スイスの北西、フランス国境に近いジュラ山脈の南麓、ヌーシャテル州のふたつの町、ラ・ショー=ド=フォンとル・ロクルの中心部を登録した世界遺産。主に18~19世紀に築かれた時計製造に特化した産業都市で、初期の家内制手工業から19世紀後半にはじまる工場制機械工業に対応し、時計王国スイスの端緒を開いた。
ラ・ショー=ド=フォンとル・ロクルには17世紀には集落が存在していたが大きなものではなかった。いずれも緩やかな南向きの斜面にあって日当たりはよかったが、前者は標高992m、後者は945mに位置し、冬の5か月間は雪に閉ざされてしまう山岳気候で農業には適していなかった。
1679年のある日、ピーターという男のイギリス製懐中時計が壊れ、ル・ロクル近郊の村の家に持ち込まれたという。村人は時計を見たことがなかったため手先の器用なダニエル・ジャンリシャールが呼び出された。ジャンリシャールは時計を分解して機構の研究から開始し、不足した部品を自ら製作して修理を行った。修理が終わると1から時計を製造し、1681年にこの地方の第1号となる時計を完成させたという。同年、ル・ロクルに時計を製造するための工房をオープン。各種パーツ製造・組み立て・仕上げと専門ごとに工房を分割し、分業体制を整えた。当初は冬のあいだ仕事がなくなる農民を集め、後には5人の子供を含めて専門の時計職人を育成した。ジャンリシャールが亡くなったのは1741年だが、1750年に時計職人は77人を数え、1800年には800人以上に上ったという。何人もの名工が誕生し、たとえば1729年にル・ロクルの農家に生まれたアブラハム=ルイ・ペルレは1777年に自動巻きムーブメントを開発して地域の名声を高めた。
18世紀初頭に時計部品の製造はラ・ショー=ド=フォンでも行われるようになり、18世紀後半にはレース製造と並ぶ町の主要産業に発展した。時計製造はこの地域の環境にもよく合っていた。細かい作業は明るい環境を必要としたが、南向きの斜面は町のどこでも強い日差しを提供し、冬の雪は照り返しも期待できた。農家のタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)は南向きで窓も多く、工房に適していた。当時の部品製造の90%以上はこうした家内制手工業によって賄われていた。
1794年、ラ・ショー=ド=フォンで大火が起こり、多くの建物が焼失した。これを受けて彫刻家モワズ・ペレ=ジャンティが公共広場を中心に電力や通信・交通といった新しいインフラに対応した先端的な中心街を設計して再建が進められた。1835年には周辺部についてもエンジニアであるシャルル=アンリ・ジュノが方格設計(碁盤の目状の整然とした都市設計)の都市計画を推進し、1835~41年にかけて建設された。方格設計といっても正方形の区画ではなく、東西に数多くの道路を平行に走らせて、細長い長方形の区画を並べたものだった(平行オープン・ストリップ)。いずれの区画も長い南面を持つだけでなく、建物の南側に庭を設けることで建物・庭・道路と続き、建物同士の重なりを避けて日当たりを確保した。建物は細長い複数階建てのタウンハウスで、南面の上層階には大きな窓を設置して作業室とし、人々は下層階で生活した。これらは時計製造を考えての都市・建築設計で、同時に電気や上下水道・馬車や自動車といった新インフラにも対応するものだった。ル・ロクルでも1833年と1844年に大火が起こったが、同様にペレ=ジャンティとジュノによる都市計画を採用して再建した。マルクスは『資本論』の中でラ・ショー=ド=フォンの機能的な都市設計と分業体制を評価して「巨大な工場都市」と記している。1857年にはふたつの町を結ぶ鉄道が開通し、まもなくヌーシャテルまで延長された。
もともと金銀細工職人が多く精密作業を得意としていたスイスはラ・ショー=ド=フォンやル・ロクル、ジュネーブを中心に工芸品としての時計生産を増加させ、19世紀半ばにはイギリスを追い抜いて世界一の時計生産国となった。しかし、19世紀後半に工場制機械工業に移行して大量生産を行うアメリカ・メーカーの攻勢を受けて失速。特に1876年のフィラデルフィア万国博覧会ではアメリカの先端的な時計が大好評を博した。イギリスの時計産業が転換に失敗して没落したのに対し、スイスは大量生産品としての時計、産業としての時計産業への転換に舵を切り、ヨーロッパではじめてアメリカ式の工場の導入に踏み切った。
ラ・ショー=ド=フォンやル・ロクルでは19世紀後半に工場が建設され、工作機械を購入して流れ作業で時計製造を行う新システムが稼働をはじめた。方格設計の効率的な都市設計は工場にも対応し、従来のタウンハウスよりも大きな建物が築かれ、南面にはさらに多くの窓が取り付けられた。分業体制もなくなったわけではなく、数多くのサプライヤーが生産を続け、部品を工場に供給した。1970年代にも電子技術とクォーツによって時計は転換期を迎えたが、この生産システムの変化にも対応しつつ、手作りの高級時計を製造しつづけてブランディングに成功している。両都市には最盛期に2,000の時計製造会社が存在したが、現在でも600が生産を行っており、時計の町でありつづけている。
本遺産は登録基準(ii)「重要な文化交流の跡」、(iii)「文化・文明の稀有な証拠」、(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、(ii)について都市計画や建築の多様な影響は確認できるが(iv)と関連したものであり、(iii)の特有の文化である点について時計製造の歴史は独特であるが都市・建築遺産として世界的に独特であるとはいえず、(vi)の時計製造の伝統についてもやはり都市・建築との結び付きが弱い点から、顕著な普遍的価値は証明されていないとした。
ラ・ショー=ド=フォンとル・ロクルは18世紀から現在に至るまで時計製造に特化した独創的な都市と建築のアンサンブルを構成している。時計製造の空間と生活の空間はきわめて密接な関係で共存しており、都市空間の合理的・実用的かつ開放的な設計は「ものづくりの町」として単一産業の持続可能な発展を促してきた。
ラ・ショー=ド=フォンとル・ロクルのふたつの町における時計製造という産業は2世紀以上にわたって維持されており、いまなお活発である。その特徴は特に19世紀前半の整然とした街路計画の永続性と18世紀末から今日に至る建築構造に具体的に表れている。実質的に変更されていない1930年以前の建物の割合に基づく完全性指数について、ラ・ショー=ド=フォンは87%、ル・ロクルでは88.5%という高い数値を示している。ラ・ショー=ド=フォンにおいて新しい市街地はレオポルドロベール通り付近と鉄道駅周辺に集中しており、ル・ロクルではより広くに分散されている。これらを考慮しても全体的に完全性は維持されているといえる。
1930年以降の建物の調査では景観を毀損する恐れのあるいくつかの高層建築が見られるが、1960年代に築かれた工場や労働者の住宅団地には機能的・建築的な連続性が確認でき、それ以前の建築物との連続性を示している。両都市の建物の85%は真正性の観点から良好な状態を維持しており、地区として真正性が満たされている。正確なデータに基づく数値指標は両都市のアンサンブルの完全性と真正性の評価において有用であり、信頼できる。