メリダの考古遺跡群

Archaeological Ensemble of Mérida

  • スペイン
  • 登録年:1993年
  • 登録基準:文化遺産(iii)(iv)
  • 資産面積:30.77ha
  • バッファー・ゾーン:354.82ha
世界遺産「メリダの考古遺跡群」、ミラグラス水道橋
世界遺産「メリダの考古遺跡群」、ミラグラス水道橋 (C) Julio Pesquero
世界遺産「メリダの考古遺跡群」、テアトルム
世界遺産「メリダの考古遺跡群」、テアトルム
世界遺産「メリダの考古遺跡群」、ディアナ神殿
世界遺産「メリダの考古遺跡群」、ディアナ神殿
世界遺産「メリダの考古遺跡群」、グアディアナ川のローマ橋
世界遺産「メリダの考古遺跡群」、グアディアナ川のローマ橋 (C) Ardo Beltz
世界遺産「メリダの考古遺跡群」、アンフィテアトルム
世界遺産「メリダの考古遺跡群」、アンフィテアトルム
世界遺産「メリダの考古遺跡群」、キルクス
世界遺産「メリダの考古遺跡群」、キルクス (C) VonRalph

■世界遺産概要

メリダはスペイン中西部エストレマドゥーラ州バダホス県の都市で、ローマ時代には初代皇帝アウグストゥスの名を取ってエメリタ・アウグスタの名前でローマ属州ヒスパニア・ルシタニアの州都として繁栄した。同種のものでは帝国屈指の大きさを誇るグアディアナ川のローマ橋やキルクス(多目的競技場)、美しいたたずまいで魅せるミラグロス水道橋やテアトルム(ローマ劇場)など、名高いローマ建築の数々を伝えている。

○資産の歴史

グアディアナ川とその支流アルバレガス川に挟まれた三角地帯に位置するメリダは地域の要衝で、旧石器時代から人類の居住の跡があり、巨大なドルメン(支石墓)や洞窟壁画が発見されている。共和政ローマは紀元前2~前1世紀にはイベリア半島東部や南部を支配下に収めていたが、北西部については川や山に阻まれて征服できずにいた。アウグストゥスは紀元前26年に自ら軍を率いて遠征し(カンタブリア戦争)、紀元前25年にポイントとなるグアディアナ川に橋を架けて要塞を建設し、植民都市エメリタ・アウグスタを築いて退役軍人を入植させ、町の基礎を築いた。ラテン語で "emeritus"(エメリタス)は「名誉」を意味し、退役した兵士に敬意を表して命名された。ローマによるイベリア半島征服は紀元前19年に完了した。

エメリタ・アウグスタはイベリア半島西部を縦断するラ・プラタ街道(銀の道)の中心都市として繁栄し、ローマ属州ヒスパニアが北東部のタラコネンシス、南部のバエティカ、西部のルシタニアに3分割されるとルシタニアの州都となった。帝国最大版図を築いたトラヤヌス、帝国各地に名建築を残したハドリアヌスの手によってさらに整備された。

300年前後に皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教の大弾圧を行った。このとき現れたのが12歳の少女エウラリアだ。エウラリアは知事の元を訪れて弾圧の中止を直訴し、改宗を強要されるも拒否を続け、最終的に処刑された。このニュースはヒスパニアはもちろんローマにまで届いたという。4世紀にキリスト教が弾圧から容認に変わるとエメリタ・アウグスタにはヒスパニア大司教座が置かれてイベリア半島の宣教の中心となり、エウラリアの墓には殉教聖堂が建設されてヒスパニアを代表する巡礼地となった。これが現在のサンタ・エウラリア・バシリカで、エウラリアが列聖されてメリダの守護聖人になるとサンタ・エウラリアのオベリスクが建てられた。

4世紀にイベリア半島にゲルマン系諸民族が侵入をはじめるとローマの統治は弱まり、422年にはスエビ人がスエビ王国を建国してメリダに首都を置いた。476年に西ローマ帝国が滅亡すると西ゴート王国が勢力を強め、6世紀にはスエビ王国を征服し、7世紀までにイベリア半島全域を支配した。西ゴート王国は当初、異端とされていたアリウス派を支持していたが、589年の第3回トレド公会議でローマ・カトリックに改宗して宣教を支援した。

