クサントス-レトーン

Xanthos-Letoon

  • トルコ
  • 登録年:1988年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iii)
  • 資産面積:126.4ha
  • バッファー・ゾーン:63.4ha
世界遺産「クサントス-レトーン」、クサントスのテアトルムと左上がリュキアの柱墓(左)、ハルピュイアの墓(右)
世界遺産「クサントス-レトーン」、クサントスのテアトルムと左上がリュキアの柱墓(左)、ハルピュイアの墓(右)(C) Carole Raddato
世界遺産「クサントス-レトーン」、クサントスのリュキアの柱墓(左)とハルピュイアの墓(右)
世界遺産「クサントス-レトーン」、クサントスのリュキアの柱墓(左)とハルピュイアの墓(右)。いずれも頂部にサルコファガスと呼ばれる石棺を掲げている (C) Panegyrics of Granovetter
世界遺産「クサントス-レトーン」、クサントスのネクロポリス
世界遺産「クサントス-レトーン」、クサントスのネクロポリス。岩場に数多くの墓が連なっている (C) Nikodem Nijaki
世界遺産「クサントス-レトーン」、大英博物館に収められたクサントスのネレイス記念堂
世界遺産「クサントス-レトーン」、大英博物館に収められたクサントスのネレイス記念堂 (C) Shadowgate
世界遺産「クサントス-レトーン」、レトーンの神殿跡。奥からレト神殿、アルテミス神殿、左手前がアポロン神殿
世界遺産「クサントス-レトーン」、レトーンの神殿跡。奥からレト神殿、アルテミス神殿、左手前がアポロン神殿 (C) Dosseman

■世界遺産概要

アナトリア半島南西部に当たる地中海地方・アンタルヤ県のクサントスは古代リュキアの都市遺跡で、インド、ペルシア、ギリシア、ヘレニズム、ローマ、ビザンツ、アナトリアといった種々の文化の影響を受けたリュキアのユニークな文化を伝えている。ムーラ県のレトーンは古くからの女神信仰の聖地で、レト神殿・アポロン神殿・アルテミス神殿を中心に数多くの巡礼者を集めていた。

○資産の歴史

アナトリア半島には紀元前2000~前1000年頃までルウィ語(リュキア語の原語)を話す民族がおり、これが半島南西部に暮らすリュキア人の祖先ともいわれる。古代エジプトの年代記で「ルッカ」と記されている民族がリュキア人と見られ、紀元前1200年頃にヒッタイトに侵入した系統不明の海洋民族「海の民」の一派とする説もある。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスやホメロスの著作では、リュキア人はトロイア戦争のためにクレタ島から入植し、都市国家群を築いたと伝わっている。トロイア戦争で活躍した超人アキレウス(アキレス)が乗る不死の馬の名前がクサントスで、その関係が指摘されている。

リュキアの中心都市と伝えられるのがクサントスだ。その成立は紀元前1200年にさかのぼるともいわれるが、明らかなのは紀元前546年頃にアケメネス朝ペルシアの将軍であるメディアのハルパゴスによって侵略され、アケメネス朝のサトラピー(州)に組み込まれたことだ。伝説では、クサントスはアクロポリス(都市の中心となる丘)を中心に築かれていたが、アクロポリスを破壊し、女・子供・奴隷を殺害し、ペルシア軍に特攻して滅亡したという。アケメネス朝とギリシアのポリス(都市国家)群との間で戦われたペルシア戦争(紀元前499~前449年)ではペルシア軍として戦い、アケメネス朝が敗れると独立を宣言したが、いずれかの軍によって町はふたたび破壊された(自然災害による破壊ともいわれる)。

紀元前5~前4世紀、リュキアはアケメネス朝とアテネ(世界遺産)の間で争奪戦が繰り広げられたが、やがてマケドニア王アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の帝国(アレクサンドロス帝国)に征服され、その死後は後継国のひとつであるセレウコス朝シリアの版図に入った。ヘレニズム時代(紀元前323~前30年)には新しいアクロポリスが建設され、公共広場アゴラを中心に整備された。紀元前189年に共和政ローマの保護領となり、紀元前168年にリュキア連邦を結成して自治を行った。カエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル/シーザー)が実権を握ることになるローマ内戦(紀元前49~前45年)の前後に、ブルータスによって町が破壊された。ローマ帝国成立後はリュキア属州となり、東西ローマ帝国が分裂するとビザンツ帝国(東ローマ帝国)の支配下に入った。次第にリュキアは重要性を失い、7世紀には地方都市に落ち着いたが、クサントスの墓のレリーフに描かれたリュキア式の木造住宅や納屋などはいまに伝えられており、この地域の農村で見ることができる。

