ブルノはチェコ東部、モラヴィア中部の都市で、トゥーゲントハット邸はモダニズム建築の3大巨匠のひとりに数えられるドイツ人建築家ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエによって1929~30年に建設された。インターナショナル・スタイル(国際様式)と呼ばれるモダニズムの潮流の先駆けであり、ミースの代表作として知られている。
1886年、ミース・ファン・デル・ローエはプロイセンのアーヘンで生まれた。石工である父親の影響を受け、工業学校で製図を学び、煉瓦工として技術を身に付けた。1906~07年に処女作であるリール邸を手掛けると、これが認められて1908~12年にかけて建築家ペーター・ベーレンスの下で製図工として働いた。1913年にはベルリンで自身の建築事務所を開所している。第1次世界大戦で兵役に従事した後、自ら「皮膚と骨」と呼ぶフレーム構造を中心とした直線的でシンプルなデザインを探究した。従来のような切石やレンガを積み上げて壁とし、アーチを架けて天井を築くような伝統的な構造ではなく、鉄骨や鉄筋コンクリートでフレームを組む革新的な架構式構造で、シンプル・軽量・簡易ながらきわめて強力な建築を可能とした。こうした発想はドイツのペーター・ベーレンスやオランダのヘンドリク・ペトルス・ベルラーヘ、アメリカのフランク・ロイド・ライト、オランダの総合芸術運動デ・ステイルなどの影響を受けたものだった。
ミースの最初の近代建築作品といわれるのが1925~26年のヴォルフ邸(現存せず)で、シンプルな直方体を組み合わせた構造となっている。1927年にはル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウスら17人の先進的な建築家とともにヴァイセンホーフ・ジードルングの住宅群(ル・コルビュジエの作品は世界遺産)の全体設計を手掛け、建築の未来を志向した。また、1928~29年のバルセロナ・パビリオン(バルセロナ万国博覧会ドイツ・パビリオン。終了後に取り壊されたが1986年に復元)では壁を取り払って全面にガラス窓を導入し、平面を自在に変更できる「流れるような空間」「無制限の空間」、あるいはル・コルビュジエが1926年に提唱した近代建築の5原則の「自由な平面」と呼ばれる空間設計を提案した。これは鉄骨や鉄筋コンクリートがもたらした恩恵で、強力な鉄骨で上部構造を支えることで壁を不用とし、内部はガラス窓や平面を区切る仕切りを自由に配置することができるユニヴァーサル・スペースとなった。
ミースがバルセロナ・パビリオンと並行して設計を行っていたのがドイツのユダヤ人実業家フリッツ・トゥーゲントハットとその妻グレーテ・ヴァイスのためのヴィッラ(別荘・別邸)で、1927年から2年間をかけて設計し、1929~30年に建設された。バルセロナ・パビリオンにおいてミースはバルセロナ・チェアと呼ばれる椅子をデザインして大ヒットさせているが、トゥーゲントハット邸においても家屋のみならず家具や庭のデザインも自ら制作あるいは監督し、トゥーゲントハット・チェアやブルノ・チェアと呼ばれる傑作を生み出した。
トゥーゲントハット邸が完成した1930年、ミースはデッサウのバウハウス(世界遺産)の第3代校長に抜擢された。1933年にナチス=ドイツによってバウハウスが閉鎖されるとアメリカに亡命し、シカゴを拠点に活動を続けた。ミースは "Less is more"(より少ないことはより豊かである)という言葉通りシンプルな機能美を追究し、皮膚と骨(ガラスと鉄骨・鉄筋コンクリート)の建築はアメリカでガラス張りの超高層ビルを生み出し、また地域性を超えて世界に広がってインターナショナル・スタイル(国際様式)の潮流を導いた。トゥーゲントハット邸はこうした近現代建築史をリードする作品となった。
第2次世界大戦におけるナチス=ドイツの侵略を前に、トゥーゲントハット夫妻は1938年にチェコスロバキアを脱出してスイスに渡った。翌年、ヴィッラは接収され、内装のほとんどを失い、いくらかの改築・損傷を受けた。戦後、チェコスロバキアの所有となり、児童施設や病院・研究所といった施設を経てブルノ市の所有に移った。1962年に国の記念物として法的保護下に入り、綿密な研究の後、1981〜85年に修復キャンペーンが実施された。1992年にはここでチェコスロバキア解体の調印式が行われ、翌年チェコとスロバキアに分裂した。1993年にトゥーゲントハット・ヴィッラ基金が設立され、家具などの復元と科学的な管理・修復体制の整備が行われた。
