北アフリカ沿岸部の大西洋上に浮かぶカナリア諸島テネリフェ島北東部の都市で、15世紀後半に標高550mの内陸高原部に新世界(ヨーロッパ人が大航海時代に発見した新たな土地)初の非要塞型植民都市として建設された。ムデハル様式(キリスト教美術にイスラム美術を取り入れた折衷様式)やバロック様式、新古典主義様式を中心とする多数の歴史的建造物が残されており、その後の新世界の植民都市のモデルとなった。
テネリフェ島には2,000年ほど前から人間が居住していた。15世紀にカスティリャ王国(15世紀後半にアラゴン王国と連合・合併してスペイン王国が成立)やポルトガル王国によってアフリカ大陸西岸を下るアフリカ航路が探索され、カナリア諸島はカスティリャによって征服された。テネリフェ島はアデランタード(コンキスタドール=征服者・探検家の統率者。先遣都督)、アロンソ・フェルナンデス・デ・ルーゴが1494年のアグエルの戦いや第2次アセンテホの戦いなどで先住民族グアンチェ族を破って征服した。1497年にはアグエルの戦いが行われた内陸の地にサン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナの建設がはじまった。内陸を選んだのは海賊の襲撃を避けるためで、城壁を持たない非要塞型都市として建設された。スペインの植民都市としては初の試みで、以後アメリカ大陸に建設された植民都市のひとつのモデルとなった。一般には「ラ・ラグーナ(湖沼)」と呼ばれるが、当時存在した湖沼にちなんでいる。こうした湖沼は森林伐採や干拓による都市や畑の拡張によってやがて消滅した。
1497年の建設当初は特に計画もなくコンセプシオン教会を中心に小さな家々が建てられていった。これがヴィリャ・デ・アリバ(上の町)だ。一方、アデランタード公邸(現在のアデランタード広場)付近はレオナルド・ダ・ヴィンチが設計したイタリアのイモラにならい、1502年に方格設計(碁盤の目状の整然とした都市設計)の都市グリッドが採用された。こちらがヴィリャ・デ・アバホ(下の町)で、両者はカレラ通りで結ばれ、平行してサン・アグスティン通りなどが通された。町はヴィリャ・デ・アバホを中心に発展し、1515年までに1,000人以上の住民が入植した。
スペインは新しい都市を建設すると教会や修道院を設置し、キリスト教の宣教や土地の開拓を担わせた。この地も同様で、1506年にテネリフェ島と町の守護聖人となった大天使ミカエルを祀るサン・ミゲル礼拝堂、1511年には聖母マリアに捧げるヌエストラ・セニョーラ・デ・ロス・レメディオス聖教会、1522年にドミニコ会のサント・ドミンゴ・デ・グスマン教会、1547年に諸島初の女子修道院であるサンタ・クララ・デ・アシス修道院、1580年には至宝「ラ・ラグーナの祝福のキリスト像」と呼ばれる木像を収めるサンティシモ・クリスト王立礼拝堂、1606年にはアデランタード公邸を改修してサンタ・カタリナ・デ・シエナ修道院が建設された。また、福祉の一環として1506年にサン・セバスティアン病院、1515年にドロレス病院教会が設けられ、1521年には水道が引かれた。
1531年にスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)が都市として承認し、州都や海軍本部が置かれるなど諸島の政治・経済・宗教の中心として繁栄した。16世紀半ばまでに人口は6,000人を超え、諸島最大の都市に成長した。1701年には教皇クレメンス11世によって諸島初の大学であるサン・アグスティン大学(現在のラ・ラグーナ大学)が開学した。この頃、17~18世紀が最盛期だ。
しかし、1723年に州都が南東6kmほどに位置する港湾都市サンタ・クルス・デ・テネリフェに遷されると海軍本部も移転し、企業も追随して政治・経済の中心の座は奪われた。サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナは徐々に衰退したが、宗教的機能は維持され、宗教・文化を引き継ぐ古都としてありつづけた。
世界遺産の資産はおおよそ南東のサント・ドミンゴ・デ・グスマン教会、西のコンセプシオン教会、北のサンティシモ・クリスト王立礼拝堂の三角形の内部と周辺部となっている。街並みの特徴は多様な建築様式が混在している点で、16~17世紀はムデハル様式、17~18世紀はバロック様式と新古典主義様式が優勢で、市内の1,470棟の建物のうち627棟はムデハル様式となっている。しかし、純粋な様式は少なく、ひとつの建物でも多様な様式が混在する折衷様式であることが多い。
