9世紀にサンティアゴ・デ・コンポステーラでイエスの十二使徒のひとりであるヤコブの墓が発見され、その墓を収める聖堂(世界遺産)を中心に市街は聖地化された。イベリア半島においてイスラム教勢力に対するレコンキスタ(国土回復運動)を進める中でヤコブ信仰と聖地巡礼はキリスト教の象徴となり、サンティアゴ・デ・コンポステーラと巡礼路が整備されるだけでなく、オビエド大聖堂のカマラ・サンタ・デ・オビエド(世界遺産)やブルゴス大聖堂(世界遺産)、レオン大聖堂(サンタ・マリア・デ・レグラ大聖堂)、サント・トリビオ・デ・リエバナ修道院のように聖遺物(イエスやマリア 、使徒や聖人の関連品)を収める各地の巡礼地も聖地化され、巡礼そのものが聖なる行為とされた。
本遺産は1993年にフランスの道(カミーノ・フランセス。カミーノは「道」の意味)が「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の名称で世界遺産リストに登録され、2015年に北部の巡礼路群を加えて拡大され、現在の名称に変更された。主な巡礼路は以下で、総延長2,200km以上・構成資産2,000件近くに及ぶ。
○フランスの道(738km)
○北の道(1498.91km)
なお、構成資産の中には他の世界遺産との重複があり、サンティアゴ・デ・コンポステーラの旧市街と大聖堂は世界遺産「サンティアゴ・デ・コンポステーラ[旧市街]」、オビエド大聖堂のカマラ・サンタ・デ・オビエドなどは「オビエド歴史地区とアストゥリアス王国の建造物群」、ルーゴのローマ城壁群は「ルーゴのローマの城壁群」、ブルゴス大聖堂は「ブルゴス大聖堂」と二重に登録されている。また、フランスの巡礼路については「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」として別に登録されている。
伝説によると、イエスが復活して天に昇った後、使徒らは集まって宣教する地域を決め、ヤコブ(ゼベダイの子のヤコブ/大ヤコブ)はイベリア半島を担当して海を渡ったという。宣教を終えて帰国するが、ユダヤ統治者アグリッパ1世に捕縛されて西暦43年頃にエルサレム(世界遺産)で処刑された。弟子たちはヤコブの棺をイベリア半島に送って埋葬したが、埋葬地は8世紀のイスラム王朝ウマイヤ朝によるイベリア半島征服を経て行方不明となった。
814年頃のある夜、ペラギウスという隠者が森の上に輝く星を見つけ、その光に導かれてローマ時代の墓を発見する。報告を受けた司教テオドミロが調べてみるとヤコブのものであることが判明した。アストゥリアス王アルフォンソ2世はその場所を覆うように聖堂を建設し、818年頃に完成すると最初の巡礼者になったという。これがサンティアゴ・デ・コンポステーラ聖堂だ。スペイン語の「サンティアゴ」は聖ヤコブを意味するラテン語 "Sanctus Iacobus" が転化したもので、「コンポステーラ」は「よい場所」あるいは「墓地」を意味する。アルフォンソ2世は聖堂を築いて町を聖地として整備するだけでなく、オビエドからサンティアゴ・デ・コンポステーラに至る「原始の道」などの巡礼路や巡礼地の充実を図った。ヤコブが白い馬に乗って現れて敵を一掃したというムーア殺し伝説(ムーア人はイベリア半島のイスラム教徒)が各地で発生し、やがてヤコブ信仰はキリスト教の象徴となってレコンキスタを活気付かせた。なお、以上の伝説は異説が多く確証はない。
ヤコブ信仰の拡大に対し、イスラム王朝である後ウマイヤ朝のアルマンスールは997年にサンティアゴ・デ・コンポステーラを襲撃して破壊した。聖堂も傷付いたが、1075年に町は司教区となって大聖堂に昇格し、同年にカスティリャ=レオン王国のアルフォンソ6世によって再建が開始された。再建はゆうに1世紀以上に及び、1221年にロマネスク様式の壮大な大聖堂が献納された(大聖堂の詳細は世界遺産「サンティアゴ・デ・コンポステーラ[旧市街]」の項目を参照)。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの名声は10世紀にはピレネー山脈を越え、リモージュやトゥール(世界遺産)、ル・ピュイ=アン=ヴレ(世界遺産)などフランス各地から巡礼者が訪れるようになった。11世紀には巡礼者の法的保護が進み、アルフォンソ6世をはじめカスティリャ、レオン、ガリシア、ナバラ、アラゴンといった国々の王はポンフェラダやアストルガ、ブルゴス、レオン、パンプローナ、ナバラといった山地の町々を巡礼地として整備し(すべて構成資産)、教会や修道院のネットワークを充実させ、道路や橋・病院を建設し、フランス人を配して巡礼路の拡充を進めた。これがフランス国境からイベリア半島北部の山地を横断する「フランスの道」で、正規のルートとなった。1139年には教皇カリクストゥス2世がヤコブの物語をカリクストゥス写本にまとめ、修道士エメリック・ピコーの巡礼体験をベースに初の巡礼路ガイドブックとなる写本第5書「巡礼案内記」を出版した。この写本はUNESCO(ユネスコ=国際連合教育科学文化機関)の「世界の記憶」に登録されている。12世紀中にフランスの道は毎年数千人の巡礼者を集めるまでになり、途中の町々を発展させ、文化交流を促した。この頃、フランス人の間ではすでにホタテの貝殻が漁師だったヤコブの象徴として認知され、「聖ヤコブの貝(コキーユ・サン=ジャック)」を身に付けて巡礼を行った。