レトーンはクサントスの南西3~4kmほどに築かれた聖地で、紀元前7~前6世紀頃に神の泉の地に築かれたと伝わっている。もともとリュキアの母なる女神エニマハナヒの聖地だったと考えられているが、紀元前4世紀頃にギリシアの神々に取って代わられ、女神レト(ローマ神ラトナ)信仰に移行した。レトーンの名もレトに由来する。もっともレトの起源はアナトリア半島の女神ラダとされ、同一の女神が名前を変えて信仰されているともいわれる。レトは最高神ゼウスとの間に太陽神アポロン、月の女神アルテミスという双子の兄妹を産んでおり、ヘレニズムの時代にはこの3柱が信仰の中心となった。リュキアには3~4世紀にキリスト教が伝わり、当初はキリスト教を弾圧していたローマ帝国が313年にミラノ勅令で公認し、380年には国教化され、392年にはキリスト教以外の宗教が禁止された。この過程でレト信仰は衰退し、レトーンにも教会堂が築かれるようになり、7世紀には放棄された。

○資産の内容

世界遺産の構成資産はクサントスとレトーンで、クサントスの一部がエシェン川(古代のクサントス川)を隔てた隣県に離れて位置しているため計3件となっている。

クサントスはペルシア時代からギリシア・ヘレニズム・ローマ・ビザンツ時代にかけて栄えた古代都市クサントスの都市遺跡だ。一帯は市壁で囲まれており、南西の崖上にペルシア時代のアクロポリスが築かれた。このアクロポリスがヘレニズム以前のクサントスの中枢で、王宮跡を中心に教会跡などの遺構が残されている。その北に隣接しているのがローマ時代のテアトルム(ローマ劇場)やアゴラ、ビザンツ時代のバシリカ(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の教会堂)で、周辺にはローマ人やリュキア人の墓が点在している。

この一帯で特筆すべきが紀元前5世紀に建てられたリュキア王カイベルニスの柱墓=ハルピュイアの墓(ハーピーの墓)で、建物自体はゾロアスター教、内部はギリシア・アルカイック期(紀元前8~前5世紀頃)の様式で築かれている。ハルピュイアは人間の女性の上半身とワシの下半身と翼を持つギリシア神話の怪鳥で、大理石で築かれた最上段の玄室に女面鳥身のレリーフが刻まれていたことに由来するが、ハルピュイアではないとする説もある(ハーピーはハルピュイアの英語名)。ハルピュイア以外にも当時の信仰や生活を示すさまざまなレリーフが刻まれているが、現在見られるレリーフは復元で、オリジナルは19世紀にクサントスを発見した考古学者チャールズ・フェローズによってイギリスに持ち運ばれ、現在はロンドンの大英博物館に収められている。隣接して立っているリュキアの柱墓は頂部に家形のサルコファガス(石棺)を掲げており、こちらも紀元前6世紀前後のものとされる。いずれも高さ8~9mほどで、クサントスのランドマークとなっている。高所に石棺を安置する理由として、「沈黙の塔」と呼ばれる葬祭塔に遺体を置いて鳥葬を行うゾロアスター教の影響と見られる。

近隣に立つ石碑=クサントス・オベリスクは紀元前400年前後に制作された戦勝記念碑で、古代ギリシア語・リュキア語・ミリヤ語の対訳碑文が刻まれている。もともとハルピュイアの墓のように柱墓に収められていたが、地震などで倒壊したものと考えられている。リュキアの言語や文化の解明に貢献しただけでなく、アナトリア半島の言語研究を飛躍させた。

リュキアのアクロポリスの東側はローマ時代のテルマエ(浴場)や列柱道路を経てヘレニズム時代のアクロポリスで、アゴラや寺院、大バシリカの遺構がたたずんでいる。もともとこの場所に立っていたのが有名なネレイス記念堂だ。紀元前4世紀に築かれたリュキア王アルビナスの墓とされ、ギリシアのイオニア式神殿を応用してデザインされた。イオニア式のオーダー(基壇や柱・梁の構成様式)を持つ周柱式神殿のような構成で、海の女神ネレイスの彫像が数多く見られるところから命名された。フリーズ(装飾梁)やペディメント(頂部の三角破風部分)などのレリーフにはアルビナスや戦士らの儀式や戦闘シーンが描かれている。こうして墓に神殿建築を用いることは古代ギリシアでは考えられなかった。フィロンによる古代の世界七不思議のひとつに選出されているハリカルナッソスのマウソロス霊廟(現存せず)はこのネレイス記念堂を模したものともいわれる。現在、記念堂の本体は大英博物館に収められており、土台のみが残されている。ネレイス記念堂の南にはヘレニズム時代の城門とウェスパシアヌス門がある。