1497年創建のコンセプシオン教会は市内最古級の歴史を持つが、建物は1511年にムデハル様式で改築され、その後、幾度もの改修・増築を経て何様式ともいえない外観を持つに至った。一見教会堂には見えないがそれでもラテン十字式・三廊式の教会堂で、17世紀に建てられたバロック様式の鐘楼を持つ。鐘楼は正方形の角楼で、高さ28mの頂部付近から町を見下ろすことができる。付近には16世紀建設のサン・アグスティン修道院跡があり、2階建てのクロイスター(中庭を取り囲む回廊)や塔が残されている。
1511年創設のヌエストラ・セニョーラ・デ・ロス・レメディオス聖教会は1515年にムデハル様式で改築され、1618年に鐘楼が取り付けられた。1819年に司教座が置かれて大聖堂(ヌエストラ・セニョーラ・デ・ロス・レメディオス大聖堂/ラ・ラグーナ大聖堂)となっている。ギリシア・ローマ建築を思わせるファサード(正面)は1820年に新古典主義様式で改修され、20世紀に入ってバラ窓などゴシック・リバイバル様式の改修が加えられた。
サン・ミゲル礼拝堂やサンティシモ・クリスト王立礼拝堂、ロドリゲス・モウレの十字架礼拝堂、フアン・デ・ヴェラの十字架礼拝堂といった礼拝堂に共通するのは巨大なアーチのポータル(玄関)と木造扉で、これらはムデハル様式の特徴でもある。ムデハル様式は一般の邸宅でもしばしば採用され、透かし彫りの窓や木造の出窓、木造の扉、草花文様のレリーフ、木々の茂るパティオ(中庭)など、もともとイスラム建築で好んで使用された意匠を特徴とする。
宮殿・邸宅としてもっとも古い建物は1545年建設のコレヒドール邸(現・市役所)で、ファサードにはプラテレスコ様式(スペイン特有の細かな装飾を特徴とするルネサンス様式)の装飾が見られる。同じく16世紀建設のレルカロ邸(現・テネリフェ歴史博物館)のファサードはマニエリスム様式だ。バロック様式の邸宅には1629~87年建設のサラザール邸があり、マニエリスム様式と新古典主義様式の要素も取り入れられている。3つの様式の折衷ということではナヴァ宮殿なども同様だ。住宅には青や黄など強烈な色彩を持つ建物も少なくないが、これらは植民地に多いスタイルだ(コロニアル様式)。
サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナはヨーロッパ、特にスペイン・ポルトガルの文化とアメリカ大陸の文化が影響し合い、人間・文化・社会経済的な交流が行われていたことの重要な証である。方格設計の都市プランやアデランタード広場、教会・クロイスター、あるいは住宅建築など随所でイベロ・アメリカ(南北アメリカ大陸のスペイン語・ポルトガル語圏)の痕跡を確認することができる。
サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナはスペインとして初となる非要塞型の植民都市であり、そのレイアウトはアメリカ大陸の多くの植民都市のモデルとなった。領域都市として計画性にすぐれており、新しい社会秩序を形成するための都市空間が見事に設計・構築されている。建設以来、生きている都市として時代時代の流行・嗜好・様式の跡を留めており、今日まで続くヒスパニックとアメリカの双方向の文化交流の通過点として際立った証拠を伝えている。
15世紀に築かれた当初の都市プランとレイアウトが残されており、近代的な都市にあって旧市街の歴史地区では当時の街並みが伝えられている。サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナは均質な都市構造をよく示しており、非常に保存状態のよい宗教・公共・住宅建築がオリジナルのグリッド上に立ち並び、互いによく調和している。こうしたユニークな植民都市を代表する多数の建造物が維持されており、特にムデハル様式については600棟以上が分類され保存されている。
5世紀以上の歴史を持つサン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナは歴史的なトレンドが重なり合う動的変化を通して生まれた稀有な都市である。誕生以来つねに進化している一方で、都市レイアウトやオープンスペース、歴史的モニュメントは保持され、変化の中で継続して同一性を確保し真正性を保っている。
都市構造に関して真正性は現在と過去の地図の比較分析によって示される。歴史地区については細部まで真正性のレベルは非常に高い。建造物についてオリジナルのファサードが多数残されており、歴史的な街並みを形成しつつ建築の多様な起源を示している。イスラムとヨーロッパの要素を融合させたムデハル建築の数々は独創的かつ本物であり、新世界の建築の発展に重要な役割を果たした。
また、サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナには伝統的な商業の多くが引き継がれており、その真正性を失うことなく現在のニーズに適応している。さまざまな無形文化遺産についても習慣や宗教的な儀式を通して歴史的建造物とリンクしており、現在に伝えられている。