カセレスはスペイン中西部エストレマドゥーラ州の都市で、イントラムロスと呼ばれる城壁内側の旧市街にはローマ人、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が築いたローマ、ムーア、ムデハル、ロマネスク、ゴシック、ルネサンスの建築が調和した美しい街並みが広がっている。なお、世界遺産登録時にはバッファー・ゾーンが設けられていなかったが、2016年の軽微な変更で設定された。
カセレスには先史時代から人類の居住の跡が発見されている。紀元前25年頃にローマの植民都市が建設され、3~4世紀には城壁が築かれた。おおよそ長方形の城郭都市で、デクマヌス・マクシムスとカルド・マクシムスという2本の幹線道路をクロスさせて中央にフォルム(公共広場)を置いた典型的な植民都市で、旧市街のレイアウトはこの時代にベースが作られた。
4~5世紀頃、ゲルマン系の諸民族によるイベリア半島侵入が本格化し、カセレスも西ゴート人の西ゴート王国によって破壊されたと見られ、王国の時代に再建されることはなかった。
711年にイスラム王朝であるウマイヤ朝がイベリア半島に進出し、西ゴート王国を滅ぼして半島の多くを版図に収めた。8~9世紀にアラブ人が入植してカセレスを再建したようで、特に12世紀に南部沿岸一帯のアンダルス(アンダルシア地方)を押さえた北アフリカのイスラム王朝ムワッヒド朝のアブド・アル=ムミンが1147年に町を再構築した。
12世紀頃からキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)の最前線となり、町の北を流れるタホ川が両勢力の国境となり、争いは13世紀まで続いた。ムワッヒド朝によってローマ時代の城壁がより堅固に再建され、ブハコ塔をはじめ数多くの城壁塔が整備された。イスラム教徒VSキリスト教徒という争いだけでなく、キリスト教勢力のカスティリャ王国、レオン王国、ポルトガル王国の勢力争いも加わって事態は複雑に推移した。最終的にレオン王アルフォンソ9世が1229年にカセレスを落とすが、翌年アルフォンソ9世が亡くなるとカスティリャ王フェルナンド3世がレオン王位を継承し、1252年にレオン王位は廃位されてカスティリャ王国に吸収された。アルフォンソ9世はカセレスを無宗教の直轄都市として開発し、キリスト・イスラム・ユダヤ教といった宗教の信仰と平等を認め、軍事的・宗教的な命令や強制を禁じた。この政策はフェルナンド3世以降も引き継がれ、さまざまな宗教・文化が混在する多文化都市となった。
14世紀頃からスペインの貴族が次々とカセレスに流入し、宮殿を建設した。やがて貴族間の紛争に発展し、宮殿や邸宅は砦や要塞のように堅牢に築かれて要塞宮殿となった。15世紀後半にカスティリャ王国とアラゴン王国が連合してスペイン王国が成立し、1492年にレコンキスタが完了。16~17世紀の大航海時代にスペインは「太陽が沈まぬ帝国」と呼ばれる黄金時代を迎えた。カセレスの貴族たちも積極的に航海に参加あるいは出資し、町は大いに繁栄した。こうした貴族が宮殿を建設し、大陸やヨーロッパ各地から先端的な建築や芸術をもたらした。
16世紀以降、スペインはキリスト教への強制改宗やムーア人(イベリア半島のイスラム教徒)の追放を行ったためユダヤ人やムーア人は町を去り、旧市街からユダヤ人街が消滅した。代わりに多くのキリスト教の教会堂や修道院が建設された。こうした建物は基本的に古代・中世の都市レイアウトを尊重して築かれたため、町の調和を乱すことはなかった。ただ、スペイン王は反乱を恐れて要塞宮殿や塔の撤去を命じたため、王家とつながりを持ついくつかの例外を除いてほとんどが取り壊された。スペインで絶対王政が進展する一方で都市の衰退が進み、カセレスの繁栄も終了した。18世紀末に司法府が置かれてふたたび繁栄期を迎えるが、城壁内の旧市街は維持された。
世界遺産の資産はマヨール広場の東、サン・フランシスコ広場の北に展開する旧市街で、400×200mほどの長方形の地域だ。一帯は全長1,174mの城壁に取り囲まれた城郭都市で、城壁内のイントラムロスと、エクストラムロス(城外)ながら城壁に隣接した城壁塔を中心とする構築物が含まれている。イントラムロスは北のサンタ・マリア地区(中心はサンタ・マリア広場、ゴルフィネス広場、サン・ホセ広場)と、南のサン・マテオ地区(中心はサン・マテオ広場、ヴェルタス広場)に二分される。
城壁の多くはキリスト教勢力の侵略に備えてイスラム教勢力が築いたものだが、ローマ時代の基礎やそれ以降に改修された部分も並存している。東西の城壁はよく残されているものの、南北の城壁は一部のみで、大きな城門は撤去された。現存する主な門は東のクリスト門と西のエストレリャ門だ。城を取り囲むように配された城壁塔は10基以上が残っており、代表的なものとして東のポソス塔、南東のモチャダ塔、南西のレドンダ塔とアヴェル塔、マヨール広場に隣接したグラス塔とプルピトス塔、ブハコ塔、北のエスパデロス塔、北東のオチャヴァダ塔などが挙げられる。15世紀にカスティリャ女王イザベル1世の命令で城壁塔以外の塔はシグエニャス宮殿の塔以外は撤去された。
