セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館

Cathedral, Alcázar and Archivo de Indias in Seville

  • スペイン
  • 登録年:1987年、2010年軽微な変更
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(iii)(vi)
  • 資産面積:12ha
  • バッファー・ゾーン:187ha
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、セビリア大聖堂(左)とインディアス古文書館(右)
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、セビリア大聖堂(左)とインディアス古文書館(右)
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、セビリア大聖堂のアプス(左)とヒラルダの塔(右)
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、セビリア大聖堂のアプス(左)とヒラルダの塔(右)
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、セビリア大聖堂、南ファサードのサン・クリストバル門
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、セビリア大聖堂、南ファサードのサン・クリストバル門
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、ヒラルダの塔から見たセビリア大聖堂
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、ヒラルダの塔から見たセビリア大聖堂。左の塔は十字形の交差廊に立つクロッシング塔(十字形の交差部に立つ塔)で、右に翼廊、上に身廊、下に内陣が延びている
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、セビリア大聖堂のクワイヤ、聖歌隊席
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、セビリア大聖堂のクワイヤ、聖歌隊席
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、アルカサルのペドロ1世宮殿、大使のサロン
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、アルカサルのペドロ1世宮殿、大使のサロン
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、アルカサルのペドロ1世宮殿、乙女のパティオ
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、アルカサルのペドロ1世宮殿、乙女のパティオ
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、アルカサル、右が特権門、左は淑女の庭園
世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館」、アルカサル、右が特権門、左は淑女の庭園

■世界遺産概要

いずれかの領地にはつねに日が照っているという「太陽が沈まぬ帝国」を築き上げたスペイン。黄金世紀と呼ばれる16~17世紀スペイン海洋帝国の最大都市と主要港はセビリアであり、セビリア大聖堂(サンタ・マリア大聖堂)がその中心にあった。アルカサルはイスラム美術の影響を残すムデハル様式(キリスト教美術にイスラム美術を取り入れた折衷様式)の宮殿、インディアス古文書館は海洋帝国時代の史資料を集めた資料館で、スペイン最盛期の歴史を物語っている。なお、世界遺産登録時にはバッファー・ゾーンが設けられていなかったが、2010年の軽微な変更で設定された。

○資産の歴史

セビリアは大西洋からグアダルキビール川を85kmほど上った川岸に位置し、大型船が航行可能であるため古代からタルソスやフェニキア、カルタゴといった民族の港湾都市として発達した。紀元前3~前2世紀に共和政ローマの支配下に入り、植民都市ヒスパリスが建設された。4~5世紀にゲルマン系諸民族の侵入がはじまり、6~7世紀に西ゴート人が建てた西ゴート王国の版図に入った。711年のイスラム王朝ウマイヤ朝の侵略を経てウマイヤ朝とその後継である後ウマイヤ朝の支配を受け、11世紀に後ウマイヤ朝が滅亡するとタイファと呼ばれる小国並立時代に入り、セビリア王国が成立した。12世紀には北アフリカのイスラム王朝であるムワッヒド朝がイベリア半島に侵出し、南部沿岸一帯のアンダルス(アンダルシア地方)を制圧してセビリアを拠点都市として整備した。一方で、11~12世紀にかけてスペイン北部からキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)が進み、1248年にカスティリャ王フェルナンド3世によってセビリアが落とされた。

15世紀後半、カスティリャ女王イザベル1世とアラゴン王フェルナンド2世が結婚して連合・合併が成立し、スペイン王国が誕生した。カトリック両王(フェルナンド2世とイザベル1世)は1492年にナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完了させると目を大西洋に転じ、クリストファー・コロンブスをはじめとするコンキスタドール(征服者。新大陸の探検家)の支援を行った。1492年にコロンブスのインド到達(実際にはカリブ海)の知らせ受けると、両王の孫であるカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)は新世界(ヨーロッパ人が大航海時代に発見した新たな土地)との貿易や出入国などを管理するために1503年にセビリアのアルカサル(当初は王立造船所)に通商院を設置してセビリア港を独占港とし、1524年には国王直属のインディアス枢機会議を組織して植民地支配を担当させた。

