8世紀にウマイヤ朝や後ウマイヤ朝といったイスラム教勢力に席巻されたイベリア半島だが、9世紀、レコンキスタ(国土回復運動)に立ち上がったアストゥリアス王国ではキリスト教に対する敬虔な信仰からアストゥリアス様式と呼ばれる革新的なプレ・ロマネスク建築が誕生し、オビエドと近郊の6件の建造物に集大成された。本遺産は1985年にサン・ミゲル・デ・リーリョ教会、サンタ・マリア・デル・ナランコ教会、サンタ・クリスティナ・デ・レナ教会の3件を構成資産に「アストゥリアス王国の教会群 "Churches of the Kingdom of the Asturias"」の名称で世界遺産リストに登録され、1998年にカマラ・サンタ・デ・オビエド、サン・フリアン・デ・ロス・プラドス教会、フォンカラーダの泉の3件を加えて拡大され、現在の名称となった。なお、オビエド歴史地区は世界遺産「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路:カミーノ・フランセスとスペイン北部の巡礼路群」の構成資産でもある。
8世紀前半、イスラム王朝であるウマイヤ朝がイベリア半島に侵入し、711年にゲルマン人国家・西ゴート王国を滅ぼした。王国の貴族ペラーヨはスペイン北部ビスケー湾沿岸まで逃れて反乱を起こし、コバドンガの戦いでウマイヤ軍を破るとアストゥリアス人とともにカンガス・デ・オニスを首都にアストゥリアス王国を建国した。オビエドはムーア人(イベリア半島のイスラム教徒)の勢力圏だったが、アストゥリアス王国が征服に成功し、フルエーラ1世の時代にサン・ヴィセンテ修道院やオビエド大聖堂(サン・サルヴァドール大聖堂)が建設され、町が発展した。
9世紀、フルエーラ1世の息子アルフォンソ2世がオビエドに遷都。伝説では814年頃にイエスの十二使徒のひとりであるヤコブの遺体が発見され、アルフォンソ2世は聖堂を建設して埋葬し、最初の巡礼者になったという。この聖堂が後のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂(世界遺産。サンティアゴは聖ヤコブを意味する)だ。アルフォンソ2世はレオン(世界遺産)など南部に遠征を行ってレコンキスタを進めると同時に、サンティアゴ・デ・コンポステーラのあるガリシア遠征・平定を行い、サンティアゴ・デ・コンポステーラの聖地化や巡礼路(世界遺産)の整備を進めた。巡礼路の中でも、オビエドからサンティアゴ・デ・コンポステーラまでの道は「原始の道」と呼ばれている。オビエドについても巡礼地のひとつとして整備し、天使によって作られたという天使の十字架(クルス・デ・ロス・アンヘレス)をオビエド大聖堂に寄贈し、名建築ティオダらを起用して革新的な宮殿や教会堂の建造を依頼した。アストゥリアス芸術勃興期のこの時代を「アルフォンシ(あるいはプレ・ラミレンセ)」という。
続く国王ラミロ1世の時代、海からはヴァイキング(北ヨーロッパを拠点とするノルマン人)、内陸からはムーア人の攻撃を受けて難しい局面を迎えていた。伝説では、戦場にヤコブが白い馬に乗って現れ、敵を一掃したという。ヤコブは「ムーア殺し」と呼ばれ、ヤコブ信仰やサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼はいっそう盛んになった。この時代にアストゥリアス芸術は「ラミレンセ」と呼ばれる最盛期を迎えた。
アルフォンソ3世の時代、東では反乱を起こしたバスクを平定し、西ではポルトガルを解放し、最大版図を築いた。アルフォンソ3世は908年にオビエド大聖堂に勝利の十字架(クルス・デ・ラ・ヴィクトリア)を寄贈している。晩年、3人の息子に王国を分割して相続させたため、アストゥリアス王国、レオン王国、ガリシア王国に分裂したが、アストゥリアス王国はまもなくレオン王国に吸収された。この過程で首都はオビエドからレオンに遷され、首都としてのオビエドの繁栄は終了したが、巡礼地としてはありつづけた。
アストゥリアス様式はプレ・ロマネスク時代(ロマネスク以前の時代)の芸術様式で、ローマ時代以降、特に西ゴート王国のキリスト教の伝統を引き継ぎ、またフランスで花開いたフランク王国カロリング朝時代のカロリング・ルネサンス(カール大帝が主導した古典復興に基づくキリスト教文化の興隆)の影響を受けたものだった。建築の特徴は、石やレンガを積み上げて重厚な壁を築いた壁構造(壁で屋根や天井を支え空間を確保する構造)で、壁は細いバットレス(控え壁)で支えられ、半円アーチを連ねた筒型ヴォールト(筒を半分に割ったような形の連続アーチ)天井や木造屋根が架けられている。しばしばドーリア式やコリント式の柱と半円アーチが連なる列柱を持ち、ポルティコ(列柱廊玄関)、ロッジア(柱廊装飾)、トリビューン(側廊の階上廊。ギャラリー)などを備えている。長方形のバシリカ式、あるいは「†」形のラテン十字式を採ることが多く、三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)が一般的だ。装飾は多くないが、キリスト教の物語を描いたフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)やレリーフが見られる。
