13~15世紀にかけて、イベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝の首都グラナダにはムスリム(イスラム教徒)の芸術家たちが集結し、イスラム美術の粋を集めてアルハンブラ宮殿とヘネラリーフェ離宮を完成させた。1492年にナスル朝を滅ぼしたスペインの国王たちはその美しさに圧倒され、宮殿として使用を続けた。本遺産は1984年に「グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ "The Albambra and the Generalife, Granada"」の名称で世界遺産リストに登録され、1994年にイスラム教時代のムーア人住宅街であるアルバイシン地区が拡大登録された。
後アルハンブラ宮殿のある丘は「サビカの丘」と呼ばれ、ローマ時代にはすでに砦が建設されていたようだ。8世紀はじめにイスラム王朝であるウマイヤ朝がイベリア半島を占領するとその版図に入った。750年にウマイヤ朝がアッバース朝に滅ぼされると、ウマイヤ家の生き残りであるアブド・アッラフマーン1世は北アフリカからイベリア半島まで逃亡し、コルドバ(世界遺産)を首都に後ウマイヤ朝を建国する。後ウマイヤ朝はウマイヤ朝の芸術家たちを保護し、芸術を奨励したため西アジアや北アフリカのイスラム美術が開花した。7~8世紀にサビカの丘に砦が建設され、11世紀頃には丘の西端にアラビア語で「城砦」を意味するアルカサバが築かれた。こうした城砦が赤砂岩で造られていたため、あるいは夜中に赤い灯で照らされていたことから「アル・カラー・アル・ハムラ(赤い城)」と呼ばれるようになり、後にアルハンブラに転じたとされる。また、8世紀以降に北アフリカからイスラム教徒が移住をはじめ、各地にマグリブ(リビア以西の北アフリカ)風の街並みを建設した。ムーア人(イベリア半島のイスラム教徒)たちは侵略されにくいように石畳の通路を迷路のように巡らせ、強い日差しを反射するために壁を白く塗り、オレンジ色の素焼き瓦を屋根に葺いた。現在のアルバイシン地区の街並みはこの頃からの伝統を引き継いでいる。
後ウマイヤ朝は1031年に滅亡してイスラム王朝は分裂し、一方キリスト教勢力はアラゴン王国やカスティリャ王国が勢力を伸ばし、イベリア半島の多くを占領してレコンキスタ(キリスト教徒による国土回復運動)を進めていた。13世紀前半にはカスティリャ王国のフェルナンド3世がコルドバ、セビリアを落とし、残すは南部沿岸一帯のアンダルス(アンダルシア地方)のみとなった。アンダルスでは1230年代にムハンマド1世がグラナダを首都にナスル朝を建国し、イスラム教勢力最後の牙城となった。政治的には厳しい状況にあったが、イスラム教徒、特に芸術家たちがグラナダに集結し、14世紀に文化的最盛期を迎えた。
ムハンマド1世、2世は水道や道路といったインフラを整備し、アルカサバを拡大。2km弱の城壁内に宮殿を建設して要塞宮殿とし、城下町を整備した。特にムハンマド2世はシエラネバダ山脈から水を引くことに成功し、これを利用して太陽の丘と呼ばれる東の丘に噴水や滝・水路を備えた庭園を造営し、夏の離宮としてヘネラリーフェを建設した。ヘネラリーフェはさらにムハンマド3世やイスマイール1世の時代に拡張された。
14世紀に親子3代によってアルハンブラ宮殿の核となるナスル朝宮殿が整備された。イスマイール1世のメスアール宮、息子ユースフ1世のコマレス宮、さらにその息子ムハンマド5世のライオン宮だ。これらの宮殿はイスラム建築の粋を集めて建設され、その集大成となった。政治的にも14世紀後半のムハンマド5世の時代、ペストがヨーロッパを襲ったことで周辺国が打撃を受けて弱体化し、さらにカスティリャとアラゴンが対立し内紛が起こるなど、相対的にナスル朝の勢力が拡大した。
しかし、15世紀に入るとポルトガルにセウタ、カスティリャにジブラルタルといった北アフリカのイスラム教勢力の拠点を落とされて孤立。貿易が低迷し、さらにカスティリャとアラゴンが接近したことで危機を迎えた。1469年にはアラゴン王フェルナンド2世とカスティリャ女王イザベル1世が結婚して連合が成立し、1479年に合併して事実上スペイン王国が誕生した。カトリック両王(フェルナンド2世とイザベル1世)は満を持してナスル朝攻略に取り掛かり、1492年にムハンマド11世がアルハンブラ宮殿を開城して降伏し、ナスル朝は滅亡した。