711年、イスラム王朝ウマイヤ朝が西ゴート王国を滅ぼすと、王国の残党がメリダに退避。1年以上にわたる包囲戦の末、開城して降伏した。メリダはイスラム教勢力の支配にたびたび抵抗したため、834年に後ウマイヤ朝のアミール(総督。後ウマイヤ朝では君主)であるアブド・アッラフマーン2世が町を取り囲む市壁の破壊を命じ、代わりにローマ橋の脇に橋を守る要塞=アルカサバを建設した。これにより城郭都市としての機能は失われ、町は徐々に衰退した。1230年にレコンキスタ(国土回復運動)によって解放されて町は再建されたが、大きくは繁栄することはなかった。18世紀のスペイン継承戦争(1701~14年)やナポレオン戦争(1803~15年)、スペイン独立戦争(1808~14年、半島戦争)でふたたび荒廃したが、おかげで古代・中世の遺構や建物がよい状態で保存された。

○資産の内容

エメリタ・アウグスタは典型的な植民都市で、方格設計(碁盤の目状の整然とした都市設計)の都市プランを持ち、東西を結ぶデクマヌス・マクシムスと南北を貫くカルド・マクシムスという2本の幹線道路をクロスさせ、中央にフォルム(公共広場)を置いた。この町はグアディアナ川のローマ橋を中心に設計されたが、それはローマ橋とデクマヌス・マクシムスが結ばれている点で確認できる。世界遺産としてはローマ時代を中心に西ゴート、イスラム教時代のものも含めて22件の構成資産からなる。ただし、一部は地域で登録されており、複数の建造物を含んでいる。

グアディアナ川のローマ橋はアウグストゥス時代に創建された全長792 m・高さ12m、60のアーチを持つ石造アーチ橋だ。幾度かの洪水で流されており、時代時代の改修を受けているが、特に両端はローマ時代のものが伝えられている。アルバレガス川のローマ橋も同時期の建設で、全長145m・幅7.9m・高さ6.5mを誇る。アルカンタリージャ橋は下水道のための1アーチ橋だ。グアディアナ川のローマ橋の東端にある要塞跡がアルカサバだ。周囲約538mのほぼ正方形で、高さ10mの石垣が残されている。

エメリタ・アウグスタは高度な水利システムを備えていた。ふたつの川があるにもかかわらず丘の上にプロセルピナ貯水池、コマルヴォ貯水池といったダムを建設し、水道で清潔な水を引き入れた。ミラグロス水道橋はプロセルピナ貯水池から続く全長10~11kmの水道の一部で、全長830m・最大高25mの三重アーチ橋で、白い花崗岩と赤いレンガのポリクロミア(縞模様)が特徴的だ。「奇跡の水道橋」の名はその規模、美観、何世紀もありつづけた堅牢性を讃えたものといわれる。サン・ラサロ水道橋は1.5kmを超える水道橋で、現在の橋は16世紀の再建。南端にローマ時代の3基の橋脚と1つのアーチが残っている。

エメリタ・アウグスタの中心はフォルムで、ディアナ神殿が残されている。神殿は平面31.8×21.9mほどで、1世紀の創建当時は女神ディアナではなく皇帝を祀っていたと見られる。ディアナ神殿の東100mほどには属州ルシタニアのフォルムがあり、コリント式のポルティコ(列柱廊玄関)の一部が残っている。ディアナ神殿の北西200mほどにあるトラヤヌスのアーチは高さ14m・幅5.7mの石造アーチで、かつては大理石で覆われていた。用途は明らかではないが、一説ではフォルムのゲートだったとされる。

娯楽施設としてはローマ劇場であるテアトルムが名高い。アウグストゥスの腹心アグリッパが紀元前16~前15年に創設した劇場で、トラヤヌスやコンスタンティヌス1世の時代に改修されている。直径約86m・推定5,500席を有する半円形の劇場で、ステージには美しい列柱が立ち並び、神々や皇帝の石像で飾られていた。アンフィテアトルム(円形闘技場)は長辺126m・短辺103mの楕円形で、約15,000席を有し、中央には55×41mのアリーナが設けられている。かつてはここで剣闘士や猛獣の戦いが行われた。キルクスはローマ帝国最大級を誇る競技場で、約30,000人を収容するスタンドの内部には全長約440m・幅約115mのトラックがあり、主に馬車競争を行った。

