クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂

Kutná Hora: Historical Town Centre with the Church of St Barbara and the Cathedral of Our Lady at Sedlec

  • チェコ
  • 登録年:1995年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:62.437ha
  • バッファー・ゾーン:649.9ha
世界遺産「クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂」、クトナー・ホラ歴史地区の街並み。中央は聖ヤコブ長老教会
世界遺産「クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂」、クトナー・ホラ歴史地区の街並み。中央は聖ヤコブ長老教会
世界遺産「クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂」。中央左はゴシック様式の聖バルボラ教会、右の細長い建物はイエズス会大学
世界遺産「クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂」。中央左はゴシック様式の聖バルボラ教会、右の細長い建物はイエズス会大学 (C) al.trcka
世界遺産「クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂」、聖バルボラ教会の西ファサード
世界遺産「クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂」、聖バルボラ教会の西ファサード
世界遺産「クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂」、セドレツの聖母マリア大聖堂
世界遺産「クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂」、セドレツの聖母マリア大聖堂 (C) Lynx1211
世界遺産「クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂」、人骨で装飾された全聖人教会のセドレツ納骨堂
世界遺産「クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂」、人骨で装飾された全聖人教会のセドレツ納骨堂

■世界遺産概要

クトナー・ホラはチェコ中部、プラハ(世界遺産)の東63kmほどに位置する都市で、13世紀の終わりに銀鉱脈が発見されると急速に発展した。やがてプラハと並ぶボヘミアの中心都市に成長し、ゴシックやバロックの建物が立ち並ぶ美しい街並みが築かれた。世界遺産の構成資産はクトナー・ホラ南西部の歴史地区の一帯と、東部のセドレツ地区の聖母マリア大聖堂の2件。

○資産の歴史

クトナー・ホラは古くから鉱山集落として栄えた場所で、10世紀頃には銀の採掘が行われていた。ヴルフリツェ渓谷の丘に位置する歴史地区の入り組んだ街並みは小さな集落から少しずつ発展してきたことを物語っている。1142年には丘を下った低地にシトー会によってセドレツ修道院が建設された。修道院は森を開墾して農場を運営しながら宗教・教育・科学技術といった面からクトナー・ホラを支え、繁栄を共にした。一説では耕作中の修道士が山の畑で3片の銀を見つけ、銀鉱脈の発見に至ったことから修道士のローブを意味する「クトナー」と山を意味する「ホラ」から町の名が付いたという(「採掘の山」を起源とするという異説あり)。

ボヘミアは9世紀に公国となり、1198年に王国に昇格した。クトナー・ホラ周辺では王家の要塞都市である南東のチャースラフや北東のコリーンが中心的な町となっていた。13世紀後半、巨大な銀鉱脈が発見されるとクトナー・ホラはゴールドラッシュに湧き、ドイツから多くの労働者を迎え入れて町は急速に発展した。チャースラフやコリーンは管轄権を主張したが、ボヘミア王ヴァーツラフ2世は1298年に独立を認め、1300年には木製の城柵や堀が張り巡らされた。ヴァーツラフ2世は同年にヴラシュスキー・ドゥヴール(イタリア宮殿)と呼ばれる王宮を建設し、内部に王立造幣局を設置して「プラハ・グロシュ」と呼ばれる銀貨を鋳造した。この時代、銀生産はヨーロッパの1/3を占めるほどで、クトナー・ホラはボヘミアでもプラハに次ぐ都市へと成長した。

この様子は神聖ローマ帝国の知るところとなり、皇帝アルブレヒト1世はヴァーツラフ2世に利益の一部上納を要求するが、拒否されたことから1304年と1307年の2度にわたって町を包囲した。クトナー・ホラは攻撃を凌ぐと14世紀中に城壁・堀・4基の城門・フラデーク(小さな城)を建設して堅固な城郭都市となり、主要施設や家々も石造で建て直された。特にゴシック様式が好まれ、セドレツの修道院教会(現・聖母マリア大聖堂)やクトナー・ホラの聖バルボラ教会もゴシック様式で建設が進められた。

