ルーゴはスペイン北西部ガリシア州の都市で、3世紀後半にローマ帝国によって町を取り囲むように全長2kmを超える城壁が築かれた。2か所のスロープ、4か所の階段、10対の城門(当初は5対)、85基の塔を持つ城壁が360度、欠けることなく旧市街を取り巻いており、ローマ時代後期のほぼ完全な城壁の姿をいまに伝えている。
なお、構成資産は城壁のみで旧市街の建物は含まれていない。
また、城壁とルーゴ大聖堂(サンタ・マリア大聖堂)、周辺の巡礼路は世界遺産「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路:カミーノ・フランセスとスペイン北部の巡礼路群」の構成資産となっている。
ルーゴには旧石器時代から人間の居住の跡があり、ローマ以前にはケルト人の町があったと考えられている。カンタブリア戦争(紀元前29~前19年)によってローマ帝国はガリシア地方を攻略し、イベリア半島全域を平定した。紀元前15~前13年に初代皇帝アウグストゥスはローマ軍の要塞が置かれていたこの地に植民都市ルクス・アウグスティ(以下、ルクス)を建設。アウグストゥスはイベリア半島の再編を行い、ローマ属州ヒスパニア・タラコネンシスの一都市となった。ルクスはガリシアの主要道の要衝として次第に発達し、また周辺で鉱山が開発されたことから人口は増加した。当初、一帯は平和であり、城壁は築かれていなかった。
2世紀になると西ヨーロッパでゲルマン系諸民族の移動が活発化し(民族大移動)、2世紀半ばにはフランク人とアレマン人がイベリア半島に侵入した。これを受けてイベリア半島の諸都市は城壁を築いて守りを固める必要に迫られ、ルクスでも263~276年に町の中心部を取り囲む城壁の建設が進められた。この頃、ルクスはヒスパニア・タラコネンシスが分割されてできた属州ヒスパニア・ノヴァの州都として繁栄し、3世紀末に皇帝ディオクレティアヌスがイベリア半島を再編して生まれた属州ガラエキアでも主要都市としてありつづけた。この後、キリスト教が普及し、町には数々の教会堂が建設された。
5世紀はじめにゲルマン系のスエヴィ人が侵入して町を破壊し、457年に占領。その後、同じくゲルマン系の西ゴート人が町を占領して西ゴート王国の支配下に入った。この時代に町は大きく衰退した。714年にイスラム王朝であるウマイヤ朝の版図に入ったが、755年にアストゥリアス王国のアルフォンソ1世によって奪還された。9世紀はじめにイエスの十二使徒のひとりであるヤコブの墓が発見されると、アルフォンソ2世は聖地としてサンティアゴ・デ・コンポステーラの町(世界遺産)と巡礼路(世界遺産)の整備を進めた。特にアストゥリアス王国の首都で第2の聖地でもあったオビエド(世界遺産)とサンティアゴ・デ・コンポステーラを結ぶ「原始の道」と呼ばれる巡礼路上に位置するルーゴはレコンキスタ(キリスト教徒による国土回復運動)で最初期に奪還した象徴的な都市であり、都市として巡礼地として再建が進められた。1129~1273年にはイントラムロス(城壁内)に重要な巡礼地のひとつであるルーゴ大聖堂が建設された。こうした中世の発展期においても城壁は破壊されることなく残された。
世界遺産の資産はローマ時代の城壁で、1.68haの資産面積で旧市街34.4haを取り囲んでおり、内側全域と外側の周辺部がバッファー・ゾーンとなっている。城壁の全長は2,117mで厚さは平均4.2m・最大7.0m、高さは8~10mを誇る。素材はさまざまだが、下部が丈夫な花崗岩で上部に薄い粘板岩を積み上げてモルタルで固めていることが多い。城門は当初5対(ミニャ門、ファルサ門、サン・ペドロ門、ノヴァ門、サンティアゴ門)で、19~20世紀に5対(サン・フェルナンド門、エスタシオン門、イスキエルド司教門、アギーレ司教門、オドアリオ司教門)が増築された。85基の塔のうち46基はほぼ無傷で伝えられており、39基は多かれ少なかれ損傷している。塔の間隔は不規則で5.35~12.80mまで変化し、形状は多くがD形で長方形のものもあり、城壁から突き出した側防塔となっている。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路のメインルートは南東のサン・ペドロ門からルーゴ大聖堂を経て南西のミニャ門やサンティアゴ門に至るルートで、イントラムロス南東部を貫いている。
本遺産は登録基準(ii)「重要な文化交流の跡」、(iii)「文化・文明の稀有な証拠」、(iv)「人類史的に重要な建造物や景観」、(v)「伝統集落や環境利用の顕著な例」、(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」で推薦されたが、(iv)のみでの登録となった。
ルーゴのローマの城壁群はローマ時代後期の軍事要塞の現存するもっともすぐれた例である。
ルーゴのローマの城壁群は本来のレイアウトと塔をはじめとする防御構造・城門・階段・その他の要素の大半を維持している。また、数多くの考古学的遺構を伴っており、それらは歴史的文脈の位置付けに有用であり、創建と進化の様子を物語っている。城壁全体が資産であり、その内側と外側にバッファー・ゾーンが設定されている。
遺跡の規模は同種の中でも大きく、いまだに都市環境とともにあり、現在まで継続的に使用されているという点で歴史的な真正性と考古学的な完全性を兼ね備えた稀有な記念碑的コンプレックスであるといえる。修復・復元時における構造や堀・城門・階段などの調査によってこれらはローマ時代の3~4世紀に起源を持つことが確認されている。粘板岩や花崗岩といった地元の素材が使用され、またより以前の建造物の石が再利用されていることもあり、これらが独特の外観を与えている。城壁の周囲と上部の通路はほとんど無傷であり、こうした素材や構造がオリジナルであることを証明している。
城壁群に対する開発圧力としては輸送インフラの発達・水害・湿気などの影響が挙げられるが、これらはすべて軽微であり、十分制御されている。
ルーゴのローマの城壁群は18世紀もの間、ありつづけており、城壁としての実用性あるいは美観などの理由のために時代時代の改修を受け、一部は破損している。長い期間に多くの修復・改修・改築を受けており、部分部分では真正性に欠ける可能性はあるものの、全体としては形状や機能を維持しており、アンサンブルとしての真正性は申し分ない。