チェスキー・クルムロフはオーストリア国境に近いボヘミア南部に位置する町で、大きく湾曲するヴルタヴァ川の両岸にゴシック、ルネサンス、バロックをはじめ多様なスタイルの城や教会・邸宅が立ち並ぶ中世の美しい街並みが広がっている。「クルムロフ」はドイツ語の「湾曲した草原 "Krumme Aue"」に由来し、モラヴィア(チェコ東部)の同名都市と区別するため15世紀頃にボヘミアの土地を意味する「チェスキー」の名が冠された。
チェスキー・クルムロフには5万年ほど前までさかのぼる人類の居住の跡があり、紀元前5~前1世紀にはケルト人の集落が存在した。6世紀頃からスラヴ人が定住をはじめ、7世紀にはアヴァール人も加わった。10世紀にスラヴニコフ家、12世紀にヴィートコフ家がこの地を治めたと伝わるが、ハッキリしない。12世紀後半に北部の都市プルチツェを治めるヴィートコフ家のヴィーテク1世がこの地を開拓した。ヴィーテク1世は5人の息子に土地を分割したが、クルムロフを引き継いだのは次男のヴィーテク2世で、1230年前後にこの地に移住して本格的に開発を開始した。当時は山賊が出没するような治安の悪い土地で、ヴィーテク2世は討伐を行い、山賊の巣窟だった丘にクルムロフ城を建設したと伝えられている。やがて城の東のラトラン地区が発達し、さらにその対岸、ヴルタヴァ川が大きく湾曲したΩ形の土地にも街並みが誕生した。
1302年、ヴィートコフ家が断絶するとボヘミア王ヴァーツラフ2世はこの地をロジェンベルク家に引き継がせた。ロジェンベルク家は当時ボヘミア随一の勢力を誇った貴族で、同家のペトル1世の下で町は大幅に拡張された。城がゴシック様式で再建され、聖ヴィート教会と聖ヨシュタ教会が建設されたほか、町にはロマネスク様式やゴシック様式の100もの石造建造物が築かれたという。クルムロフはオーストリアとボヘミアを結ぶ交易や、エルベ川と合流するヴルタヴァ川を利用した交易、あるいは木材や工芸品などで繁栄し、15世紀には近郊で金や銀の採掘がはじまってドイツから数多くの入植者が流入した。16世紀には銀精錬所や製紙場が稼働して工業化が進み、町は大きく発展した。
16世紀後半の当主であるロジェンベルク家のヴィレムはボヘミア副王にまで上り詰めた人物で、チェスキー・クルムロフの地位を引き上げると王都プラハ(世界遺産)に次ぐ都市にしようと都市改造を行った。本場イタリアから建築家や芸術家を呼び寄せると城をルネサンス様式で再建し、町にもルネサンス様式の建物が数多く建設された。しかし、町が華やかに彩られる一方でロジェンベルク家の財政は逼迫し、次のペトル・ヴォクの時代の1602年にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世に売却された。
三十年戦争(1618~48年)でチェスキー・クルムロフはたびたび破壊と略奪を受けたが、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は手が回らず再興することができなかった。1622年にエッゲンベルク家に引き継がせ、1628年にクルムロフ公の地位を与えてクルムロフ公国が成立した。特にクルムロフ公ヤン・クリスティアン1世の時代に再興が進められ、城をはじめ数多くの建物がバロック様式で再構築された。中でもエッゲンベルク劇場と呼ばれた城の付属劇場における公演は好評で、劇の町としても名を高めた。
1719年、エッゲンベルク家が断絶したためクルムロフ公の地位はシュヴァルツェンベルク家に移行した。同家のヨーゼフ1世の時代に城が改修され、ほぼ現在の姿となった。しかし、1848年に公爵の居城が北30kmほどに位置するフルボカーに遷されると首都としての役割を終え、以降は地方都市に落ち着いた。第2次世界大戦後、住民の多くを占めたドイツ系住民が追放されて町は荒廃した。再興されるのは1968年のプラハの春とワルシャワ条約機構軍の侵攻が落ち着く1970年代以降のことである。
世界遺産の資産はチェスキー・クルムロフ城のあるラトラン地区と、対岸の湾曲内部の川岸地区となっている。
