スペイン中西部エストレマドゥーラ州カセレス県グアダルーペに位置する修道院で、スペインの至宝・グアダルーペの聖母像(ヴィルヘン・デ・グアダルーペ。ヴィルヘンは英語のヴァージンで聖処女、すなわち処女受胎の聖母マリアを示す。ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デ・グアラルーペとも)を収めている。14世紀にカスティリャ王国やスペイン王国の王立修道院として確立され、レコンキスタ(国土回復運動)を完了させた女王イザベル1世や新大陸発見に貢献したコロンブスらが訪れてスペインの象徴となった。
伝説によると13世紀のある日、カセレス(世界遺産)のヒツジ飼いヒル・コルデロが逃げ出したウシを追っていたという。ウシが死んでいたので遺体に十字架を描いて供養しようとすると突如復活し、聖母マリアが現れて地面を掘るように告げたという。その場所を掘ってみると箱が埋めてあり、グアダルーペの聖母像が収められていた。コルデロから報告を受けた司祭はこれを信じなかったが、家に帰ると息子が死んでいる。司祭が聖母に許しを請うとしばらくして息子は生き返り、女性に助けられたことを伝えたという。司祭らはその場所に小さな聖堂を建てて祀った(以上の伝説にはさまざまな異説がある)。
グアダルーペの聖母像は全長59cm・4kgほどの黒い木像で、イエスを抱えた聖母子像となっている。伝説によると1世紀前後に聖ルカが彫ったもので、6~7世紀に教皇グレゴリウス1世がこれを事実と承認したという。セビリア大司教の手に渡ってイベリア半島に持ち込まれたが、8世紀はじめにイスラム王朝であるウマイヤ朝の侵略を受けて司祭たちが持ち去り、714年頃にグアダルーペ川の畔に埋めた。
狩りに訪れたカスティリャ王アルフォンソ11世は聖母の聖堂の噂を聞き付け、聖堂を参ると1337年によりふさわしいものに再建した。イスラム教勢力との戦いにおける勝利を祈願したアルフォンソ11世は1340年のサラドの戦いでマリーン朝やナスル朝を破ると、その勝利に感謝して修道院を建設し、王室の聖域として管理した。フアン1世は1389年に修道会のヒエロニムス会に聖域の管理を引き継がせた。この頃にはカスティリャ王室御用達の教会・修道院であるのみならず、スペイン最大級の巡礼地となっていた。
スペイン王国を成立させたカトリック両王(カスティリャ女王イザベル1世とアラゴン王フェルナンド2世)は隣接して宮殿を建設し(1856年に解体)、最後のイスラム王朝であるナスル朝の攻略を祈願してさまざまな寄進を行った。1492年にナスル朝を征服するとさらなる寄進を行い、特権を与えた。また、航海士クリストファー・コロンブスはインド到達を祈願して参拝し、1492年に達成(実際はカリブ海到達)すると、翌年ふたたび訪れて感謝を表した。他にも1521年に中央アメリカでアステカ帝国を滅ぼしたエルナン・コルテスや、1571年のレパントの海戦でオスマン帝国を破ったフアン・アンドレア・ドリア提督など、時代時代の貴族や要人が巡礼して寄進を行った。これにより王立修道院とグアダルーペの聖母はスペイン海洋帝国の象徴となり、メキシコやフィリピンなど各地にグアダルーペの名を持つ教会堂や礼拝堂が建設された。
1835年、修道院は王室やヒエロニムス会の手を離れてトレド大司教区に編入されて世俗化した。1908年にフランシスコ会に管理が委託され、以来トレド大司教、スペイン政府、フランシスコ会の共同管理となった。1955年には教皇ピウス12世が教皇庁バシリカの地位を与えた。これ以降も教皇ヨハネ・パウロ2世やスペイン王フアン・カルロス1世をはじめ多くの要人がこの地を訪ねている。
王立修道院の中心的な建物はグアダルーペの聖母像を収めたカマリン・デ・ラ・ヴィルヘン(聖母礼拝堂)だ。テンプロ・マヨールの東に立つ八角形の塔で、1687〜96年にバロック様式で建設された。柱も壁面もドームもバロック装飾で覆われており、画家ルカ・ジョルダーノの絵画やマルセリーノ・ロルダンの彫刻など数々の傑作を有し、その華やかさから「天国への控え室」と讃えられている。聖母像は黄金の宝座に収められている。
