クロンボー城

Kronborg Castle

  • デンマーク
  • 登録年:2000年
  • 登録基準:文化遺産(iv)
世界遺産「クロンボー城」全景
世界遺産「クロンボー城」全景。トゲトゲしい稜堡や堀が確認できる。この外にもう一段、堀と稜堡群が備わっている (C) H.C. Steensen
世界遺産「クロンボー城」、北東からの眺め
世界遺産「クロンボー城」、北東からの眺め
世界遺産「クロンボー城」の中庭と南ウイング。中央はトランペッター塔、左が礼拝堂
世界遺産「クロンボー城」の中庭と南ウイング。中央はトランペッター塔、左が礼拝堂

■世界遺産概要

クロンボー城はシェラン島北東端、バルト海と北海を結ぶエーレスンド海峡を望む城で、わずか4kmしかない海峡を守り、通行税を徴収するために15世紀に要塞が建設された。1574~85年に現在見られるような王宮を兼ねた華麗な城塞を備えたルネサンス様式の城として再建された。

○資産の歴史

シェラン島はユトランド半島とスカンジナビア半島の間に浮かぶ島で、島の東のエーレスンド海峡と西の大ベルト海峡、さらに西に浮かぶフュン島とユトランド半島の間の小ベルト海峡によって北海とバルト海が結ばれている。10世紀後半にデンマーク王国イェリング朝の「青歯王」ハーラル1世がシェラン島を征服してから3海峡はデンマークの管理下に入った。

14世紀末、デンマークの摂政マルグレーテ1世の計らいもあって、彼女の姉の娘の息子にあたるエーリヒはノルウェー王エイリーク3世、スウェーデン王エリク13世、デンマーク王エーリク7世として3国の王位に就き、1397年にカルマル同盟を成立させた。同盟の運営で疲弊した経済状態を改善するためにエーリク7世は海峡通行税の徴収を決め、1425年頃にクロンボー城の前身にあたる砦(デンマーク語で "Krogen")と港湾都市ヘルシンゲル(ヘルシングエーア/エルシノア)を建設して1429年に徴税を開始した。当時の砦は正方形で現在の城塞の位置に立っており、海峡の先に立つヘルシンク城と対をなしていたという(海峡のスカンジナビア半島側もデンマーク領だった)。これによりデンマーク以外のすべての船舶はヘルシンゲルに停泊して納税することを要求され、大ベルト海峡と小ベルト海峡の通行は禁じられるか、時代によっては同じように海峡通行税が徴収された。これによりデンマークの財政は大きく回復した。

カルマル同盟は1523年のスウェーデンの離脱をもって終了したが、デンマークとノルウェーは同君連合(同じ君主を掲げる連合国)デンマーク=ノルウェー二重王国として継続した(デンマークが主体であるため、以下でもデンマークと表記)。国王フレデリク2世は1563~70年に行われたスウェーデンとの北方七年戦争において、スウェーデンの王位継承権を放棄する代わりに賠償金を得て辛くも勝利を収めた。戦後、フレデリク2世は海峡の防衛を強化するために城の建設を決意。オランダの軍事建築の専門家ハンス・ファン・パエスチェンの設計で1574年に建設が開始され、3年後にはオランダの建築家アントニス・ファン・オブベルゲンによって城塞部分が増改築されて1585年に完成した。この新しい城はデンマーク語で城を意味する "borg" を付けて "Kronborg" と呼ばれた(「クロン城」を意味するが、日本語では一般的にクロンボー城と呼ばれている)。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲 『ハムレット』のエルシノア城のモデルとされるが、シェイクスピアはこの城を訪れていない。しかし、完成後まもなくシェイクスピアと関係が深いイングランドの劇団が滞在しており、劇団からヒントを得た可能性が指摘されている。

1629年の火災で礼拝堂以外の城塞部分はほとんど燃え落ちた。クリスチャン4世は海峡通行税を増税するなどして費用を捻出するとすぐに再建に着手し、建築家ハンス・ファン・ステーンヴィンケルによって以前と同じデザインで再建された。ただ、塔などの防衛施設はより強化され、内装にはバロック様式が採用された。