1519年にセビリア港を出発したフェルディナンド・マゼランやフアン・セバスティアン・エルカーノの艦隊は1522年に帰港し、史上初の世界周航を成し遂げてアジアの支配に道を拓いた(マゼランは前年にフィリピンのマクタン島で死亡)。また、1521年にエルナン・コルテスが中央アメリカでアステカ帝国を、1533年にはフランシスコ・ピサロが南アメリカでインカ帝国を征服し、スペインに莫大な富と領土をもたらした。コルテスとピサロはセビリアに帰港してトレド(世界遺産)でカルロス1世に謁見している。こうして南北アメリカ大陸やアジアに領土を獲得したスペインは「太陽が沈まぬ帝国」と形容され、カルロス1世と息子フェリペ2世の時代に最盛期を迎えた。こうした繁栄は17世紀にオランダやイギリスに取って代わられるまで続き、セビリアはスペインの最大都市・主要港として帝国の経済をリードした。

○資産の内容

セビリア大聖堂の場所を礼拝堂として開拓したのはムワッヒド朝だ。1172~98年に建設された大モスクはパティオ(中庭)を含めて135×113m以上という巨大なもので、名建築家アフマド・ベン・バソによるものだった。隣接のミナレット(礼拝=サラートを呼び掛けるアザーンを流すための塔)は高さ82mに及び、当時世界でもっとも高いミナレットで、現在においても世界有数を誇る。1248年のキリスト教徒による奪還後、大モスクは教会堂としてそのまま使用された。しかし、1356年の地震で一部が損壊すると再建計画が進み、15世紀前半から1506年にかけて新聖堂の建設が進められた。後世に語り継がれるほどの美しさと巨大さを求めて築かれた大聖堂は平面116×76mというとてつもない規模で、ゴシック様式のラテン十字式・五廊式(身廊と4つの側廊を持つ様式)の教会堂として完成した。構造はゴシック様式ながら、交差廊のドームや黄金の主祭壇、チャプター・ハウス、王室礼拝堂はルネサンス様式で、クワイヤ・スクリーン(内陣であるクワイヤと外陣である身廊を仕切る聖障。ルード・スクリーン/チャンセル・スクリーン)やコンセプシオン・グランデ礼拝堂はバロック様式、サン・ホセ礼拝堂は新古典主義様式と、ゴシックから現在までのあらゆる主要なスタイルが集まっている。なお、大聖堂にはコロンブスの棺が収められているが、棺はドミニカ共和国のサンタ・マリア・ラ・メノル大聖堂(世界遺産)にも存在し、さまざまな議論を呼んでいる。

また、ミナレットは名建築家エルナン・ルイスがルネサンス様式の尖塔と鐘を取り付けて鐘楼として改修し、高さは104.1mに達した。最上段を飾るのは彫刻家バルトロメ・モレルによる高さ3.47mを誇る勝利の女神像ヒラルディージョで、ここからヒラルダの塔と呼ばれるようになった。

アルカサルの立つ場所には紀元前から建物があり、ローマ時代末期には初期キリスト教の教会堂が立っていた。10世紀に後ウマイヤ朝が城塞を建設して一帯を城壁で取り囲んだ。アルカサルはアラビア語で城砦を意味する「アル・クサル」に由来する。11~12世紀のセビリア王国やムワッヒド朝の時代にたびたび改修・増築され、内部に宮殿や庭園が建造された。現在でも城壁やライオン門、ライオンのパティオ、漆喰のパティオなどはムワッヒド朝期のものだ。1248年のカスティリャ王国による征服を経て、1252年からアルフォンソ10世がゴシック様式の宮殿の建設を開始した。ゴシック宮殿には礼拝堂やグラン・サロン(大ホール)、タペストリーのサロンなどが設置され、16世紀にカルロス1世やフェリペ2世の改修を受けている。1356年の地震でムワッヒド朝の宮殿が損傷し、ペドロ1世が新たな宮殿に建て替えた。これがムデハル様式のペドロ1世宮殿だ。草花・幾何学文様や馬蹄形・多弁アーチ、ポリクロミア(縞模様)、木象眼(素材を彫って別の素材をはめ込む装飾技法)といった精緻なイスラム装飾で覆い尽くされた大使のサロンのほか、多弁アーチと水路・花壇が美しい乙女のパティオ、ムカルナス(鍾乳石を模した天井飾り)が見られる人形のパティオ、美しい格天井で知られる王の寝室をはじめ多くの見所が存在する。他にも14世紀ムデハル様式の正義の間、16世紀に新世界貿易を仕切った提督の間と通商院のほか、庭園についても水星の池やダンスの庭、王子の庭、乙女の庭などテーマを持った数々の庭園が配されている。