都市の北東部は死者の町=ネクロポリスで、数多くの墓が立ち並んでいる。もっとも有名な墓のひとつがパヤヴァの墓(ライオンの柱墓)だが、こちらもフェローズによって持ち去られ、大英博物館収蔵となっている。パヤヴァの墓も頂部にサルコファガスを掲げる柱墓で、紀元前4世紀を生きたパヤヴァという有力者の墓と考えられている。レリーフにはパヤヴァや側近らの姿のほか、ライオンなどの動物や戦車が描かれており、ギリシアやペルシア両面の影響がうかがえる。頂部のサルコファガスについてはインドのチャイティヤ・アーチ(石窟寺院の入口や内部を模した半円あるいは馬蹄形アーチ)と酷似しており、ヘレニズム時代の文化交流の影響とされる。これ以外に、紀元前4世紀に築かれた踊り子の柱墓をはじめ数々の墓が点在しており、ネクロポリスは北の城壁の外にまで広がっている。また、都市の北にはビザンツ時代の大聖堂の遺構が残されている。

レトーンはレト、アポロン、アルテミスの3柱を中心とした聖地だ。中心となるのはレト神殿で、平面30.25×15.75mと3神殿で最大を誇り、長辺に11本・短辺に6本の柱を持つイオニア式の周柱式神殿となっている。その東に隣接するアルテミス神殿は18.20×8.70mで、3神殿では最小だ。さらに東のアポロン神殿は27.90×15.07mで、長辺11本・短辺6本の柱を有するドーリア式神殿だ。内部ではアルテミスの弓やアポロンの竪琴を描いたモザイク(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて絵や模様を描く技法)画や、古代ギリシア語・リュキア語・アラム語の対訳碑文を刻んだ石碑が発見された。特に石碑は紀元前358年に制作されたもので、リュキア語の解読に大きな役割を果たした。近郊には2世紀にローマ皇帝ハドリアヌスが築いたと伝わる泉の精霊ニンフを祀るニンファエウムと呼ばれる聖泉がある。これ以外に、ローマ時代のテアトルム(ローマ劇場)やバシリカ、4世紀に築かれた修道院と教会堂などの遺構が見られる。残念ながら、数本の柱を除いて立っている建物は存在せず、多くの建物は取り壊されて教会堂などの建設のために石材として持ち去られた。

■構成資産

○クサントス

○クサントス(外縁)

○レトーン

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

クサントス-レトーンはパタラ、プナラ、ミュラといったリュキアの主だった古代都市や近郊の建築文化に直接影響を与えた。また、古代世界の七不思議のひとつに数えられるハリカルナッソスのマウソロス霊廟はクサントスのネレイス記念堂の影響を直に受けている。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

クサントス-レトーンはこれらふたつの遺跡で発見された多くの碑文と、資産内に保存されている驚くべき葬祭関連モニュメントの両者を通じて、リュキア文明に関する卓越した証拠を提示している。リュキア語で記されたもっとも長くもっとも重要なテキストはクサントス-レトーンで発見されており、そうした碑文のほとんどは岩や巨大な石板に刻まれている。これらはきわめて独創的で、長期にわたって忘れ去られていたインド・ヨーロッパ言語の際立った証拠と見なされている。また、墓に装飾されたロックアートや、柱状の墓群、柱墓に設置されたサルコファガスなどは新しいタイプの葬祭建築の表現である。また,クサントスとレトーンに存在する数多くのリュキア人の墓は紀元前6世紀以降にリュキアで起こった相次ぐ文化的変容の完全な理解を可能にしている。

■完全性

資産は顕著な普遍的価値を有するオリジナルのモニュメントや考古学的遺跡をはじめ、すべての必要な要素を含んでいる。すべての構成資産はほぼ無傷で伝えられており、観光や現代の住宅地の悪影響を受けていない。

現在、この遺産の完全性を脅かしている唯一の要因は、長年にわたって古代都市を横断している舗装道路である。2004年に施行された改正保存法の枠組みの中で、文化遺産保存地域評議会は2010年にこの道路を閉鎖することを決定した。また、周囲を囲う金網についても資産の完全性に影響を与えないようにさらなる措置が必要である。

■真正性

クサントス-レトーンは現在、住宅地から離れていることもあって、真正性は適切に保たれている。発掘調査で明らかになったモニュメントでは重大な修復・保全作業が行われたが、デザインやレイアウトの面で真正性に影響を与えていない。もっとも重要なプロジェクトは2000~07年にかけて行われたレト神殿の再建だ。1950年代にはじまる発掘調査で発見された遺跡のさまざまなパーツがこのプロジェクトを成功に導いた。また、同様の重要な修復・保全・統合作業は初期キリスト教の教会堂やニンファエウムでも実施された。

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