サン・ミゲル・デ・リーリョ教会は9世紀半ば、ラミレンセ時代の建築で、ラテン十字式・三廊式の教会堂だが、11~12世紀に身廊の多くが失われて全長が1/3ほどになっている。筒型ヴォールトやトリビューン、レリーフ、フレスコ画といった特徴ある建築や装飾が残されている。もともとサンタ・マリア・デル・ナランコ教会とともに宮殿コンプレックスを形成していた。
サンタ・マリア・デル・ナランコ教会はアストゥリアス建築の象徴で、ラミレンセを代表する建物だ。もともと842~850年の間に建設されたラミロ1世の宮殿で、12世紀に教会堂に改修されたと見られる。21×6mの長方形で、高さ9mの2階建て、東と西の開放部は柱と半円アーチが連なったロッジア(柱廊装飾)で、南はバルコニー、北は階段を備えている。さまざまなレリーフやメダリオン(円形の浮き彫り)の装飾が見られ、ローマ時代末期、あるいは初期ビザンツ様式の影響が確認できる。
サンタ・クリスティナ・デ・レナ教会はオビエドの南約26km、レオンへ抜ける道路上に位置している。ラミレンセ時代、850年頃の創建で、アストゥリアス建築には珍しく「+」形のギリシア十字式の平面プランで、エントランスにナルテックス(拝廊)を持ち、至聖所と身廊を分けるイコノスタシス(聖障)を備えている。
カマラ・サンタ・デ・オビエドは「オビエドの聖域」という意味で、オビエド大聖堂の教会コンプレックスの一部を形成している。9世紀はじめにアルフォンソ2世が寄贈したアルフォンシ時代の建物で、地上階のサン・ミゲル礼拝堂と、地下部のサンタ・レオカディアのクリプト(地下聖堂)からなる。サン・ミゲル礼拝堂は控え室、身廊、内陣で構成されるが、13世紀頃から宝物庫として使用されはじめたようだ。天使の十字架、勝利の十字架、瑪瑙(めのう)の箱、聖櫃(アーク)、イエスの頭を覆った聖骸布といった宝物が収められており、巡礼路の中でもサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に継ぐ聖地として崇敬されている。サンタ・レオカディアのクリプトは地下墓地だ。
サン・フリアン・デ・ロス・プラドス教会は791〜842年頃、アルフォンシ時代の建物で、当時を代表する建築家ティオダの最後の作品とされる。ラテン十字式・三廊式の教会堂で、身廊より高いトランセプト(ラテン十字形の短軸部分)を持ち、トランセプトの外にはポルティコが設けられている。ローマ・ビザンツの影響を感じさせるフレスコ画やレリーフが見られる。
フォンカラーダの泉にはローマ時代の構築物を元にアルフォンソ2世が整備した水路があり、その出口にアルフォンソ3世が築いた4×3mの小さな礼拝堂が立っている。900年前後に建てられたポスト・ラミレンセ時代の建築で、半円アーチや筒型ヴォールト、壁に埋め込まれた埋め込みアーチ(ブラインド・アーチ)が確認できる。水路は全長40m・幅4mの貯水池に通じており、飲料水として使用されていた。
プレ・ロマネスク建築を代表するアストゥリアス建築は、初期キリスト教美術でもカロリング朝美術でもない独創的な芸術的成果を示している。これらの教会堂はバシリカをベースとしたレイアウトを持ち、天井は筒型ヴォールトで、石を積み上げた橋脚ではなく柱を使用し、アラブの装飾芸術にインスパイアされたきわめて豊かな装飾と、小アジアの偉大な聖域を連想させる形状を取り入れている。
アストゥリアス様式の建造物群はイベリア半島の中世の建築の発展に決定的な影響を及ぼした。
イスラム王朝であるコルドバ首長国(後ウマイヤ朝アミール領)の栄光の時代にあって、オビエド周辺の宮殿や教会堂はアストゥリアスの小さなキリスト教王国が生み出した文明の際立った証拠を提供している。
構成資産となっているプレ・ロマネスクの建造物群はアストゥリアス王国時代の教会堂や芸術様式を持つ建造物で構成されている。6件はいずれもアストゥリアス様式の際立った特徴を示しており、アストゥリアスの各時代を代表している。
すべての構成資産は国の文化遺産に指定されており、スペインの最高レベルの法律による保護を受けている。フォンカラーダの泉以外は教会に属し、またフォンカラーダの泉はオビエド市に所属しており、いずれも当初の機能を維持している。
サンタ・クリスティナ・デ・レナ教会については1892~93年にかけて身廊のヴォールト天井が復元され、フォンカラーダの泉は近年、考古学調査とともに修復が行われた。また、ほとんどの建造物は1934年のアストゥリアス蜂起や1936~39年のスペイン内戦で被害を受けて修復されている。いずれも真正性を毀損しない形で行われており、真正性は十分に維持されている。