ボヘミアでは権力闘争を繰り返すローマ・カトリックを批判したイングランドのジョン・ウィクリフやボヘミア出身でカレル大学(プラハ大学)の学長も務めたヤン・フスらの思想が諸侯や庶民の支持を得ていた。拡大を恐れた神聖ローマ皇帝ジギスムントは1414年にコンスタンツ公会議を開いてフスの異端を認定し、翌年火刑に処した。これをきっかけにフス戦争(1419~36年)が勃発し、ジギスムントはクトナー・ホラを拠点に制圧に乗り出した。1421円にクトナー・ホラの戦いが起こり、フス派を率いるヤン・ジシュカがセドレツを攻略して修道院教会を焼き払い、翌年にはジギスムントがクトナー・ホラに火を放って撤退した。1424年にはヤン・ジシュカがふたたびクトナー・ホラを燃やし、こうした火災によってほとんどの建物が焼け落ちた。クトナー・ホラは大きな被害を受けたが、1436年に終戦を迎えると銀の生産で持ち直し、町は再建されて急速に回復した。聖バルボラ教会の建設は戦争で中止されていたが15世紀後半に再開され、16世紀に入ってマテイ・レイセックとベネディクト・リートというボヘミアを代表する建築家が参加して建設が続けられた。一方、セドレツ修道院には少数の修道士が戻ったのみで、18世紀まで廃墟のまま放置された。

15世紀後半から銀の生産量は減っていたが、1530年頃から鉱脈は枯渇をはじめ、1550年にはプラハ・グロシュの鋳造が中止された。大航海時代に中央アメリカや南アメリカでポトシのセロ・リコ銀山(世界遺産)をはじめ世界有数の銀山が次々と開発されると銀の価格が暴落し(価格革命)、産業は下降を続けた。

さらに、1526年にはハプスブルク家のフェルディナント1世がボヘミア王位に就き、以後4世紀にわたるハプスブルク朝がスタートした。フェルディナント1世はボヘミアのみならず神聖ローマ帝国、オーストリア大公国、ハンガリー王国の皇帝位や王位を得てハプスブルク帝国を打ち立て、ボヘミアに対してハプスブルク家の王位世襲を認めさせた。また、フス派以来、多くの信者を持つ新教=プロテスタントの弾圧を進め、これらに対して起こった反乱を鎮圧した。クトナー・ホラにおける反乱も平定され、町は特権を失い、さらにペストや三十年戦争(1618~48年)によって荒廃した。中央ヨーロッパのルネサンスの時代にこうした低迷期を迎えたため、クトナー・ホラにルネサンス建築があまり見られない一因となっている。

17世紀前半、フェルディナント2世はプロテスタントに対して対抗宗教改革(反宗教改革)を進め、ローマ・カトリック振興策のひとつとしてクトナー・ホラにイエズス会を呼び寄せた。1626年に同会のラテン語学校が設立され、1667年にはイエズス会大学の建設が開始された。セドレツでも17世紀半ばから修道院の再建が進められ、1708年には新しくなった聖母マリア大聖堂が奉献された。

しかし1726年、ついに銀鉱山が閉鎖された。1783年の帝国令でセドレツ修道院が廃院となり、クトナー・ホラの繁栄は終了した。以後、一帯の中心は北東の町コリーンに移動した。

○資産の内容

クトナー・ホラを代表する建造物として、その象徴である聖バルボラ教会が挙げられる。フス戦争による中断を含めて1388~1558年に建設が進められたが完成に至らず、1626年にイエズス会によってバロック様式への改造が施され、さらに1884~1905年のゴシック・リバイバル様式による改築を経てようやく完成を迎えた。おかげで初期のヤン・パルレッチ、中期のマテイ・レイセック、ベネディクト・リート、後期のヨセフ・モッカー、ルードヴィク・ラブレルなど名だたる建築家が参加したボヘミアを代表するゴシック建築となった。ラテン十字式・五廊式(身廊と4つの側廊を持つ様式)の教会堂で、内部もプラハの聖ヴィート大聖堂と競うように豪奢な彫刻やフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)で装飾されている。

セドレツの聖母マリア大聖堂はもともとシトー会のセドレツ修道院の修道院教会で、正式名称を聖母被昇天・洗礼者聖ヨハネ教会という。1142年の創建と伝わっており、1300年頃ゴシック様式で再建されたが1421年にフス戦争で焼失した。17世紀半ばから修道院の再建が開始され、聖母マリア大聖堂についてはボヘミアの建築家パベル・イグナツ・バイエルやヤン・ブラジェイ・サンティニ=ヒェルの設計でラテン十字式・五廊式の教会堂として1708年に完成した。もともとのゴシック様式を尊重したゴシック・リバイバル様式で、バロック様式の要素を加えた「バロック・ゴシック」と呼ばれる独特なスタイルとなっている。外観と構造は大きなステンドグラスやバラ窓、尖頭アーチ、スパイア(ゴシック様式の尖塔)、ピナクル(ゴシック様式の小尖頭)などゴシックの要素が強く、内装は天井画や彫刻などバロックの要素が強い。