イベリア半島の北に広がるビスケー湾沿岸部、バスク地方からもフランスの道へ通じる「内陸の道」が整備された。しかし、少数ながら海岸沿いのルート、いわゆる「海岸の道」を採る巡礼者もいた。このルート上には天使の十字架、勝利の十字架、イエスの頭を覆っていた聖骸布といった聖遺物を収めるオビエド大聖堂のカマラ・サンタ・デ・オビエドがあり、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に次ぐ聖地とされた。オビエドからサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路は「原始の道」と呼ばれる9世紀に成立した古いルートで、フランスの道が整備される以前は主に海岸の道が使われていた。また、海岸の道の中程には8世紀創建と伝わるサント・トリビオ・デ・リエバナ修道院があり、イエスが磔(はりつけ)にされた十字架の木材を使って制作されたといわれる至宝リグナム・クルシス(真木の十字架)を収めている。この修道院への巡礼路が「リエバナの道」だ。13世紀に入るとこうした「北の道」と呼ばれる巡礼路群も整備され、新たな教会堂や病院・橋などが建設された。
いつしかサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼はイタリアやドイツ、ハンザ同盟都市といったローマ・カトリック圏全域に広がり、エルサレム、ローマ&バチカン(世界遺産)と並ぶ3大聖地に数えられた。この過程でフランスの道、北の道以外にも、スペイン南部カタルーニャ地方からフランスの道に通じる「エブロの道」や「カタルーニャの道」、スペイン西部を縦断する「銀の道(ラ・プラタ街道)」、スペイン中部の「カスティリャの道」、バレンシアからの「レバンテの道」、グラナダからの「モサラベの道」、ポルトガルを縦断する「ポルトガルの道」、サンティアゴ・デ・コンポステーラから西へ伸びる「フィニステレの道」、イギリスや北ヨーロッパの玄関口であるア・コルーニャやフェロールといった港湾都市を結ぶ「イングレセスの道(イギリスの道)」などが整備された。また、フランスにはトゥールの道、リモージュの道、ル・ピュイの道、トゥールーズの道などがあり、こちらはフランスの「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」として世界遺産リストに登録されている。
15世紀末にはじまる大航海時代、いずれかの領地に日が照るという「太陽が沈まぬ帝国」を築いたスペインはローマ・カトリックを南北アメリカ大陸やアジアに普及させ、サンティアゴ・デ・コンポステーラは世界的な巡礼地となった。16世紀にはじまる宗教改革においてもローマ・カトリックの盟主として新教(プロテスタント)の弾圧を行い、オランダ独立戦争(1568~1648年、ネーデルラント独立戦争/八十年戦争)などに介入した。しかし、スペイン継承戦争(1701~14年)など相次ぐ戦争や絶対王政や教会への不信、治安の悪化などから巡礼は下火になり、フランス革命(1789~99年)後のナポレオン戦争(1803~15年)やスペイン独立戦争(1808~14年、半島戦争)を経て衰退した。第2次世界大戦後、巡礼路は宗教的・歴史的・文化的・レジャー的観点から再興が進み、現在に至っている。
本遺産の構成資産は巡礼路の細かな区画を合わせると2.000件近い。以下では代表的なもののみを表示する。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路はイベリア半島とヨーロッパの他の地域との間で、中世はもちろんその後の数世紀にかけて文化の双方向の交流と発展に重要な役割を果たした。巡礼路に関連した文化遺産の数は膨大で、ロマネスク美術の誕生を象徴し、ゴシック、ルネッサンス、バロック美術のすばらしい作品群を残している。また、中世にイベリア半島の他の地域で都市が衰退したのとは対照的に、巡礼路から発信された新しい価値観や商業活動はイベリア半島北部の都市の発展と新たな都市の創設をもたらした。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路は宗教的な建物と世俗的な建物、道や橋などの土木構築物、巡礼路から若干外れた大小の飛び地といった多様な建造物群を特徴とする。キリスト教の巡礼路の中でもっとも完全な史資料を保存している。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路は中世およびそれ以降の時代のヨーロッパのすべての社会階級と出自の人々の信仰の力と影響を示す際立った証拠である。
構成資産は顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての重要な要素を内包し、巡礼行事を維持するために必要なフランスの道と北の道の巡礼路、宗教・世俗建築、大小飛び地、土木構築物等を含んでいる。これらの構成資産はその重要性や特徴を伝え表現するために適切なサイズを持ち、開発・放置といった悪影響を受けておらず、周辺もバッファ-・ゾーンによって保護されている。
フランスの道と北の道の構成資産はいずれも形状・デザイン・素材・原料・用途・機能といった点において本物である。巡礼路としての機能とその利用は1,000年を超える長い歴史を有するが、その多くが歴史的特徴を引き継いでおり、いずれの巡礼路についても真正性は高いレベルで維持されている。巡礼路の顕著な普遍的価値とそうした特徴との関係性は適切に表現されており、そうした要素は資産の価値を十分に伝えている。