トルコ南東部ディヤルバクル県の県都ディヤルバクルにある城郭都市アミダの遺構で、全長5.2kmの市壁に囲まれたディシュカレ(外城)、全長600mの市壁に囲まれたイチカレ(内城)、市壁とティグリス川の間に展開するエヴセル庭園を中心としている。創設は紀元前1000年以前にさかのぼる古都で、ヘレニズム、ローマ帝国、ササン朝ペルシア、ビザンツ帝国、ウマイヤ朝、セルジューク朝、アルトゥク朝、オスマン帝国をはじめ、さまざまな時代の遺構や遺物が連なっている。なお、ディシュカレの市壁内に広がる旧市街はバッファー・ゾーンとなっており、世界遺産の資産には含まれていない。
ディヤルバクルの地はメソポタミア文明を生んだティグリス川の上流に位置し、いわゆる「肥沃な三日月地帯」の北端付近に位置する(ティグリス川はさらに上流でユーフラテス川と合流する)。近郊のチャユニュー遺跡では新石器時代の紀元前9300~前6300年頃の遺跡が発掘されており、北メソポタミアの文化のひとつであるハラフ文化(紀元前6000~前5400年)に関係する遺跡も発見されている。ディヤルバクルにもアッシリアやミタンニの時代、紀元前1000年以前から「アミダ」や「アミディ」と呼ばれる都市が存在したようで、アッシリアが紀元前866年にこの都市を落としたことが記録されている。アミダはメソポタミアとアナトリアやヨーロッパを結ぶ要衝に位置していたことから交易都市として発達したようだ。
皇帝トラヤヌスの時代、2世紀はじめにローマ帝国は最大版図を築き、その領域はアナトリアを越えてメソポタミアやアルメニア、北アフリカに及んだ。しかし、続くハドリアヌスはメソポタミアとアルメニアを放棄し、アミダはその国境付近の都市として重要性を増した。特にコンスタンティヌス1世やその息子コンスタンティウス2世が都市を拡大し、市壁を大幅に拡張した。4世紀半ば、ヨウィアヌスの時代にササン朝との間で国境を画定し(ヨウィアヌス条約)、アミダはササン朝と国境を接するもっとも重要で先進的な都市のひとつとなった。人口も急増し、市壁はさらに拡張された。
7世紀、正統カリフ(カリフはイスラム教創始者ムハンマドの後継者でありスンニ派最高指導者。正統カリフ時代は第1~4代カリフの時代で632~661年)が率いるイスラム軍の攻撃が激化。アミダは5か月にわたる包囲を受けて陥落し、イスラム教勢力の支配下に入った。正統カリフは661年にウマイヤ朝に引き継がれるが、アミダは728年に州都となり、要衝としてありつづけた。ウマイヤ朝は750年にアッバース朝(イスラム帝国)に引き継がれているが、ウマイヤ朝やアッバース朝の時代にしばしばビザンツ帝国の攻撃を受け、市壁などが損傷した。
983年、クルド人の族長バーズがアミダを中心にイスラム王朝マルワーン朝を建国。市壁を修復し、城壁塔を整備して城塞を強化したが、1085年にセルジューク朝の攻撃を受けて滅亡した。セルジューク朝も同様に市壁を修復している。
セルジューク朝は広大な版図を治めて「大セルジューク朝(セルジューク帝国)」と呼ばれたが、実際には分裂状態にあった。1101年に成立したアルトゥク朝も分裂国家のひとつで、1183年にアミドを占領し、王宮を建設して首都として整備した。しかし、セルジューク朝から独立したルーム・セルジューク朝やホラズム・シャー朝、エジプトを拠点とするアイユーブ朝といった強国に囲まれて難しい舵取りを迫られた。1394年には、モンゴル帝国分裂後に誕生したチャガタイ・ハン国の元司令官で、ティムール朝を建てて独立したティムールが襲来し、市壁に穴を開けて町に侵入して都市を破壊した。しかしこの時代、アミダはアレッポ(世界遺産)との交易路の重要な中継地であったためすぐに再建された。ティムールが嵐のように去るとアミダはアルトゥク朝の版図に戻り、15世紀はじめの白羊朝の時代にはふたたび首都が置かれた。この頃、養蚕や絹糸の生産が活発化して絹糸や絹織物がアミドの特産品となった。エヴセル庭園にはカイコのエサとなるクワが植えられて、多くが桑畑となった。
1515年にオスマン帝国がアミドを占領。帝国の交易都市として再整備され、1922年の滅亡までありつづけた。町は市壁のはるか外にまで広がったが、市壁の多くは撤去されずに残された。1900年代に入ってディヤルバクルと呼ばれるようになり、1937年に都市名として正式に採用された。
世界遺産の資産としては、外城=ディシュカレの市壁、内城=イチカレの全域、城塞からティグリス川両岸にかけて広がるエヴセル庭園が地域で登録されている。ディシュカレの市壁内の旧市街は市壁の周辺を除いて資産には含まれていないが、イチカレの内部は資産を構成している。
市壁は主にローマ時代に築かれたもので、時代時代の改修を受けている。全体はおおよそ東西に長い楕円形で、ディシュカレを囲う市壁が5.2km、その北東に位置するイチカレを囲う市壁が600mで、計5.8kmを誇る。市壁は厚さ5~12m・高さ7.6~22mで,主に玄武岩や石灰岩の切石で築かれており、城壁塔にはレンガも使用されている。ディシュカレには82基、イチカレには19基の城壁塔があり、その形は円形・四角形・多角形と多彩で、3~4層で兵士が駐在するスペースや倉庫として使用されていた。その多くが現存しているが、イチカレの東側の市壁や城壁塔をはじめ一部は撤去されている。ディシュカレには4基の城門があり、東のイェニ門、西のウルファ門、南のマルディン門、北のダグ門となっている。また、イチカレにもサライ門、キュピリ門、オグン門、フェティ門の4基の門があったが、オグン門は撤去されている。
