スペインのラ・リオハ州サン・ミジャン・デ・ラ・コゴージャの谷に位置するふたつの修道院、ユソ修道院(サン・ミジャン・ユソ修道院)とスソ修道院(サン・ミジャン・スソ修道院)を登録した世界遺産。キリスト教勢力による国土回復運動=レコンキスタの象徴とされた聖エミリアーノ(聖ミジャン)が活動した聖域に築かれた修道院群で、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(世界遺産)の有力な巡礼地のひとつでもある。
5世紀末、ヒツジ飼いの家に生まれた聖エミリアーノは敬虔なキリスト教徒で、仲間とともに汚れのない生活を求めてデマンダ山地の洞窟群を利用して隠者として暮らしていた。560年に請われて山を下り、司祭として活動を行うが、晩年はふたたび山に入って生活した。574年に101歳で亡くなると、洞窟の近くに埋葬された。6世紀末、西ゴート王国の時代に洞窟に隣接してスソ修道院が建設され、聖エミリアーノの物語がサラゴサの司教によってラテン語で記録された。
一帯は8世紀にイスラム王朝であるウマイヤ朝や後ウマイヤ朝によって征服されたが、修道院の活動に変化はなかったという。939年にレオン王ラミロ2世が後ウマイヤ朝と戦ったシマンカスの戦いの戦場に聖エミリアーノが出現し、ムーア人(イベリア半島のイスラム教徒)を一掃したという伝説が広がり、サンティアゴ・デ・コンポステーラ(世界遺産)に祀られたイエスの十二使徒のひとりヤコブとともにレコンキスタのひとつの象徴となった。
929年頃、ナバラ王ガルシア・サンチェス1世の支援を得てスソ修道院はモサラベ様式(イスラム教支配下のキリスト教美術様式)で再建された。この頃、9~10世紀に『グローサス・エミリアネンセス "Glosas Emilianenses"』と呼ばれるコデックス(冊子写本)が著された。聖書の注釈写本だが、ラテン語とともに中世カスティリャ語の一種、中世バスク語の一種の訳が書き付けられており、スペイン語やアラゴン語の最古の記録とされている。このコデックスは長らくユソ修道院図書館に収められていたが、現在はマドリードのエル・エスコリアル修道院(世界遺産)が所蔵している。
スソ修道院は11世紀初頭に後ウマイヤ朝の軍人アルマンゾールの襲撃を受けて焼失したが、ナバラ王サンチョ・ガルセス3世が奪還し、山の下方(ユソ)に新しい修道院を建設すると同時に、上方(スソ)のスソ修道院はロマネスク様式で修復された。現在見られるのは主としてこの時代の建物で、西ゴート時代の扉やモサラベ様式の土台・床・アーチなど、所々に以前のスタイルを残している。また、12世紀頃には聖エミリアーノが活動した洞窟のひとつが礼拝堂に改装され、聖エミリアーノの横臥像が収められた(サンタ・オリア礼拝堂)。これ以外にもさまざまな洞窟や井戸などの跡が残されており、一帯は聖域として祀られている。13世紀にはカスティリャ語・スペイン語の初の詩人であるゴンサロ・デ・ベルセオが修道士として修行を行い、数々の詩を書き残した。スソ修道院にはナバラ女王の棺などとともにベルセオの棺が収められている。
一方、山の麓に立つユソ修道院は1053年にサンチョ・ガルセス3世によって建設が開始された。聖エミリアーノは10世紀に列聖されてナバラ王国の守護聖人となっていたが、伝説によるとサンチョ・ガルセス3世は聖エミリアーノの棺をナヘラにある王室修道院であるサンタ・マリア・ラ・レアル修道院に移送しようとしたが、棺を乗せた牛車を引くウシたちは山の麓で動かなくなってしまった。国王はこの現象に奇跡を見て、この地にユソ修道院の建設を命じたという。修道院はロマネスク様式で築かれたが、この時代の建物はほとんど残っておらず、現在の建物は16~18世紀に再建されたものだ。
