トルコの中央アナトリア、カッパドキア地方に展開する荒地で、剥き出しの大地から帽子をかぶったようなキノコ形の奇岩群が立ち並ぶ驚異的な奇観が広がっている。妖精や巨人をはじめさまざまな伝説が伝わっており、中世に入るとキリスト教徒が岩窟住居や岩窟教会・地下都市などを建設して隠れ住み、修行に勤しんだ。
白や赤の剥き出しの大地、大地を裂く深い渓谷や峡谷、柱形や山形・円錐形といった多彩な奇岩群……その奇観はあまりに奇跡的で、古くから数々の神話を生み出した。曰く、この辺りの火山には巨人が棲み着いており、山から炎を投げては人間を襲っていた。このため人間は目立つことなく静かに暮らすことを強いられていた。そんなある日、妖精の王がカッパドキアを訪問した。王は人々の暮らしを悲しんで仲間を呼び集め、雪や氷で巨人を地底深くに追い払った。このときから妖精たちはキノコ形の奇岩に住みはじめ、人間と仲良く暮らしたという。こうした奇岩は「妖精の煙突」を意味する「ペリバジャ」と呼ばれている。その後、人間の王と妖精の王女との恋を契機に両者の対立が進み、戦争の危機に陥った。妖精たちは人間との共同生活に終止符を打ち、ハトに姿を変えていまもひそかに人間を見守りつづけているという。
こうした奇岩群は伝説の通り火山活動がベースとなって築かれた。アナトリア半島はヒマラヤ山脈からアルプス山脈にかけて広がるアルプス=ヒマラヤ造山帯に属し、約6,000万年前にはじまったユーラシア、アフリカ、アラビア、インドという4枚のプレートが押し合う造山運動の影響で隆起した。カッパドキア地方では2,000万~200万年ほど前までエルジェス山、ハサン山、ギョル山といった火山群が活発な活動を続け、火山灰が堆積して広くて厚い凝灰岩層を形成した。また、時折流出する溶岩は凝灰岩層の上に硬い玄武岩層を生み出した。水に溶けやすい凝灰岩層がクズルウルマク川やメレンディス川といった河川の侵食を受けて峡谷や渓谷となり、地震や風化(岩石や地形が日光・空気・水・生物・寒暖差・化学反応など繰り返される自然の作用で次第に破壊されること)によって玄武岩層に亀裂が生じると下の凝灰岩層が先に侵食されて玄武岩が帽子のように残るペリバジャを彫り上げた。
紀元前18世紀頃、ヒッタイト人が鉄器や戦車を使いこなして勢力を広げ、ハットゥシャ(世界遺産)を中心にヒッタイト王国を建国した。紀元前16~前12世紀にアナトリアの多くを支配し、カッパドキアもその版図に入った。一説ではこの頃から岩窟住居や地下都市の建設がはじまったという。紀元前6世紀、一帯はアケメネス朝ペルシアの支配下に入り、紀元前4世紀にはマケドニアのアレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の遠征を受けてアレクサンドロス帝国に組み込まれた。カッパドキア人はマケドニア人の支配に抵抗し、紀元前320年頃にカッパドキア王国として独立したが、17年にローマ帝国の属州となって併合された。この時代の支配民族はペルシア人で、宗教はゾロアスター教を中心にギリシア神話やローマ神話の影響を受けていた。
この地にキリスト教が伝来したのは3世紀頃と考えられている。ローマ帝国のキリスト教弾圧に対し、カッパドキアの深い渓谷はキリスト教徒が隠れ修行する場所としては理想的な環境で、自然の洞窟を利用したり岩穴を掘って隠遁生活を送った。4世紀にはカイセリ大司教であるカイサリアのバシレイオス(大バシレイオス/大ワシリイ)の指導の下でカッパドキアの奇岩地帯に共同体が形成され、岩窟教会や岩窟住居が築かれた。なお、カイサリアのバシレイオスに加え、三位一体説(父なる神、子なるイエス、聖霊の三者は同一であるとする仮説)の確立に貢献したニュッサのグレゴリオスと、神学の発展に寄与したナジアンゾスのグレゴリオス(神学者グリゴリオ)の3人を「カッパドキアの3教父」という。3教父はカッパドキアが修道活動やキリスト教神学・哲学の中心として発展する礎を築いた。