両王はアルハンブラ宮殿を離宮として残し、一部をサン・フランシスコ修道院に改修して修道院と教会堂を建設した。ふたりは宮殿がいたく気に入り、死後、修道院教会に埋葬されている(後に棺はグラナダ大聖堂の王立礼拝堂に移された)。また、両王の孫であるスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)は避暑地として整備し、新たにカール5世宮殿を建設した。宮殿や庭園は一部が破壊・改築されたものの大枠はスペイン王家によって保護され、いまに伝えられている。一方アルバイシン地区について、キリスト教への強制改宗が行われたため多くのムーア人が町を捨てて北アフリカに旅立った。代わってやって来たキリスト教徒たちは平野部については新しい街並みを建設したが、丘の中腹にあるアルバイシン地区は維持され、多くの建物はそのまま残された。
世界遺産の構成資産はアルハンブラ宮殿+ヘネラリーフェ、アルバイシン地区の2件となっている。アルハンブラ宮殿の中心はナスル朝宮殿で、主にメスアール宮、コマレス宮、ライオン宮の3宮殿からなる。メスアール宮の多くはライオン宮に吸収されて多くは残っておらず、主に政庁や議場として使用され、キリスト教時代は礼拝堂となっていた。メスアールの間はナスル朝宮殿最古の部屋で、他に黄金のパティオ(中庭)、黄金の間などがある。コマレス宮は外交の中心として使用されていた場所で、各国の使者や大使をここで迎えた。池を中心としたミニマルなデザインが美しいアラヤネス(天人花)のパティオ、アーヴィングが『アルハンブラ物語』を執筆した場所で木の象眼(素材を彫って別の素材をはめ込んだ装飾技法)で夜空を象った大使の間、格天井のバルカの間などがある。ライオン宮はアルハンブラ宮殿のハイライトで、12頭の大理石製ライオン像が雄々しいライオンのパティオ、精密華麗なムカルナス(鍾乳石を模した天井飾り)で知られる二姉妹の間とアベンセラヘの間、壁画で彩られた諸王の間、スタッコ(化粧漆喰)で覆われたリンダラハのバルコニーなどがある。
コマレス宮に隣接した建物がカール5世宮殿で、建築家ペドロマチュカの設計で1526年に建設がはじまった。ルネサンス様式の宮殿にローマ時代のアンフィテアトルム(円形闘技場)を模した2階建てのパティオが隣接しており、古代~中世イタリアの雰囲気を伝えている。カール5世はまた、隣のモスク(イスラム教礼拝堂)をアルハンブラのサンタ・マリア・デ・ラ・エンカルナシオン教会に改修している。パルタル庭園は噴水や池を散りばめた美しい池泉回遊式庭園で、庭園を見渡す貴婦人の塔やユーフス3世宮殿跡などが散在する。パラドール・デ・サン・フランシスコはもともと14世紀にムハンマド3世が築いた宮殿で、カトリック両王が16世紀にサン・フランシスコ修道院に改修した。東端のアルカサバはナスル朝以前からの城砦で、ヴェラ塔やオメナヘ塔、兵舎や倉庫跡などが残されている。
太陽の丘に築かれたヘネラリーフェはナスル朝王家の夏の離宮で、水をふんだんに使っていることから「水の宮殿」の異名を持つ。砂漠が広がる西アジアにおいて庭園は楽園の象徴とされ、古代ペルシアのペルシア庭園パイリダエーザはパラダイスの語源となった。また、イスラム教の聖典『コーラン』に「天国には美しい川が流れている」との記述があることから、イスラム教圏では天国を模した美しい噴水庭園が盛んに造営された。その象徴がアセキアのパティオで、水路が全体を4分割するチャハル・バーグ(四分庭園)のデザインは天を流れる4本の川を模している。アセキアのパティオを見下ろしているのはロイヤル・ホールで、イスマイールの塔が隣接している。アセキアのパティオや糸杉のパティオ、ポロのパティオ、水の階段といった一帯は上の庭園と呼ばれ、南に広がる幾何学式庭園は下の庭園と呼ばれている。
アルバイシン地区はナスル朝以前からの古い街並みで、ナスル朝時代の多くの建物が残されている。代表的な建物としては、ナスル朝の貴族の宮殿であるダール・アル・オラ宮殿、グラナダ最古級のモスクを教会に転用したエル・サルヴァドール教会、イスラム・キリスト教建築が融合したムデハル様式のサン・ペドロ教会、11世紀建設の公衆浴場ハンマームが残るエル・バニュエロ、14世紀ムーア様式のデザフラ邸、16世紀ルネサンス様式のカストリル邸などが挙げられる。
アルハンブラとヘネラリーフェにはイスパノ・モレスク世界(イスラム教影響下のイベリア半島世界)で知られるすべての芸術的技法が注ぎ込まれている。こうした装飾と建築は数学的・幾何学的計算に基づいてデザインされており、また水と植物をうまく使用することで美的価値を引き立たせている。そしてまた1492年以降、スペイン王室はこうした伝統とともに宮殿や庭園建築、西洋ヒューマニズムの造形芸術などにおいてもっとも先進的な発展を遂げた。
