トルコ北部の黒海地方・カラビュック県に位置するサフランボルは11世紀にセルジューク朝によって開発された都市で、キャラバン(隊商)が行き交うアナトリア半島の中心的な交易都市として発達した。そのユニークな都市計画や建築は17世紀にオスマン帝国の諸都市に多大な影響を与え、オスマン建築のベースを確立した。なお、サフランボルという名称は「サフランのポリス(都市)」を意味し、シルクロードを通ってもたらされた香辛料サフランが栽培され、名産品となっていたことに由来する。
サフランボルには古代から人間の居住の跡があり、紀元前3000年以前の遺跡が残されている。長らくローマ帝国が支配していたが、395年に東西ローマ帝国が分裂するとビザンツ帝国(東ローマ帝国)の版図に入った。この時代には町は「ダディブラ」と呼ばれていたようだ。
1038年にイランの地でテュルク系(トルコ系)のイスラム王朝であるセルジューク朝が興り、アナトリア半島に侵入。1071年にマラズギルトの戦いでビザンツ帝国を破って支配を確立し、1077年には同朝からルーム・セルジューク朝として独立した。スルタン(王のような地域支配者)であるクルチ・アルスラーン1世の時代、1196年に息子ムヒディン・メスト・シャーが「ザリフレ」と呼ばれていたこの地を占領した。そしてイスラム教が広がり、キリスト教の教会堂はモスクに建て替えられた。町は隊商貿易を担う交易都市として発展し、ヨーロッパと中国やペルシア、アラブ、北アフリカを結ぶシルクロードの要衝となった。町には多数のキャラバンサライ(隊商宿)が建設され、さまざまな民族のキャラバンがこの地に集った。ルーム・セルジューク朝は各地にベイ(君侯)を君主とするベイリク(君侯国)を置いて統治させたが、13~14世紀にかけてチョバノ侯国やジャンダル候国などがこの地を治めた。
14世紀後半からたびたびオスマン帝国の侵略を受け、15世紀はじめ、オスマン皇帝(スルタン)・ムラト2世の時代に支配下に入った。オスマン帝国は17世紀に中央ヨーロッパから西アジア、北アフリカにまたがる大帝国を築いたが、この時代にサフランボルも最盛期を迎えた。隊商貿易が活発化しただけでなく、帝都イスタンブール(世界遺産)で成功を収める市民も多く、町は豊かになった。現在見られる伝統家屋の多くは18~19世紀に築かれたもので、オスマン時代のモスクやハマム(浴場)、キャラバンサライや旅館なども数多く残されている。また、隊商ルート上の町々はサフランボルを規範として町を築いたため、その都市計画や建築がオスマン帝国各地に広がった。当初この町は「タラクル・ボルグル」「ボルル」などと呼ばれていたが、18世紀頃から「ザニンギンフィラン・ポリス」「ザニンフィラン・ボル」を経て「サフランボル」に変化した。サフラン栽培が活発化したのもこの頃と考えられている。
19世紀にオスマン帝国は「瀕死の病人」と呼ばれるほどに衰退し、交易ルートが変わり、鉄道が普及したこともあってサフランボルも急速に衰退した。1939年に隣接するカラビュックで国営の製鉄所が操業を開始すると、同市は工業都市として急速に発展した。サフランボルの市民の多くが移住し、あるいは働きに出たが、人々は伝統家屋を愛し、これを維持した。こうした事情でサフランボルは開発を免れ、歴史的な街並みが残されることとなった。
世界遺産の構成資産は3件で、町の中心である「チュクル」、非イスラム教地区だった「クランキョイ」、ブドウ園・果樹園地区「バーラル」からなる。
「チュクル」はサフランボルのキャラバンサライやバザール(市場)が集まる場所で、交易都市の中心を担っていた。もともと西の丘のシタデル(城塞)付近がテュルク系(トルコ系)民族の最初の入植地だったが、15~16世紀にふたつの川に挟まれた三角形のこの土地が発達した。この地区の最初期の建物として、エスキ・モスク(ガジ・スレイマン・パシャ・モスク)、ガジ・スレイマン・パシャ・マドラサ、エスキ・ハマムが挙げられる。エスキ・モスクはサフランボル最古とされるモスクで、ビザンツ時代の教会堂がモスクに転用されたといわれれるが、定かではない。瓦礫を積み上げた城砦のような堅牢な建物で、正方形のプランの内部に礼拝室やミフラーブ(メッカの方角を示す聖龕)が設けられている。木造のミナレット(礼拝を呼び掛けるための塔)は後年、築かれたものだ。近郊のガジ・スレイマン・パシャ・マドラサは1322年創建のマドラサ(モスク付属の高等教育機関)で、サフランボルの高等教育を担った。エスキ・ハマムもほぼ同年代のものとされる。
隊商貿易はオスマン時代、特に17世紀に最盛期を迎えた。中心は産業別のバザールで、バザールの周囲に厩舎を備えたキャラバンサライや祈りのためのモスク、身体を洗うためのハマム、皮革職人・織物職人・鍛冶屋・鞍工・靴職人といった職人の店舗や作業場が立ち並んでいた。代表的なキャラバンサライ跡がジンジ・ハンだ。ジンジ・ホジャの設計で1645年に建てられたキャラバンサライで、2階建てで中央に大きな中庭を持ち、壁はレンガや瓦礫を積み重ねてモルタルで塗り固められている。20世紀初頭まで稼働していたが、その後倉庫となり、現在はホテルとして営業している。近郊のタリヒ・ジンジ・ハマムも同年にジンジ・ホジャが建てたハマムで、現在も変わらず営業を行っている。この時代の重要なモスクとして、1661年に築かれたキョプルル・メフメト・パシャ・モスクや、1779年に建てられたカズダギ・モスク、1796年建設のイッゼト・パシャ・モスク、1885年建設のハマディエ・モスクなどが挙げられる。