トゥーゲントハット邸は道路沿いに立つ3階建ての一戸建てで、最上階が道路に面しており、斜面を下るように3層が連なっている。部分的にレンガ造を併用した鉄骨および鉄筋コンクリート造で、鉄骨を主とした十字状の柱で鉄筋コンクリートの床スラブ(床になる板状の構造)を支えている。この堅固な構造により壁は荷重の掛からないカーテン・ウォール(帳壁)となり、窓ガラスを大胆に取り入れた。また、壁や多数の柱を必要としないことからフロア全体を自由にデザインすることが可能で、天井を支える役割を持たない仕切りによって部屋が自由に区切られた(自由な平面/ユニヴァーサル・スペース)。仕切りには光沢のあるクロムや縞状の模様を描くモロッコ・アトラス山脈のオニキス、木目が美しいインドネシア・スラウェシ島のマカッサルエボニー(縞黒檀)などが使用されており、ほとんど装飾のない機能主義的なデザインながら本物の素材を使って空間を演出した。この点は床やインテリアなども同様で、床にはイタリア・ティヴォリのトラヴァーチン(石灰質の岩石の一種)やドイツのリノリウム(亜麻仁油にさまざまな素材を混ぜて麻布に塗布した素材)、家具にはローズウッド、ゼブラウッド、マカッサルエボニーなどが多用されている。
最上層である3階には道路から入ることのできるメイン・エントランスがあり、ガラス張りのリビング、ダイニングを中心に複数の寝室、子供部屋、書斎、図書室、音楽室といった部屋があり、テラスやガレージへのアクセスを備えている。2階はキッチンや使用人の部屋のほか、コンサヴァトリー(ガラス張りのガーデン・ルーム)やテラスがあり、テラスは庭園へ続いている。1階は自由に使えるユーティリティー・ルームや、エンジン・ルーム、ボイラー・ルーム、電気系統の制御室、洗濯室、写真室、クロークといった施設・設備で構成されている。特に空調設備は当時としては画期的なもので、冷房は石に水をまいて蒸発させるという原始的なものではあったが、それでも冷房・暖房・加湿・送風が可能だった。
南西向きの斜面は風景式の自然な庭園となっている。芝生の広い空間では邸宅とともに大きな空を眺めることができ、また邸宅からは庭を見渡すことができた。景色は季節や太陽の位置によって劇的に変化し、特に夕日によく映えたという。子供たちはこの広い庭で遊び回り、冬にはソリやスキーを楽しんだ。
本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」でも推薦されていたが、その価値は認められなかった。
ドイツの建築家ミース・ファン・デル・ローエは近代建築運動の急進的かつ革新的なアイデアをトゥーゲントハット邸で開花させ、住宅建築の歴史を前進させた。
1920年代の近代建築運動とトゥーゲントハット邸に代表されるミース・ファン・デル・ローエの作品によって起こされた建築革命はモダニズム建築の世界的な普及と受容に大きな役割を果たした。
本遺産の主要な構成要素である邸宅と庭は現存しており、資産の範囲もサイズも適切である。周辺も都市遺産保護区として法的保護下にあり、保護区がバッファー・ゾーンに指定されている。このためトゥーゲントハット邸を含んだ景観やトゥーゲントハット邸からの景観も保護対象となっており、景観を損なうリスクのある建物の建設などについては当局によって管理されている。
過去にさまざまな改築が行われていて本来の機能を失った部分も存在するが、その形状・素材や設備は建築家がデザインした当時のものを引き継いでおり、真正性は高いレベルで維持されている。トゥーゲントハット邸はまた近代建築を代表するモニュメントとして認識されており、博物館として機能しているという事実が真正性を裏付けている。
長年にわたる定期的なメンテナンスに加え、2010~12年に行われた修復作業によって1930年の竣工直後の外観がおおむね復元された。これは仕上げ材や漆喰・木材・石材・金属といった素材や、スラブやコンクリート壁などの構造部分の修復によってもたらされたもので、作業はトゥーゲントハット邸の建築に関する調査・研究に基づき、厳格な国際基準に則って伝統的な組立・建築技術を用いて行われた。