スペイン東部カタルーニャ州の州都バルセロナに位置し、建築家リュイス・ドメネク・イ・モンタネール(1850~1923年)が設計したふたつのカタルーニャ風アール・ヌーヴォー=モデルニスモの代表作、カタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院を登録した世界遺産。鉄を多用した最新のモダニズム建築をベースに、カタルーニャの伝統的な芸術と先進的な芸術を融合させた総合芸術作品で、カタルーニャ・ルネサンスと呼ばれる芸術的潮流を主導した。なお、本遺産は2005年の「アントニオ・ガウディの作品群」におけるサグラダ・ファミリアの生誕のファサードとクリプトの拡大登録に伴って、2008年の軽微な変更でサグラダ・ファミリアをバッファー・ゾーンから外して分離した。
1850年にバルセロナで生まれたモンタネールは物理や数学といった自然科学分野で若くして頭角を現し、マドリードの芸術・建築学校で学んだ後、弱冠25歳でバルセロナ建築学校の教授に就任した。専門は地形学や鉱物学で、後には建築素材や構造の専門家として活動した。世界遺産「アントニ・ガウディの作品群」を築いたアントニ・ガウディも一時生徒だった。1888年のバルセロナ万国博覧会でレストラン(現・三竜城)とホテル(すでに解体)の設計を担当し、好評を博してその名を世に知らしめた。1900年に同校の校長となり、翌年には国会議員に選出され、カタルーニャの寵児となった。
カタルーニャは8世紀にイスラム王朝のウマイヤ朝や後ウマイヤ朝の支配を受けたがいち早く支配を脱し、フランク王国の下でスペイン辺境伯領が置かれた。9世紀にバルセロナ伯となり、987年にはカタルーニャ君主国としてフランク王国から独立した。1137年にアラゴン王国と同君連合(同じ君主を掲げる連合国)となってアラゴン=カタルーニャ連合王国が成立し、1238年にバレンシア王国を征服。1469年にアラゴン王フェルナンド2世がカスティリャ女王イザベル1世と結婚して同君連合が成立し、1479年に合併して事実上スペイン王国が誕生した。15世紀末にはじまる大航海時代にスペインは大海洋帝国を築くが、カタルーニャは政府の中枢から外されて自治権も奪われた。それでもカタルーニャの人々は民族としてのアイデンティティを強く持ちつづけた。
18世紀後半、もともと盛んだった繊維産業を発展させて自力で産業革命を成し遂げると、カタルーニャはスペインでもっとも先進的な地域となり、バルセロナは一気に発展した。経済的繁栄は芸術活動を促進し、文芸復興運動カタルーニャ・ルネサンスが興った。この流れの中で最先端のモダニズムやアール・ヌーヴォーと土着の建築・芸術様式が融合し、モデルニスモが誕生した。たとえばアール・ヌーヴォーは花や木といった植物や貝殻・波などの自然の滑らかな造形をモチーフとするが、草花・幾何学文様はイスラム装飾アラベスクが得意とするところで、カタルーニャではキリスト教とイスラム教の芸術を融合させたムデハル様式やゴシック様式を加えたイザベル様式などで取り入れていた。こうした伝統の芸術スタイルと最新のスタイル、さらには鉄やコンクリート、ガラスといった新素材が融合してモデルニスモは飛躍した。カタルーニャの芸術はもちろん、最新の建築や素材に精通したモンタネールはまさにモデルニスモの申し子だった。
1888年のバルセロナ万博で大いに盛り上がったカタルーニャは独自の芸術を推進するため1891年に合唱団オルフェオ・カタラを立ち上げる。カタルーニャの象徴ともいえる合唱団は人々の支持を大いに集めて各地でコンサートを行ったが、1904年に本拠地となるホール=カタルーニャ音楽堂(パラウ・デ・ラ・ムジカ・カタラーナ)の建設を決め、設計をモンタネールに依頼した。1905年に着工し、1908年に約2,000人を収容するホールが完成すると、バルセロナはその年の最高の建築に選出した。
カタルーニャ音楽堂はスペイン最初期の鉄骨造のモダニズム建築で、強力な鉄骨を柱や梁に使用することで石を積み上げる石造建築では不可能だった広大な内部空間を確保し、壁を取り去って広いガラス・スペースを採ることで自然光を利用した明るい空間を実現した。また、細い鉄筋を網状に用いて自由に造形するなど、鉄を効果的に使用した。装飾についてはムデハル様式やバロック様式などの伝統装飾をアール・ヌーヴォー調でアレンジし、温かで華やかなステンドグラスやトレンカディス(粉砕タイル。砕いた陶磁器片を貼り合わせたカタルーニャ風モザイク)、彫刻、スタッコ(化粧漆喰)、レリーフなどで彩った。こうした装飾には彫刻家ミゲル・ブレイ、エウゼビ・アルナウ、パウ・ガウガリョ、モザイク作家リュイス・ブル、マリオ・マラリアーノ、画家ミケル・マソート、ステンドグラス作家ジェロニ・グラネイといった主にカタルーニャの芸術家たちが動員された。