これらは切石やレンガを積み上げた石造建築で、頂部に円形や多角形の巨大なドームを冠しており、脇にミナレットが立っている。外観は簡素ながら、ペンデンティブ(穹隅。4つのアーチでドームを支える構造)やバットレス(壁を支えるための控え壁)といった複雑な構造を駆使しており、ビザンツ建築や中東のイスラム建築の両面の影響が見られる。内部はミフラーブとミンバル(階段状の説教壇)・礼拝室を中心としたシンプルな造りで、幾何学・装飾文様を中心としたイスラム装飾アラベスクや、聖典『コーラン』の文章を引用した文字装飾イスラミック・カリグラフィーなどで飾られている。モスクの多くは為政者や富豪が寄贈したもので、寄贈者の名前を冠していることが多い。オスマン・バロック様式でイスタンブールのヌルオスマニエ・モスクの影響が見られるイッゼト・パシャ・モスクのように、それぞれのこだわりがうかがえる。
サフランボルには1,000棟以上の伝統家屋が残されているが、多くがチュクルに集まっている。斜面に合わせて土台を造り、木の柱と梁でフレームを作りつつ、柱と柱の間に石やレンガを積み上げて壁を築くハーフティンバー(半木骨造)の高層建築で、石壁ながら柱や梁・筋交いが見える外観を特徴としている。内装では特に天井がユニークで、豪華なレリーフや彫刻・絵画で装飾された木製天井も少なくない。チュクルは丘に囲まれた土地であるため斜面に伝統家屋が立ち並ぶ風景がすばらしく、こうした伝統家屋からの眺めが大きな見所となっている。
これら以外に代表的な建物として、1794~97年の建設でトルコで稼働している最古の時計のある時計塔、1904~06年に築かれた新古典主義様式の建物でもともと政府庁舎だった市立歴史博物館、フドゥルルク・ハサン・パシャ廟をはじめとする墓廟などが挙げられる。
「クランキョイ」はチュクルから丘を隔てた西に位置するエリアで、かつては多くのギリシア人が暮らす非イスラム教地区だった。チュクルと同様、道は地形に合わせて曲がりくねっており、ビザンツ様式で建てられた正教会の教会堂やヨーロッパ風の民家が立ち並んでいた。一例が1872年建設のウル・モスクで、1956年以前は聖ステファン教会という教会堂だった。伝統家屋についてもギルド(職業別組合)が入ったギルド・ハウスのような造りの建物が多く見られ、1階を店舗や作業場とし、2階以上に職人や商人が暮らしていた。ハーフティンバーの建物は少なく、多くは石造建築となっている。
「バーラル」はサフランボルの北西の丘の一帯で、南向きで豊かな日照量と風量があり、雪の降る冬と乾燥した夏を特徴とする気候を利用してブドウやレモンといった果樹の栽培が行われていた。広大なブドウ園や果樹園には大きな邸宅が築かれて、狭く入り組んだチュクルやクランキョイとは異なる街並みを見せている。トルコ人やギリシア人の富裕層はこの地を夏を過ごす避暑地として利用していた。
サフランボルは何世紀にもわたって隊商貿易で重要な役割を果たし、大きな繁栄を遂げた。その結果として、オスマン帝国の広範囲にわたる都市開発に多大な影響を与え、公共建築や住宅建築の規範を確立した。
隊商貿易は幾世紀にもわたってオリエントとヨーロッパを結ぶ主要な商業手段であり、その結果、キャラバンのルートに沿って特徴的な町々が発展した。19世紀に鉄道が開通するとこれらの町は存在意義を失い、ほとんどの町は主とする産業を変えて対応した。サフランボルも同様で、隊商貿易が衰退した後、近郊のカラビュックの製鉄所を中心に鉄鋼業が発達して新たな社会的・経済的基盤となった。カラビュックが発展する一方でサフランボルの歴史的街並みは開発から逃れ、都市構造や建物が見事に保存されている。
サフランボルは典型的なオスマン帝国の都市であり、その地形と歴史的街並みの間に非常に興味深い相互作用を示している。
建造物の建築的特徴と通りを中心としたレイアウトは本遺産の顕著な普遍的価値をいまなお伝えつづけている。チュクル、クランキョイ、バーラルの3エリアの歴史的な居住形態はほとんど損なわれておらず、完全性は保持されている。サフランボルではオリジナルの外観や建物が非常によく保存されており、資産の範囲はその重要性を反映して適切に取られている。世界遺産リストへの搭載以来、資産の完全性に大きな変化は見られないが、外部からの開発圧力に対して脆弱であることに変わりはない。こうした伝統的な街並みをよりよく保存し、完全性を維持するために、継続的な努力が必要である。
サフランボルの都市レイアウトや町の景観は産業化以前のトルコを想起させるもので、その真正性に疑いの余地はない。しかし、個々の建物の真正性のレベルはそれぞれ異なり、現代的なニーズと工業化への対応などによって大きく変わる。サフランボルでは近年、観光業が主要産業として発達しており、伝統家屋をホテルやレストランといった観光施設に改装する傾向が見られる。地域の活性化に貢献するだけでなく、空き家となっていた歴史的建造物が修復・活用されるなど保全にも寄与しているが、形状やデザインといった点で真正性が継続して満たされていることを確認するために慎重な監視が必要である。資産の真正性を脅かす要因として、チャルシュ地区の土産物屋を中心とした観光業の不適切な慣行や、修復作業を担う経験豊かな地元職人の減少、伝統家屋の劣化などが挙げられる。それぞれの要因を監視し、適切な管理措置を講じる必要がある。