チェスキー・クルムロフ城は13世紀にヴィーテク2世が築いた城がはじまりとされ、おおまかに第1中庭を取り巻く城館群と、第2中庭周辺のドルニー・フラッド(下の城)、南に突き出したフラデーク(小さな城)、中央に位置するホルニー・フラッド(上の城)、その西のルネサンス館、乗馬学校、西に延びるザーメツカー庭園(城の庭園)に分けられる。時代時代の建物が混在しており、ゴシック様式をベースにルネサンス様式で改修されたフラデークの城館や塔、ゴシック様式とルネサンス様式が混在した旧プルクラブストゥヴィ館、ルネサンス様式である新プルクラブストゥヴィ館やルネサンス館、バロック様式のザーメツカー劇場(城の劇場/バロック劇場)やザーメツカー庭園、ロココ様式のベラリー夏宮など多彩な様式が見られる。
ラトラン地区の主な建物として、聖ヨシュタ教会が挙げられる。14世紀はじめの創建で、16世紀に建築家ドミニコ・コメッタの設計でバロック様式で再建された。鐘楼は近隣のフラデークの塔とともに町の象徴となっている。ミノリツキー修道院は1350年の創設で、17~18世紀に改築されたバロック様式の建物が残されている。1950年代の共産党時代に廃止されたが、近年庭園とともに復元が進められている。エッゲンベルク醸造所は13世紀以来の歴史を誇るビール醸造所だ。ブデヨヴィツカ門は1600年前後に築かれた現存最古の門だ。
湾曲した川岸地区の中心はスヴォルノスティ広場で、ここを中心に放射状あるいは円形に道が走っている。広場にある柱は彫刻家マテイ・ヴァーツラフ・ジェッケルによるバロック様式のモロヴィー・スロウプ(ペスト記念柱)だ。広場の東にたたずむ市庁舎は16世紀に建設がはじまったルネサンス様式の建物で、1階にアーケードを持ち、市役所や警察・博物館が入っている。チェスキー・クルムロフの教区教会である聖ヴィート教会は1309年の創立で、現在の建物は1407~38年にゴシック様式で再建されたものだ。見事なフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)の数々で知られ、またロジェンベルク家のヴィレムをはじめ数多くの町の偉人がここに眠っている。旧イエズス会大学は1586~88年に建設されたルネサンス様式の建物で、1773年までは神学校として使用されていた。現在は市立図書館やホテル・ルジェが入っている。
チェスキー・クルムロフは中世から続く中央ヨーロッパの小都市の卓越した例であり、その経済的重要性と5世紀以上にわたる有機的な発展によって形成された歴史地区の構造や建物がほぼ手付かずで伝えられている。チェスキー・クルムロフは蛇行して流れるヴルタヴァ川の美しい自然環境の中で発展し、時の経過とともに進化してきた事実は建物や都市インフラによって明確に示されている。
資産には顕著な普遍的価値を伝えるすべての重要な要素が含まれている。広範な庭園を持つかつての貴族の邸宅を含む歴史地区の全域が資産となっており、その範囲とサイズは適切である。資産の外にはバッファー・ゾーンも適切に設定され、資産の土地利用計画やバッファー・ゾーンの構造も安定しており、町の視覚的な完全性も脅かされていない。ただ、バッファー・ゾーンを越えて進む建設計画は資産の完全性に対する潜在的な脅威といえる。
現在の町の形状と外観は中世以来の貴族の邸宅群と深く結び付いており、そうして形成された歴史地区の街並みは城下町の特徴や本来のレイアウトをいまだに明確に保持し、これらを損なうような開発も数世紀にわたって行われていない。また、19世紀の工業化や共産党時代の放棄、過去数十年にわたる無思慮な開発による荒廃にもかかわらず被害はほとんど出ておらず、資産の真正性は高いレベルで保持されている。こうした真正性は街並みと周囲の自然環境の際立った関係性に加え、いまに残る数多くの歴史史料に基づいている。建造物のファサードの修復作業には伝統的な素材と技術のみが使用されており、遺産保護のための厳格な国際基準に準拠して実施されている。