セドレツの全聖人教会はシトー会修道院の墓地礼拝堂として14世紀に建てられたもので、フス戦争後、墓地が廃止された際に約4万人分の人骨を取り出して地下納骨堂(セドレツ納骨堂)に収めた。教会堂は1703~1710年にヤン・ブラジェイ・サンティニ=ヒェルによってバロック・ゴシックに改築されて現在の形となった。1870年に教会堂を買い入れたシュヴァルツェンベルク家は彫刻家・装飾家フランティシェク・リントに人骨を使って内部を装飾するよう依頼し、リントは頭蓋骨をはじめ身体の各所の骨を巧みに使って骨のシャンデリアや骨の紋章、骨の尖頭などを制作し、壁面や天井を約1万人分の人骨で覆った。なお、全聖人教会は世界遺産の資産ではなくバッファー・ゾーンに位置している。

聖ヤコブ長老教会はクトナー・ホラのランドマークとなっている三廊式のバシリカ式教会堂(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の教会堂)で、1330年代にゴシック様式で建設された。西ファサード(正面)の南北に双塔を持ち、北塔が鐘楼で高さ80mを誇るのに対し、南塔の高さは半分ほどしかない。内装はバロック様式が多く、全体としてバロック・ゴシック様式となっている。

この他の宗教建築としては、最初期の鉱山礼拝堂に起源を持つゴシック様式のナ・ナメティの聖母マリア教会、15世紀後半の後期ゴシック様式の傑作・聖三位一体教会、18世紀に建てられたバロック様式の聖ヤン・ネポムツキー教会などがある。

主要な公共施設としては、ヴラシュスキー・ドゥヴールが挙げられる。1300年にヴァーツラフ2世が建設した王宮で、イタリア人技術者を招集して王立造幣局を建てたことからイタリア宮殿とも呼ばれている。特にゴシック様式の王室礼拝堂はすばらしいインテリアで知られる。

渓谷の要衝に立つフラデークは13~14世紀に築かれた木造の要塞が起源とされ、15~16世紀に城壁や塔と一体化したゴシック様式の城塞に改められた。現在は鉱山博物館が入っており、一般に公開されている。

他に、15世紀ゴシック様式の石の噴水や石の家、彫刻家フランティシェク・バウグが1713~15年に制作したバロック様式のモロヴィー・スロウプ(ペスト記念柱)、1667~1750年にイタリアの建築家ジョバンニ・ドメニコ・オルシの設計でバロック様式で築かれたイエズス会大学、15世紀にゴシック様式で建設され18世紀に改修されたサンクトリノフスキー邸、クトナー・ホラ出身の作家ヨセフ・カイエタン・ティルの生家であるティル邸などがある。

■構成資産

○聖バルボラ教会のあるクトナー・ホラ歴史地区

○セドレツの聖母マリア大聖堂

■顕著な普遍的価値

本遺産は文化遺産の登録基準(i)~(vi)のすべてで推薦されたが、承認されたのは以下の2基準だった。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

クトナー・ホラの歴史地区には建築的にも芸術的にも質の高い数多くの建造物が存在し、特に聖バルボラ教会はその後の中央ヨーロッパの建築の発展に多大な影響を与えた。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

聖バルボラ教会のあるクトナー・ホラ歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂は銀鉱山による富と繁栄を示す中世都市の卓越した例である。

■完全性

資産には顕著な普遍的価値を示すすべての主要な要素が含まれており、範囲は明確に定義され、バッファー・ゾーンも適切に設定されている。周辺で大きな開発も行われておらず、将来的な計画もない。これまで建造物に与えられた軽微な変更はその特徴に大きな影響を与えるものではなく、また都市構造や街の全体的なレイアウトを変えるものでもない。住宅の屋根を増改築したり階数を増やすといった変更は景観に悪影響を及ぼす可能性があるが、保全状態は州の遺産保護局によって適切に管理されている。

■真正性

都市構造はほとんどそのまま維持されており、銀鉱山を背景に発展したその様子を伝えている。古い要塞はほとんど残っていないが、歴史地区の邸宅群などに繁栄の様子がうかがえる。個々の建物はデザインや素材といった点で本物で、多くの邸宅にはゴシック様式の要素が確認でき、一部にはバロック様式や18世紀のスタイルの影響も見られる。比較的新しいファサードを持つ建物でも構造部分については中世のものであることが多く、科学的調査によって確認されている。他にも街並みやレイアウト、建築的特徴の真正性については第2次世界大戦後に実施された体系的な調査によって証明されている。真正性は高いレベルで保持されており、真正性を尊重した法律によって将来的にもその維持が保証されている。

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