7世紀にウマイヤ朝(アラブ帝国)、8世紀にアッバース朝(イスラム帝国)というイスラム教勢力の圧力を受けると、キリスト教徒は渓谷に逃げ込んで岩窟村を築き、フリュギア人がカイマクルやデリンクユで洞窟を掘って地下都市を掘り進めた。
725年、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇帝レオン3世が『旧約聖書』に基づいて偶像の制作・崇拝を禁じる聖像禁止令を発令。イコン(聖像)を破壊するイコノクラスム(聖像破壊運動)に発展し、反対勢力の弾圧が行われた。787年の第2回ニカイア(ニケーア)公会議でイコン崇拝は認められたが、815年にふたたび禁止令が発令され、843年まで続いた。この時代に弾圧から逃れるためにキリスト教徒がカッパドキアに逃げ込み、自然の中で修道生活を送った。人々は岩窟教会に美しいフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)を残したが、帝都コンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)では多くが破壊・撤去されたため、ビザンツ美術のきわめて貴重な作品となった。
11世紀までイスラム教勢力の圧力は続き、テマ制と呼ばれる軍管区制を敷いていたビザンツ帝国はカッパドキアのテマに要塞群を建設して侵入に備えた。10世紀には敬虔なキリスト教徒であるアルメニア人が移住し、宗教と軍事の両面で帝国に貢献した。
1038年にイランの地でテュルク系(トルコ系)のイスラム王朝セルジューク朝が起こり、アナトリア半島に侵入。1071年のマラズギルトの戦いでビザンツ帝国を破って支配を確立し、1077年には同朝からルーム・セルジューク朝が独立した。これに対して1096年に第1回十字軍が派遣されてルーム・セルジューク朝を打ち破るが、同朝は首都をニカイアからカッパドキアの東に位置するコンヤに遷して再興された。これによりカッパドキアのトルコ化・イスラム化が進み、岩窟を利用したキリスト教文化は次第に衰退していった。ただ、岩窟住居や地下都市は13世紀のモンゴル帝国の襲来など、危機に瀕してしばしば使用されていた。
世界遺産の構成資産はギョレメ国立公園、カライン、カルリク、イェシロズ、ソーアンル、カイマクルの地下都市、デリンクユの地下都市の7件。この中でギョレメ国立公園が圧倒的に大きく、資産の中心をなしている。
「ギョレメ国立公園」は東西12km・南北10kmほどのエリアで、ネヴシェヒル県に位置し、ネヴシェヒル・メルケス、ユルギュップ、アヴァノスなどの自治体が含まれている。見所は非常に多いが、特にギョレメ・ヴァレーに位置するギョレメはネヴシェヒル・メルケスの中心的な集落で、町の中に多くの奇岩が見られる。町中にも岩窟教会や岩窟住居が点在しており、エル・ナザール教会やバルバラ教会は非常に有名だ。町の東に位置するギョレメ野外博物館には岩窟教会が集中しており、10世紀建設のトカリ教会や、11世紀のエルマリ教会、カランリク教会、チェリクリ教会、ユラニ教会など18もの教会堂があり、ビザンツ中期の貴重なフレスコ画が見られる。中には4階建ての修道院や7階建ての女子修道院があり、カッパドキアの修道活動の中心だったことがうかがえる。さらに北東に位置するアヴァノスのゼルヴェ・ヴァレーはキノコ形の典型的なペリバジャが集中する場所として名高く、比較的大きな奇岩が多いギョレメ・ヴァレーと対照をなしている。