イスラム教時代の建物は城壁と城壁塔以外にほとんど残っていないが、ヴェレタス宮殿の地下には当時の貯水槽が残っている。アルダナ邸は14世紀の建設で、その後多くの改修を受けたが、一部にイスラム建築の影響を残したムデハル様式(キリスト教美術にイスラム美術を取り入れた折衷様式)のデザインが残されている。
中世の代表的な要塞宮殿にはシグエニャス宮殿(カセレス=オヴァンド宮殿)が挙げられる。15世紀にムワッヒド朝の城砦跡に築かれたオヴァンド家の宮殿で、15世紀以前の唯一の塔が残る。15世紀はじめに建てられたヘネララ宮殿はゴシック様式の影響が見られる。カルヴァハル宮殿も15世紀の建設で、ファサードの紋章とポータル(玄関)のアーチが特徴的だ。ゴルフィネス・デ・アリバ宮殿は16世紀はじめの建設で、王家の宮殿だったため撤去されることなく残された。堅牢な宮殿であることから1936~39年のスペイン内戦でフランシスコ・フランコ将軍が本部を置いたことで知られる。
大航海時代以降の宮殿としては、15~16世紀建設のゴルフィネス・デ・アバホ宮殿が挙げられる。15世紀の要塞宮殿を引き継いだようなデザインだが、ゴシック様式やプラテレスコ様式(スペイン特有の細かな装飾を特徴とするルネサンス様式)の影響が見られ、ファサード(正面)には王家の紋章が刻まれている。カトリック両王が滞在したことでも知られる。ゴドイ宮殿はフランシスコ・ピサロとともに南アメリカのインカ帝国征服で功績を残したカセレス出身のコンキスタドール(征服者。新大陸の探検家)であるフランシスコ・デ・ゴドイが16世紀半ばに築いた宮殿だ。トレド=モクテスマ宮殿はトレド家のフアン・カノ・デ・サアヴェドラと中央アメリカのアステカ皇帝モクテスマ2世の娘イザベルの結婚を記念してその子孫のために築かれた宮殿で、両家の紋章を見ることができる。
代表的な教会堂の筆頭がサンタ・マリア大聖堂(カセレス大聖堂)だ。13世紀の創建で、16世紀に現在見られる形に改修された。バラ窓やピナクル(ゴシック様式の小尖頭)、尖頭アーチ、交差リブ・ヴォールトなどにゴシック様式が見られるが、カセレス伝統の重厚な造りを引き継いでいる。サン・マテオ教会も似た造りで、ゴシック様式で16世紀に建設された。ふたつの白い双塔が特徴的なサン・フランシスコ・ハヴィエル教会はイエズス会によってバロック様式で1698~1755年に建設された。
カセレスの城壁はムワッヒド朝がスペインに建設した卓越した要塞建築である。カセレスのモチャダ塔はバダホスのエスパンタペロス塔やセビリアのオロ塔としばしば比較されるが、モチャダ塔は大部分が保存されており、当時の文明を代表する城壁と城壁塔のアンサンブルの一部を構成している。
カセレスは14~16世紀、強力なライバル関係にある貴族によって統治された都市の傑出した例であり、要塞化された宮殿や邸宅・塔が街を彩っている。そのユニークな歴史的背景のため中世から近世古典期にかけて、北部ゴシック、イスラム教、イタリア・ルネサンス、新世界(ヨーロッパ人が大航海時代に発見した新たな土地)といった非常に多様で複雑な芸術様式の痕跡を残している。
資産には顕著な普遍的価値を伝えるために必要なすべての要素が含まれている。要塞化された邸宅や宮殿・塔によって特徴付けられた城壁および建造物群は高いレベルで完全性を保持している。城壁によって囲まれた防衛圏は物理的・視覚的にその力を誇示している。
資産は顕著な普遍的価値に影響を与える重大な脅威には直面していない。また、資産を保全・整備しようという官民の行動は強力であり、自治体による市の建築遺産のための特別復興・保護計画により完全性と真正性の継続的な維持が保証されている。
あちらこちらで伝統的な花崗岩の石積みが見られ、貴族たちによる15世紀以降の要塞建築や16世紀以降の宮殿建築が数多く高い質のまま伝わっており、資産はおおよそゴシック・ルネサンス都市として維持されている。カセレスは貴族の争いと、カトリック両王による統一によって生み出された平和、両者の証拠となる建造物を数多く引き継いでおり、その歴史は都市や建築のレイアウト・形状・デザインによって容易に理解することができる。
カセレスの城壁はその多彩なデザインや素材によって、共和政ローマの時代からキリスト教徒が町を支配する時代まで、この地で定住を勝ち取ったさまざまな人種の多様な文化の影響を物語っている。一例が城壁塔で、12世紀のムワッヒド朝期に城壁塔が整備され、15世紀にプルピトス塔が増築され、16世紀にブハコ塔が改修された。