カタルーニャ音楽堂の計画が進んでいた同じ19世紀末、バルセロナでは急速な人口増加に対応するために6つの病院を統合した大規模な総合病院=サン・パウ病院(ホスピタル・デ・ラ・サンタ・クレウ・イ・サン・パウ)の建設計画が立ち上がっていた。この設計にもモンタネールが抜擢され、病院は1901年に着工し、1911年までに8ブロックが完成し、使用が開始された。1913年には息子のペラが工事に参加し、ふたたび最高の建築賞を受賞。1923年にモンタネールは亡くなるが、ペラがその跡を継ぎ、1930年に完成させた。世界遺産登録は1997年だが、この病院は2009年まで営業を続けていた。
サン・パウ病院は約300m四方の敷地に27棟もの建物を有するモダニズムでも最大規模の病院コンプレックスだ。「芸術は人を癒やす」というコンセプトの下でモンタネールは植物の曲線や色彩を研究し、美しく柔らかで温かい安らぎの空間を演出した。患者の心を浮き立たせるために基本はピンクや黄といった暖色で、庭にはオレンジやライムなどのフルーツ、あるいはラベンダーやローズマリーといったハーブを植えてモデルニスモの建造物群と調和させた。こうした空間は芸術的価値が高いだけでなく、アートセラピーやカラーセラピーの先駆けといわれる。主な建物には管理棟、手術棟、薬局棟、食堂棟、後療病院、教会、修道院などがあり、病棟はサン・ジョルディ棟、サン・サルヴァドール棟などと聖人の名が冠された。医師の迅速な移動と患者の楽な移動を実現するためにこれらは地下通路で結ばれた。際立っているのが管理棟で、鉄骨造と多彩な装飾はカタルーニャ音楽堂と同様だが、ゴシック、ビザンツ、バロックなどさまざまなスタイルを集めた建築で、室内や廊下はステンドグラスやトレンカディス、象眼細工、彫刻、レリーフ、スタッコといった装飾で覆い尽くされている。こちらでも彫刻家パウ・ガウガリョ、フランセスク・モドイェル、モザイク作家フランセスク・ラバルタ、マリオ・マラリアーノといった数多くの芸術家が起用された。
モンタネールは他にもバルセロナのオテル・エスパーニャ(「オテル」はホテルの意)、カサ・フステル(「カサ」は家)、カサ・リェオ・モレラ、カサ・トーマス、パラシオ・モンタネール(パラシオは宮殿)、パルマ・デ・マヨルカのグラン・オテル、レウスのカサ・ナヴァスなど多くの建物を残しているが、この2作品は際立っている。
モンタネールによるカタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院は人類の創造的な才能を示す傑作であり、モデルニスモの中でも芸術性において際立った建築である。
カタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院はムーア様式(イベリア半島のイスラム教徒の芸術様式)やムデハル様式、バロック様式、ゴシック・リバイバル様式、アール・ヌーヴォーなど多彩な歴史と芸術様式を反映しており、モダニズムにおいても多くの芸術家が関与し、模倣され、その発展に貢献した。
カタルーニャ音楽堂では鉄骨造によって広くて光あふれる空間を創造し、サン・パウ病院では病人に寄り添うために大胆なデザインと装飾を採用して構造を追随させた。いずれもカタルーニャ・ルネサンスとモデルニスモを代表する卓越したモダニズム建築である。
構成資産はいずれも顕著な普遍的価値を示す主要な要素をすべて網羅しており、サン・パウ病院については新病院も含めて広いバッファー・ゾーンが設定されている。カタルーニャ音楽堂を管理していたオルフェオ・カタラにはもともと修復や保全を担当する遺産部門があり、すぐれた管理を行っていた。現在でもコンサートが行われており、構造や装飾はもちろん機能も変わらず維持されている。サン・パウ病院は民間団体ながら市や州も関与して保全を行い、2009年まで病院として機能してきた。いずれも歴史芸術モニュメントに指定されており、法的保護下にあり、適切に管理されている。
カタルーニャ音楽堂について、1988年に建築家オスカー・トゥスケの監督の下で修復が行われ、保全体制が整えられた。サン・パウ病院については2009年に営業が終了し、その後は27棟の修復が順次、進められている。タイルの補修をはじめ修復はオリジナルの素材やデザインを忠実に踏襲して行われており、カタルーニャ音楽堂にエアコンや防音設備のような新しい設備や補強材を導入する際も真正性には細心の注意が払われた。総合的にカタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院の真正性は高いレベルで維持されている。