ギョレメと並ぶキリスト教集落で、その中心はゼルヴェ野外博物館として開放されている。ウズムル教会やバリクリ教会、ゲイクリ教会、ディレクリ教会といった数々の岩窟教会や僧院が見られ、岩窟住居群が広がっている。ギョレメの南西に位置するウチヒサールはネヴシェヒル・メルケスの最高所に位置し、ローマ・ビザンツ時代にウチヒサール城と呼ばれる城塞が整備された。岩山のあちらこちらに穴を穿った天然の城塞で、それぞれの部屋は地下通路によって結ばれた。城塞や住居としての役割を終えるとハト小屋として使用され、ハトの糞はブドウをはじめ作物の肥料として使われた。ギョレメ周辺にはこれ以外に、男根形の奇岩群から「アシュクラル・ヴァディシ(恋人たちの谷)」の名を持つラブ・ヴァレー、ゼルヴェに並ぶペリバジャ地帯で聖シメオン教会などが残るモンクス・ヴァレー(修道士の谷)のパシャバー、奇観がピンクに染まる絶景で知られるローズ・ヴァレー、城塞や修道院が点在するオルタヒサールなどの名所が点在している。
アヴァノスのチャウシンはギョレメ国立公園でも最古級の集落のひとつで、ローマ時代にはキリスト教が伝わっていたと考えられている。最古の岩窟教会のひとつが洗礼者ヨハネ教会で、5世紀の創建と見られる。チャウシン教会は10世紀創建の岩窟教会で、ビザンツ皇帝ニケフォロス2世フォカスの建設と伝わっており、見事なフレスコ画が残されている。チャウシンはルーム・セルジューク朝の時代にいち早くイスラム教徒が移住した町でもあり、セルジューク様式のミナレット(礼拝を呼び掛けるための塔)が残るエスキ・カヤ・モスクをはじめ、モスクやバザール(市場)・キャラバンサライ(隊商宿)・墓地などが残されている。ユルギュップはカッパドキアの要衝のひとつで、古代から城塞が建設され、オスマン帝国時代にはブルガット城を中心に発展した。数多くの歴史ある教会堂やモスクが伝わっており、郊外にはピンク・ヴァレーと呼ばれる絶景地があり、ペリバジャが立ち並んでいる。また、近郊のデヴレント・ヴァレーもペリバジャの宝庫で、ラクダ、アザラシ、ヘビ、イルカといった動物名の岩が見られる。
「カライン」「カルリク」「イェシロズ」はユルギュップの南西8~12kmほどに位置する一連の集落で、深い渓谷内に位置している。いずれも歴史ある集落で、特にイェシロズはかつてタアールと呼ばれた町で、タアール人がタアール文化という特有の文化を築いていたことで知られる。イェシロズのタアール教会(聖テオドラ教会)はビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世の皇妃テオドラが築いたと伝わる岩窟教会で、2階建ての岩窟教会内には11~13世紀に描かれた多彩なフレスコ画が伝えられている。
「ソーアンル」はギョレメ国立公園の南30kmほどに位置するソーアンル・ヴァレーのエリアで、全長6kmほどの渓谷が登録されている。ビザンツ時代に大規模な修道活動が行われていた場所で、渓谷にはトカリ教会、カラバシ教会、イランリ教会、クッベリ教会、サクリ教会、ゲイクリ教会、タフタリ教会をはじめ100を超える岩窟教会が存在する。キリスト教集落だけでなく、ユカリ・ソーアンル(上ソーアンル)やアシャー・ソーアンル(下ソーアンル)といった集落には伝統的なトルコのイスラム建築が数多く残されており、ソーアンル人形をはじめ伝統文化が伝えられている。
