チャタルホユック(チャタルヒュユク)は中央アナトリア地方の南東部、コンヤ県の県都コンヤに位置する遺跡で、東と西のふたつのマウンド(墳丘・墳丘墓)からなる。東マウンドは新石器時代の紀元前7400~前6200年の遺構が18の層をなすテル(遺丘。集落や都市の遺跡が積み重なった丘のような層状遺跡)で、西マウンドは銅器時代(金石併用時代)の紀元前6200~前5200年の遺跡となっている。
新生代第四紀更新世(約258万~1万年前)の時代、コンヤ平野には大きな湖が存在した。最終氷期(約7万~1万年前)末期、紀元前13000~前11500年頃に湖は干上がり、温暖で湿潤な気候となった紀元前9500年までに農業に適した肥沃な土地となった。
紀元前7400年頃に東マウンドの丘に小さな集落が誕生した。当初は狩猟・採取を主としていたが、やがて大麦や小麦の生産を行い、人口3,000~8,000人ほどの都市にまで発展した。特徴的なのは住居で、長方形の日干しレンガ造の住居群が丘の斜面に段々畑のように連なっており、通りもないほど密集していた。こうした町の構造や住居の壁面にほとんど窓が見られず、天井に穴が開いている事実から、当時の人々は屋根を通路とし、屋根で活動を行い、屋根からはしごを用いて出入りしていたと考えられた。こうした構造を取った理由はハッキリしないが、一説ではライオンやヒョウ、クマといった猛獣や外敵に対する備えだったとされる。
住居のメインルームは構造を強化するための太い柱で支えられており、天井に多数の梁(はり。柱の上に水平に置く横架材)を渡して茅などを敷き、粘土を厚く塗り重ねて屋根とした。地面には一段高い基壇が設けられており、南の壁際に暖炉やかまどを設置し、そのほぼ真上に屋根穴が空いている。この位置関係から、屋根穴は通気口にもなっていたようだ。内外の壁は石灰質の漆喰で白やクリーム色に塗られており、その表面に鉱物を原料とする顔料で人間やヒョウ、ライオン、イノシシ、シカ、クマ、オオカミ、ワシ、タカ、イヌなどの動物や、狩猟や儀式の様子、幾何学文様などが描かれたり、あるいはレリーフとして刻まれた。後の時代になるとヒツジやウシなどの家畜や牧畜の様子も描かれるようになった。特に雄牛の絵や頭蓋骨のブクラニア(ウシの頭蓋骨や模造品を用いたオブジェや装飾)が頻繁に見られることからウシが神聖視されていたようだ。他にもキツネやイタチ、イノシシ、クマ、ワシなどの骨・牙・爪・クチバシなども出土しており、動物が祭祀・儀礼で重要な役割を果たしていたことがうかがえる。一般的な住居はこのメインルームの他に、料理や工作のためと思われる別室や、低い天井で結ばれた倉庫と見られる部屋を備えていた。
時代を下ると石器や土器だけでなく、陶器や黒曜石を用いたナイフ、砥石、粘土製の印章、かご、織物、ビーズ、骨角器、女性像などが登場した。特に黒曜石はハッサン山など近郊で採石されたものが多く、特産品となっていたようだ。貝は紅海、フリント(火打石)はシリアなどから運ばれており、黒曜石の道具類と交換していたと見られ、広範な交易の証となっている。有名な「チャタルホユックの女性坐像」はライオン(あるいはなんらかのネコ科の動物)の首像の付いた肘掛椅子に座った全裸の女性像で、地母神を表しているとされる。これ以外にも若い女性像や老婦の像、出産している女性像、女性の胸部など、数多くの女性像が見られる。ただ、男性像も発見されており、動物像が圧倒的多数を占めていることから、地母神や女神信仰を否定する意見も少なくない。壁画やレリーフは次第に見られなくなり、その代わり陶器にそういった文様が描かれるようになっていった。紀元前7000年紀にはヒツジやウシなどの家畜の飼育がはじまり、大麦・小麦の他にエンドウマメやアーモンドなどの豆類や種々の果樹が栽培され、農牧業が生活を支えた。
東マウンドに特徴的なのが埋葬跡だ。400以上の埋葬跡が発見されているが、遺体は住居の床下に60cmほどの穴を掘り、身体を屈めた形でかごやゴザ、ひもなどでしっかりと固定して埋葬された(屈葬)。頭部が失われている遺骨もあり、何らかの儀式に使われたものと思われる。装飾品や副葬品はほとんどないが、例外的に印章や武器・アクセサリーが発見されている。住居に埋葬跡があり、女性像や雄牛の頭蓋骨といった品々が発掘されていることから、多くの祭祀・儀礼が住居内で行われていたと考えられる。女性像が集中的に出土した建物も発見されており、宗教施設や集会所だった可能性も指摘されている。
遺跡からは巨大な公共建築や祭祀場、神殿や墓地が発見されておらず、特別に埋葬された人間も見られない。王や神官のようなリーダーや中央集権的なシステムが存在せず、男女の差もほとんどないことから、きわめて平等に社会生活が営まれていたようだ。