西に隣接する教会堂はテンプロ・マヨール(主礼拝堂)で、13世紀後半の創建と考えられているが当時の建造物は残っていない。1337年にアルフォンソ11世がムデハル様式(キリスト教美術にイスラム美術を取り入れた折衷様式)で再建し、アプス(後陣)以外がゴシック様式に改修されて1403年に完成した。バロック様式のクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)、フアン・ゴメス・デ・モーラの主祭壇など見事な工芸品で彩られている。
サンタ・カタリナ礼拝堂は15世紀半ばの建設で八角形のドームを持つ。サンタ・カタリナとサンタ・ポーラというふたつのバロック様式の祭壇画があり、彫刻家ヒラルド・デ・メルロの作品で飾られている。
レリカリオあるいはサン・ホセ礼拝堂は16世紀後半に建てられたバロック様式の聖具収納室兼礼拝堂で、レリカリー(聖遺物箱)をはじめとする聖具やバロック装飾で彩られている。
テンプロ・マヨール(主礼拝堂)の南に位置するサンタ・アナ礼拝堂は15世紀はじめの建築で、ゴシック様式の壁画や墓で知られる。修道院のメイン・ファサード(正面)に通じており、サンタ・マリア・デ・グアダルーペの広場に続いている。メイン・ファサードはゴシック様式だが草花文様を編み込んでおり、イスラム装飾の影響を受けたムデハル・ゴシック様式となっている。
サンタ・アナ礼拝堂の東に位置する聖具室は1638~47年に建設された聖域で、バロック装飾で覆われた華麗な空間となっている。スペイン黄金世紀を代表する画家フランシスコ・デ・スルバランの8点の絵画が掲げられている。
テンプロ・マヨールの北に位置するムデハル様式のクロイスター(中庭を取り囲む回廊)は1389~1405年の建設で、その名の通りムデハル様式のクロイスターとパティオ(中庭)からなる。四分割されたパティオはチャハル・バーグ(四分庭園)、中央の礼拝堂はホウズ(泉亭)を思わせ、白と赤のポリクロミア(縞模様)や馬蹄形アーチはムーア建築(イベリア半島のイスラム建築)によく見られる意匠で、イスラム建築の影響が多分に見られる。華麗な門はプラテレスコ様式(スペイン特有のルネサンス様式)だ。
さらに北のゴシック様式のクロイスターは1531~33年の建設で、病院の一部となっている。ゴシック様式がメインだが、ムデハル様式なども見られる。
新教会あるいは三位一体教会は修道院の東端に位置するバロック様式の教会堂で、コロンブスの子孫のひとりがに寄進して1730~36年に建設された。他に刺繍博物館や彫刻・絵画博物館などが公開されている。
サンタ・マリア・デ・グアダルーペ王立修道院は6世紀に及ぶ宗教建築のアンサンブルであり、卓越した建造物群である。
サンタ・マリア・デ・グアダルーペ王立修道院はレコンキスタにおけるイスラム教勢力のイベリア半島からの一掃と、コロンブスによるアメリカ大陸の発見という1492年に起きた世界的なふたつの重要な出来事を象徴している。グアダルーペの聖母は新世界(ヨーロッパ人が大航海時代に発見した新たな土地)のキリスト教化において強力なシンボルとなり、修道院は西ヨーロッパとラテン・アメリカの人々の中心的な巡礼地として崇められ、現在もその地位を引き継いでいる。
資産は顕著な普遍的な価値を伝えるために必要なすべての要素を含んでいる。修道院は建設以来、継続的に使用されており、完全性の大部分が保持されている。1908年以降は修復とメンテナンスが定期的に行われており、モニュメントに対する悪影響は見られない。現在はフランシスコ会の修道士が居住・管理しており、修道院は本来の力強さと豊穣さを保っている。多くの観光客や巡礼者を受け入れており、機能的な完全性も維持されている。
つねに使用されている宗教建築の特徴であるが、創建以来、修道院にはさまざまな建造物が建立され、さまざまなスタイルが混在している。ヒエロニムス会が4世紀以上にわたって居住・管理し、修復や改修を行ったが、種々の建造物群は元の形状と外観をおおむね保持している。近年の修復作業は現代の保存基準に則って適切に行われている。フランシスコ会は政府や自治体の各機関から必要な支援を受けており、アーカイブの研究・公開、図書館の運営等を通じて文化活動を継続している。