「カイマクルの地下都市」はネヴシェヒル・メルケスのカイマクルに位置する巨大な地下都市遺跡だ。第1層は紀元前2千年紀、3,000年以上前のヒッタイト王国時代にさかのぼるとされ、紀元前8~前7世紀にフリュギア人が発展させ、ローマ・ビザンツ時代に凝灰岩層が地下8層まで掘り進められた。エントランスは1本の階段で、「ティラス」と呼ばれる巨大な円盤状の石を転がして地下都市を封鎖することができた。内部にはホールや住居となる部屋、礼拝堂、店舗、倉庫、ワイン・セラー、醸造所、厩舎、食堂、キッチン、換気施設、階段、井戸、貯水槽、トイレなどがあり、約5,000人が暮らすことができた。当時の主な産業は畑作や畜産で、小麦などの穀物やブドウなどの果実・肉などを地下に貯蔵していた。特徴的なのが銅の精錬所で、銅を生産して輸出していた。
カッパドキアには200前後もの地下都市が築かれたと考えられているが、「デリンクユの地下都市」は発見されているものの中で最大を誇る。1963年にネヴシェヒルのデリンクユで偶然発見された地下都市で、カイマクルの地下都市と同様の歴史を持ち、一説では両者は約10kmのトンネルで結ばれているといわれる(トンネルは未発見)。都市は地下85m・12~13層に及び、最大50,000人が生活することができたとされ、神学校や墓地・病院も備えていた。また、ティラスは各フロアに備えられており、それぞれを隔離することができた。地下都市は闇に閉ざされていたが、所々にアマニ油を注いで火を灯し、明かりとしていた。
本遺産は登録基準(viii)「地球史的に重要な地質や地形」、(ix)「生態学的・生物学的に重要な生態系」でも推薦されていたが、その価値は認められなかった。
カッパドキアの岩窟教会のある聖域はその質と密度の高さからイコノクラスム以降のビザンツ美術の類を見ない証拠であり、きわめて独創的な芸術的成果を示している。
岩窟の住居・集落・修道院・教会堂は4世紀から1071年のセルジューク朝による入植までの間のビザンツ帝国の一地方の歴史を化石化したように保持している。これらは消滅した文明の最重要の痕跡である。
カッパドキアは人類の伝統的な居住地の卓越した例であり、自然侵食と近年は観光の影響で脆弱な物件となっている。
ギョレメ渓谷とその周辺は劇的な侵食の力を示す壮大な景観であり、世界的に有名でアクセスのよい土柱(風雨の侵食でできた柱状の地形)の地形を筆頭に数々の侵食地形の特徴を示している。それらはきわめて美しく、文化的要素と相互に作用し調和している。
本物件は幾世紀にもわたって人間によって広範に利用・改変され、人間の交流と定住がドラマティックな自然の地形と調和して生み出された景観である。いくつかの円錐形あるいは柱形の奇岩に破損が見られるが、これらは地震の被害など自然の現象と考えられている。ただ、オーバー・ツーリズムや観光を原因とする破壊行為も報告されており、こうした景観と相いれない構造物も確認できる。
この特徴的な地形を築き上げた侵食プロセスは今後もペリバジャや土柱群を形成しつづけると思われるが、このプロセスの進行は遅く、資産の持続不可能な使用によって自然の価値が脅かされている可能性がある。岩を切り出して築かれた教会堂や関連する構造物を含む文化的特徴は、侵食を含む自然のプロセスに加えて過大な観光や開発の圧力によって損なわれる危険性があり、不可逆的に失われる可能性を否定できない。実際、過去に数人の学者が言及した教会堂のいくつかはもはや現存していない。
本遺産の歴史的背景や形状・デザイン・素材・工法などの価値や属性は世界遺産登録基準に記された文化的・自然的価値に十分に適合しており、真正性の条件を満たしている。
この地域の建築は石材を積み上げたり組み立てて建設するのではなく、自然の岩盤から石を切り出して空間を確保して構築するという工法によって築かれている。取り除いて建築物を造ることによる構造や素材・形態の制限あるいは困難さが建築家の創造的な活動を制限してきたと見られる。こうした自然条件下における人間の創造的活動は時代や文化の変化を経てもほとんど変わらず、それぞれの世代の文化的態度や技術に影響を与えている。