主な宗教施設としてサンタ・エウラリア・バシリカが挙げられる。現在の建物の多くはレコンキスタ後、13世紀以降のロマネスク・ゴシック建築だが、18世紀以降の調査で身廊の下にエウラリアの時代のものと見られる遺構が発見された。現在この場所はクリプト(地下聖堂)として祀られている。サンタ・カタリナ・バシリカ跡はエウラリア巡礼者のための療養院の跡だ。サンタ・クララ教会は1602年に設立されたバロック様式の教会堂で、かつてはサンタ・クララ修道院の教会堂だった。西ゴート王国に関するすぐれた美術品のコレクションで知られる。カサ・エレーラ・バシリカ跡は初期キリスト教の教会堂跡だ。

■構成資産

○ロス・ミラグロス水道橋

○サン・ラサロ水道橋

○アルカンタリージャ橋

○グアディアナ川の貯水池とローマ橋、アルカサバ

○テアトルムとアンフィテアトルム、付属施設

○コンコルディア神殿跡

○トラヤヌスのアーチ

○サンタ・カタリナ・バシリカ跡

○カサ・エレーラ・バシリカ跡

○サンタ・エウラリア・バシリカ:通訳センター、マルス神殿

○ローマのキルクス

○ミトラ神殿跡-コランバリウム葬祭地域

○サンタ・クララ教会と西ゴート人の美術コレクション

○コマルヴォ貯水池

○プロセルピナ貯水池

○属州フォルム

○ローマ時代の城壁とアルバラナ・イスラム塔

○国立ローマ美術博物館

○サンタ・エウラリアのオベリスク

○アルバレガス川のローマ橋

○ディアナ神殿

○レイエス・ウエルタスの温泉

○アランジュの温泉

■顕著な普遍的価値

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

メリダの考古遺跡群はすべてのローマの都市設計のルールに従って建設されたローマ植民都市の顕著な例である。また、メリダはローマ時代とそれ以降の時代の州都・首都としての役割を反映した建造物群を保持している。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

メリダの考古遺跡群はローマ帝国の最盛期とその後の時代の両面についてローマの都市公共建築の卓越した例を示している。

■完全性

メリダの考古遺跡群の保存状態は非常にすぐれており、素材の完全性を維持している。ローマ植民都市の主要な構造と遺構を保持しており、その上に西ゴート時代やイスラム教時代の建造物が築かれたため、歴史上のさまざまな時代の特徴を示しながらも融合し、全体として統一された街並みを形成している。都市開発は限られており、20世紀に発掘されるまで埋もれていたすべての遺跡の完全性が保たれている。遺跡は現在の都市に組み込まれており、都市景観の一部をなしている。何世紀にもわたって変化してきたにもかかわらず、構成資産は歴史的・科学的な意義を維持しており、ローマ橋やテアトルムなど多くの建造物が現在も使用されている。

■真正性

メリダの考古遺跡群のさまざまな構成資産はその形状・デザイン・素材・用途・機能において真正性を維持している。サンタ・エウラリア・バシリカは西ゴート・ロマネスク・ゴシック・バロックといったさまざまな様式が混在し、それぞれの時代のニーズに適応した例を示している。中世と近世に改修されたグアディアナ川のローマ橋の一部区間も同様だ。スペイン帝国時代の17世紀にはふたつのキリスト教のモニュメントがローマ時代の大理石で建設され、この街の歴史的アイデンティティが示された。それがサンタ・エウラリアのオベリスクとバシリカの殉教聖堂で、それぞれ異教徒の祭壇とマルス神殿の素材が転用された。20世紀に入って基本的に人的介入は行われていないが、アンフィテアトルムのスタンドの一部や倉庫は保護や理解の必要性から復元された。テアトルムのステージは例外的に復元されたが、現代的な基準に従っている。原則として介入は遺物の統合のみで再建は行われていないため、保存状態は良好である。

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