アルバイシン地区はナスル朝期に築かれたスペイン南部のイスパノ・モレスクの都市の中でもっとも保存状態がよいものである。キリスト教時代のルネサンスとスペイン・バロックの影響でさらに豊かさを増し、ふたつの伝統が見事に調和して独創的で他に類のないスタイルを生み出している。
アルハンブラとヘネラリーフェではスタッコ・木材・陶器といった特徴的な素材を用いた独創的な装飾が発展した。また、アラビア文字を用いたイスラミック・カリグラフィー(文字装飾)やアラブの建築様式によって実現した「会話する建築」を用いてナスル朝期の宗教的・政治的・詩的世界を表現し、ルネサンスの人文主義的で革新的な芸術様式を加えて味付けされ保存された。こうした建造物群は東洋と西洋の芸術的伝統が融合した顕著な例であり、いまなお生きている文化である。
アルバイシン地区はズィール朝からナスル朝までグラナダのアンダルスの文化のすばらしい縮図・象徴であり、アンダルスの人々に受け継がれたこうした文化はヨーロッパの主要な文化に多大な影響を与えた。その偉大な科学的知識や社会的慣習、美食と衛生観念は何世紀にもわたってアンダルスの文化に影響を与えつづけ、その事実をもって先進文化の偉大さを裏付けている。
アルハンブラとヘネラリーフェは13・15世紀のイスパノ・モレスク文化の際立った証拠である。これらは中世イスラム教世界の宮殿建築の卓越した例であり、北アフリカのマグリブ建築のように時間を経て破壊されたり改築されたりせずに保存されている。アルバイシン地区は中世のムーア人の住宅街であり、その建築と都市景観はキリスト教徒による征服後も変化がなかったことを示しており、今日まで続くアンダルスの文化のもっとも顕著な表出である。形状・素材・色彩といった主たる特徴はほとんど変化することなく保全されており、19世紀から20世紀初頭にかけて行われた地域の町づくりの中でも特徴を保持したまま引き継がれている。
それぞれの構成資産は創建以来、時代を超えて保存され、各時代の象徴として豊かな価値を伝えている。13世紀以降、支配者たちは時にその機能を変更しつつも全体の統一性を維持し、独自の方法で一帯を保存してきた。構成資産はさまざまな点で相互補完的であり、全体の一貫性を維持している。
アルバイシン地区は非常によく保存されており、ムーア人の建築に伝統的なグラナダの建築要素が融合した特徴的な街並みを伝えている。19世紀と20世紀前半の都市計画もこの豊かな文化遺産をベースとして進められた。世俗的な住宅群がカントリーハウス(貴族や富農が地方に築いた豪邸)やナスル朝期の都市構造と融合しており、21世紀のアルバイシン地区の独創性を際立たせている。
構成資産は中世初期イスラム建築の伝統の中で卓越しており、高い真正性を有している。宮殿都市として構想されて以来、一帯の区画化・領域化を行い、イスラム文化の典型的なデザイン原則に従って設計された。加えて幾何学・文字・草花文様といった技術で装飾され、中でも天井のムカルナスが特徴を際立たせている。こうしたバリエーションは様式的・文化的境界を越えてこの地で統合され集大成された。19世紀の修復が一部に影響を与えたが、20世紀の科学的手法によって修正されており、形状・素材・色彩などの主要な特徴はほとんど損なわれることなく伝えられている。
アルハンブラと特にヘネラリーフェはムーア人の庭園の伝統、水の美的使用、生産と娯楽両面の意味における庭園設計を採用し、ヨーロッパで知られるテラス式庭園のもっとも古い作品のひとつとなっている。また、植物を種々に配置・剪定したボタニカル・デザインの保存に対する懸念からルネサンスと現代の造園技術を取り入れており、その結果をも反映している。
アルバイシン地区の通りのデザインとイスパノ・モレスクの街並みは高い真正性を示しており、各時代の独創的な建物もよく保存されている。1990年までは世界レベルの保存政策・戦略の欠如により素材や技術が一部不十分である例も見られたが、今日ではこうした過去の欠陥も修復されている。現代的な構築物は可能な限り街並みに調和するようにデザインされているが、現代的な生活への不可逆的な変化はほぼ完全に残されている伝統的なムーア人住宅街の姿を損ないつつある。
狭く曲がりくねった通りが張り巡らされた雑然とした街並みは、キリスト教勢力による征服後に築かれた大広場や小さな公園といった新しい公共空間とよく調和している。両文化が融合したムーア様式の出現はこの地区を理解するうえで不可欠で、建築的にはナスル様式がキリスト教の修道院や教会、住宅の建築や装飾様式に対応したものであり、イスラム教時代の壁や門・住宅・宮殿・浴場・貯水槽・橋・病院といった建造物群とよく調和している。アルバイシン地区ではいわゆるスペイン・ムーア建築がこの文化的融合の具体的・象徴的なスタイルとなっている。