室内が非常によく整理されており、ゴミなどもいっさい見られないのに対し、不要となった動物の骨や瓦礫・薪・灰といったゴミは町の内外に捨てられ、数十年~数百年後には貝塚のように堆積物が町を埋め尽くした。こうした廃棄物の山や古い住居を土台としてその上に新しい住居を築き、遺構は層状に堆積していった。最終的に東マウンドは最大18層にもなり、厚さは21mに及ぶ。ただ、東マウンドの上層部の住居では次第に埋葬の跡が見られなくなっていく。
紀元前7,000年紀の後半から東マウンドの集落は徐々に縮小し、人々は各地に分散していったようだ。同時に西マウンドに人々が住みはじめ、新たなマウンドとなった。その理由は定かではないが、一説ではチャルシャンバ川が流れを変えたためといわれる。
西マウンドは東マウンドよりはるかに小さく、面積は約1/10ほどで高さも約6mとなっている。住居について、暖炉が部屋の中央に配されるようになり、多くの部屋を持つものや2階建ての住居も見られるようになった。壁画やレリーフ、ブクラニアなどは見られないが、壺などの陶器に色鮮やかな模様が描かれており、雄牛の頭蓋骨や女性像、動物像、幾何学文様など、東マウンドの壁画やレリーフとの共通点が見られる。住居内での埋葬はなくなり、宗教的な祭祀・儀礼が変化したことが示されている。
やがて西マウンドも紀元前5,200年頃に放棄され、当初は自然の侵食作用によって2mほど低くなったが、やがて土砂が堆積して覆い隠された。
1951年、アンカラのイギリス考古学研究所に所属していたイギリスの考古学者ジェームス・メラートがコンヤ平野を調査し、翌年の第2回調査でマウンドが観察された。1958年に同研究所のデイヴィッド・フレンチとアラン・ホールがマウンドを訪れて日干しレンガの建造物群や陶器片・骨・黒曜石などを発掘し、近東で最大級の新石器時代の遺跡であることを確認した。1961~65年にかけてメラートが発掘調査を行い、東マウンドで約160棟の建造物群を発見した。メラートの追放を受けて1965年以降、遺跡はほとんど手付かずとなったが、1993年からアメリカのペンシルベニア大学の保護研究所をはじめ世界各国のさまざまな研究チームが入っており、遺跡の保全や発掘作業を進めている。
本遺産は登録基準(ii)「重要な文化交流の跡」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、チャタルホユックで人々が狩猟採取生活から農業に移行して定住の共同生活を勝ち取り、芸術センターとして周辺に影響を与えつづけたという主張に対し、その可能性は認めるものの、その影響を証明する証拠は他の遺跡から発見されておらず、定住生活の内容は登録基準(iii)でこそより評価されるとした。
チャタルホユックは新石器時代のある時期に中央アナトリア地方で初となる農耕集落が形成され、主に平等主義の原則に基づいて運営され、何世紀もかけて村から都市へと発展したことを示すきわめて独創的な遺跡である。こうした集落や都市の様子は放棄された後も数千年にわたって保存されており、都市計画や建築構造・壁画・埋葬跡といった遺構や遺物から読み取ることができる。最大18層に及ぶ層序は集落が徐々に発展し、再形成され、拡大した事実を示す稀有な証拠を提示している。
チャタルホユックの建造物群は通りのない街、屋根からアクセスする住居、特徴的な方向的・空間的特性を持つ内部構造によって特徴付けられており、新石器時代の卓越した集落タイプを例示している。都市全域において住居の大きさがほぼ等しいことは、コミュニティの平等主義的理想に基づいた都市レイアウトの初期の例であることを示している。
2,000年の歴史を持つ先史時代の集落遺跡は本来の場所に良好な状態で保存されており、資産には顕著な普遍的価値を持つすべての要素が含まれている。2基の考古学的なマウンドは周囲の平野から丘のように盛り上がっており、それらが構成する特徴的な景観は視覚的な完全性を維持している。ふたつの主な発掘エリアの上に建設されたシェルターは気候がもたらす直接的な影響から考古学的構造物を保護する役割を果たしており、降雨や侵食のリスクを軽減している。
チャタルホユックの考古遺跡は素材・原料・位置・配置といった点で真正性を保持している。遺跡で40年以上にわたって行われてきた研究と発掘の内容は十分に記録されており、それによってこの遺跡が初期新石器時代の集落跡であり。真正であることが証明されており、遺跡も遺物も適切に保存されている。また、マウンドの物理的質量や規模は1958年にはじめて発見されたときから大きく変わっていない。