1655~61年にかけてスウェーデンと争った北方戦争において、クロンボー城は1658~60年の間、スウェーデンに占領されて破壊・略奪を受けた(カール・グスタフ戦争)。脆弱性が明らかになったクロンボー城はフレデリク3世やクリスチャン5世、フレデリク4世らの指揮下で大規模な増改築を受け、ルネサンス様式の稜堡や城塞を取り囲む二重の堀が整備された。要塞としての機能は大幅に向上して北ヨーロッパ最強の声も挙がったが、城塞の装飾などは回復されず、王宮としての目的と機能は失われていった。

1785年に軍の管轄に移り、1922年まで兵舎として使用された。礼拝堂については1838~43年にデンマーク黄金時代(19世紀前半のロマン主義を中心としたデンマーク芸術の最盛期)の代表的な建築家ミケール・ゴトリプ・ビネスブルによって改装され、外観については1866~97年にデンマークの建築家フェルディナンド・メルダールによって改修された。1924~32年にはその後継者のひとりであるヨハネス・メルダール・ニールセンによって内部が修復されている。

1855年のアメリカによる海峡通行税の支払い拒否を受け、デンマークと周辺国は1857年にエーレスンド海峡条約(コペンハーゲン条約)を締結し、海峡は国際水路となって通行税の徴収が中止された。これによりクロンボー城は役割を失い、1922年に軍が去った後、大規模な改修作業を行って1938年に博物館としてオープンした。

○資産の内容

世界遺産の資産はクロンボー城の外堀から内側で、外堀から半径100mがバッファー・ゾーンに設定されている。

ルネサンス様式の城塞は1574~85年に築かれたもので、当初の予定では西・南・北の3ウイング(翼廊/翼棟/袖廊。複数の棟が一体化した建造物群の中でひとつの棟をなす建物)からなる「コ」形のコートハウス(中庭を持つ建物)だったが、東ウイングに屋根付きの回廊(ギャラリー)を設置することで3階建ての「□」形になったようだ。重要な施設が集中しているのが南ウイングで、1629年の火災を免れた礼拝堂や壮大なバンケット・ホール(宴会場)、高さ57mを誇るトランペッター塔などがある。北ウイングにはロイヤル・アパートメント(アパートメントは居住区画)があり、内部では17~18世紀のバロック様式の装飾が見られる。西ウイングは「スコットランド・スイート」と呼ばれるリトル・ホールがあり、現在はデンマークの代々の国王を描いたタペストリーが掲げられている。東ウイングは王族が北ウイングから南ウイングのバンケット・ホールに行くための回廊で、他のウイングと比べて狭い造りとなっている。

■構成資産

○クロンボー城

■顕著な普遍的価値

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

クロンボー城はルネサンス期の城の中でも特にすぐれた作品であり、北ヨーロッパの歴史の中できわめて重要な役割を果たした。

■完全性

資産にはルネサンス期の城塞および軍事要塞としてクロンボー城の顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素が含まれている。景観を効果的に保護するために周囲には恒久的なバッファー・ゾーンも設定されている。世界遺産登録時はクロンボー城の周囲100mに一時的なバッファー・ゾーンが設定され、ヘルシンゲルとの通路の開放や造船所跡の撤去が求められた。バッファー・ゾーンは今後、地域の全体的な管理計画を確定して再設定される必要がある。

■真正性

クロンボー城は何世紀にもわたってたびたび変化を経験してきた。1629年に城塞が火災で焼失したが、まもなくほとんど同じ形状で再建された。1658年には砲撃を受けた後、スウェーデン軍に征服された。1785年に軍の管轄に移った際には内部にいくつかの改修が加えられた。しかし、軍が去った1924~38年に徹底的な修復が行われ、こうした改変はできる限り取り除かれた。1991年に軍はクロンボー地区の所有権を放棄している。

城塞周辺の防衛施設について、新兵器と延びる射程距離に対応するためにたびたび改造・拡張された。1882年にヘルシンゲル造船所が設立された際には要塞の一部が破壊された。1982年に造船所の一部が閉鎖・撤去された後、城の価値を回復するために以前の形状・サイズで復元された。

外観は良好な状態を保っているが、デザインや素材・技術を維持し、真正性を確保するために多大な努力が払われてきた。現在も修復が継続的に行われており、すべての作業は伝統的な建築素材や技術・当初のデザインを尊重して慎重に実施されている。

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