インディアス古文書館はもともとフェリペ2世が貿易取引所として1584~98年に建設したもので、エル・エスコリアル(世界遺産)やトレドのアルカサル(世界遺産)の建設で知られる王室建築家フアン・デ・エレラの設計でルネサンス様式で築かれた。1785年にカルロス3世がインディアス枢機会議をここに移すと、バリャドリード郊外のシマンカス城公文書館などに分散していた植民地関係の資料をこの地に集約させた。コロンブスやコルテス、ピサロら直筆の航海日誌やテキストをはじめ、その数は43,000巻・8,000万ページに及ぶ。

■構成資産

○セビリア大聖堂

○インディアス古文書館

○アルカサル

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

ヒラルダの塔はムワッヒド朝建築の傑作であり、きわめて独創的な芸術的成果を示している。大モスクに替わって築かれた五廊式の巨大な大聖堂はヨーロッパ最大のゴシック建築であり、エルナン・ルイスがデザインしたチャプター・ハウスの楕円形の空間はルネサンス様式のもっとも美しい建築作品のひとつである。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ヒラルダの塔はスペインのみならず、スペインによる征服後、アメリカ大陸の多くの塔建築に影響を与えた

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

セビリア大聖堂とアルカサルはムワッヒド朝の文化と1248年の再征服から16世紀に至るアンダルスのキリスト教の文化のきわめて重要な証拠であり、ムーア人(イベリア半島のイスラム教徒)の影響をそこかしこに留めている。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

セビリア大聖堂にはコロンブスの墓があり、新大陸の発見とラテン・アメリカの植民地化に関係している。また、アルカサルの提督の間ではマゼランとエルカーノらによる世界周航など、史上もっとも偉大な探検のための数々の計画が立案された。インディアス古文書館にはアメリカ大陸の植民地に関するもっとも重要な文書が保管されている。このようにセビリア大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館は人類史的にきわめて重要な出来事に直接関係している。

■完全性

構成資産は建造物の物理的な完全性を保持しており、さまざまな歴史的段階を証明する構造・装飾を維持している。セビリア大聖堂は15世紀初頭に大モスクの上に建設が開始されたゴシック様式の教会堂で、現在も同様の用途で使用されている。ムワッヒド朝期に築かれたオレンジのパティオは大聖堂の前庭に、ミナレットはヒラルダの塔として鐘楼に改装され、いまに伝えられている。同様にチャプター・ハウスのような後期ルネサンスの作品も元のゴシック様式の構造を明確に留めている。アルカサルもまた建設・改修されたさまざまな時代・段階の完全性をよく保っている。ムワッヒド朝期の宮殿の部屋・中庭・庭園等はムデハル様式のペドロ1世宮殿やその他の建造物・庭園の構造等に残されている。インディアス古文書館は貴重な資料とともにその全体が保存されている。

■真正性

3件の構成資産はそれぞれの建築史を明確に反映しており、スペイン黄金世紀における役割を教会の権力、王室の権力、ならびにスペインが新世界の植民地を通して獲得した交易の権力といった観点から伝えている。これら3棟はアメリカ大陸におけるこうしたスペインの力と影響を伝えるもっとも重要な建造物群である。ただ、セビリアには他にも類似の建造物があり、資産の顕著な普遍的価値を伝える能力を強化するために他の建造物群と関連付けられる必要がある。こうした関係が解除され孤立することは3件の構成資産の真正性に影響を与える可能性がある。

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