広場と菜園に囲まれたユソ修道院は修道院教会、ライオンのパティオ(中庭)、主クロイスター(行列の回廊。クロイスターは中庭を取り囲む回廊)、月のクロイスターからなり、パティオやクロイスターを2~3建ての建物が取り囲んでいる。16世紀半ばに築かれた修道院教会はラテン十字式・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)のゴシック様式で、主祭壇の祭壇画には17世紀の修道画家フレイ・フアン・リッシの作品を掲げている。クワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)のトラスコロ(祈祷台)はロココ様式で、プラテレスコ様式(スペイン特有の細かな装飾を特徴とするルネサンス様式)の説教壇など美しいレリーフや装飾で彩られている。礼拝堂に収められた聖エミリアーノの聖櫃(せいひつ。聖なる箱)は11世紀に作られたもので、象牙に金・銀や種々の宝石をはめ込んだ象眼細工で飾られている。もうひとつは聖フェリセス・デ・ビリビオの聖櫃だ。
教会の南に隣接する主クロイスターは1階がゴシック様式、2階がルネサンス様式で、東に聖具室、西に諸王のサロンが設けられている。聖具室はもともと会議などを行うチャプター・ハウスだった場所で、天井のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)をはじめ16~18世紀のさまざまなバロック・ロココ装飾が見られる。黄金の祭壇はチュリゲラ様式(スペイン・バロック様式)だ。諸王のサロンは王の絵が掲げられていることからこの名が付いた。17世紀に建設された修道院図書館はスペインの修道院でも最高レベルの写本類を収めており、古いものは11世紀にさかのぼる。これ以外にゴンサロ・デ・ベルセオの銅像や言語関係の資料を集めたシレングア(言語の間)や食堂などのほか、月のクロイスターの一角ではホテルが営業を行っている。
ふたつの修道院はサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の「フランスの道」から10kmほどしか離れておらず、重要な巡礼地のひとつとして巡礼者を集めている(巡礼路としては世界遺産登録されていない)。
人類のすぐれた創造物のひとつであるスペイン語の口頭と文語および散文と詩がサン・ミジャン・デ・ラ・コゴージャの修道院コミュニティで誕生した。大陸を越えて拡大したスペイン語圏の文明の端緒となった独創的で際立った文化的資産を示している。
ユソ修道院とスソ修道院はモサラベ、西ゴート、ロマネスク、ルネサンス、バロックといった多彩なスタイルを有し、その建築と周囲の自然景観はスペインの歴史においてきわめて重要な時代の証拠を提示している。また、千年以上にわたるキリスト教修道主義の導入と継続を示す卓越した例である。
スソ修道院の自然環境と遺跡はスペイン語を生み出した伝統的生活と物理的に結び付いており、伝統のベースとなった思想と信念に満ちている。これらはスペイン語の元となる言語で書かれた『グローサス・エミリアネンセス』やゴンサロ・デ・ベルセオの作品群とも強く関連している。
構成資産は両修道院のみならずスソ修道院周辺の洞窟をはじめとする遺跡群やユソ修道院の菜園群などを含んでおり、顕著な普遍的価値を示す主要な要素をすべて含んでいる。バッファー・ゾーンはふたつの修道院と周辺を広くカバーしており、その景観も保護下にある。現在、スソ修道院は政府、ユソ修道院は聖アウグスチノ修道会が法的保護の下で適切に管理している。両修道院はいまだ巡礼地であり、修道院の活動やスペイン語の学習をはじめとする言語の活動も引き継いでおり、その機能も維持されている。
ユソ修道院とスソ修道院の真正性は高いレベルで保持されている。スソ修道院では近年、建造物の修復や瓦礫の撤去が行われており、それに対する批判もある。しかし、基本的に聖域を13世紀当時に戻すための作業であり、構造への影響は軽微で1964年のヴェネツィア憲章(建設当時の形状・デザイン・工法・素材の尊重等、建造物や遺跡の保存・修復の方針を示した憲章)に反するものではない。ユソ修道院の一部をホテルとして使用するための改装も慎重に行われており、真正性は損なわれていない。