された後、1478年のジョルニコの戦いの後で再建・延長された。現在残っているのは約400mほどだ。
ベリンツォーナの要塞化された3つの城は戦略的にきわめて重要なアルパイン・パスを守る中世後期の防御機構の際立った例である。
ベリンツォーナの防衛システムは中世後期の典型的な構造をそのまま保持している。街中の城壁や堡塁は失われているものの、資産は城や周辺の城壁・堡塁など保存状態のよい数多くの防衛施設の建造物群で構成されており、顕著な普遍的価値を示すために必要なすべての要素を保持している。
資産の真正性はその発展に関する数多くの文書によって証明されている。胸壁(凹部と凸部が並ぶ防御用の壁)の復元など再建による影響をいくらか受けているものの、建造物の大部分はオリジナルであり、歴史的な発展の様子を物語っている。今日では城の見学や博物館としての公開といった文化的な利用が行われているが、城は都市景観と文化的環境に大きな影響を与え強力な意味を保持している。