ディシュカレにはアンゼレ、アリピナ、ギョゼリ、イチカレにはイチカレという泉があり、水源となっていた。特に西の城壁近くに湧き出すアンゼレの泉が最大の供給源で、地下水路で市内に上水を供給し、城を出ると峠を下ってエヴセル庭園を潤していた。ローマ時代以降に築かれた噴水やハマム(浴場)の水源で、現在でも使用されている。
イチカレの象徴的な構築物がアミダ・ホユクだ。「ホユク」はマウンド(墳丘・墳丘墓)状に積み重なったテル(遺丘。集落や都市の遺跡が積み重なった丘のような層状遺跡)を示し、アミダ・ホユクは地下20mから高さ20mまで盛り上がったマウンドとなっている。ディヤルバクルで最初に開拓された場所とされ、最下層からは新石器時代の集落跡や黒曜石の石器が発掘されている。以降の時代も町の中心的な建物が築かれ、13世紀はじめにはアルトゥク朝の王宮が建設されたが、オスマン時代の16世紀に撤去された。イチカレではアルトゥク朝期の建物や遺構が多く、一例としてハズレティ・スレイマン・モスク(イチカレ・モスク)が挙げられる。1155~60年頃に築かれたセルジューク様式のモスクで、オスマン時代の1631~33年に改築されて現在の形となった。隣接のマシュハド(墓廟)には7世紀、正統カリフ時代に「神の剣」と讃えられた名将ハーリド・イブン・アル=ワリードと27人の殉教者が眠っており、聖地として巡礼者を集めていた。また、ライオン門とも呼ばれるアルトゥク・ケメリ(アルトゥク朝アーチ)は1206~07年に築かれた幅約10m・高さ4.5mの尖頭アーチ(頂部が尖ったアーチ)の構築物で、レリーフには雄牛を倒すライオンの姿が刻まれており、凱旋門のような象徴的な建物だったと見られる。近くにはライオン噴水があり、2頭置かれていたライオン像のうち1頭が現存している。聖ジョージ教会は建築年代不明ながら2世紀頃の建設と見られ、ローマ時代には神殿、初期キリスト教時代には教会堂として使用され、アルトゥク朝期には王宮のハマムに改修された。イチカレのディヤルバクル考古学博物館には周辺で出土した7,000年にわたる遺物が展示されている。
城塞の東はティグリス渓谷の断崖で、ティグリス川を遠く見下ろすことができる。こうした断崖があるため東から攻め入るのは困難で、イチカレはこの断崖を利用して城塞を築いていた。
この渓谷からティグリス川にかけて広がっているのがエヴセル庭園だ。森林から草原・荒原・沼・湿地へ移行する土地で、古くから林業や農場・牧場・牧草地として使用されていた。多くの動植物が生息しており、固有種や絶滅危惧種も多く、特に鳥類については現在でも200種弱がいて「隠れた鳥類保護区」の異名を持つ。アッシリアがこの都市を落とした際に庭園の記録があることから、アミダの成立前後から庭園が併設されていたものと見られる。「エヴセル」はローマ時代にペルシア人、あるいはイスラム教の時代にアラブ人が命名したとされるが、定かではない。いずれにせよ美観を重視して整形された庭園というよりも、アミダに水や食料を供給する重要な後背地だった。オスマン帝国の時代に庭園はティグリス川の東岸にまで延び、ブドウやメロン、スイカ、バラ、バジルなどが栽培されており、ポプラや果樹によって畑が区切られていた。絹の生産が活発化すると、一時はほとんどクワ畑で占められていたという。現在も庭園では林業や農業が行われており、ポプラやヤナギといった樹木や、さまざまな果樹・野菜・豆類が栽培されている。
城塞の南約2km、エヴセル庭園の南端付近に位置するのが全長172mのオンギョズル橋(ディクル橋)だ。「オンギョズル」は「十の目」を意味し、十の尖頭アーチが連なる様から命名された。以前は「シルヴァン橋」と呼ばれており、もともと11のアーチがあったが、中央の4つが流され、水圧を減らすために3つのアーチで再建されたといわれる。橋の碑文にはウマイヤ朝期の1064~65年の建設と記されているが、これを修理の碑文とする説もあり、正確な建築年代は明らかではない。
本遺産はもともと登録基準(i)「人類の創造的傑作」、(ii)「重要な文化交流の跡」、(iii)「文化・文明の稀有な証拠」、(iv)「人類史的に重要な建造物や景観」、(v)「伝統集落や環境利用の顕著な例」で推薦されていた。その後、トルコ政府は(ii)(iv)(v)に絞ったが、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、(ii)についてアナトリアとメソポタミアの間に位置し種々の交流が行われていたのは確かだがそれらは文化的景観によって強く実証されているわけではないとし、(v)について火山や高原・川といった自然要素は貢献はしているが主要素ではなく顕著な普遍的価値は十分に示されていないとして、価値を認めなかった。
ディヤルバクルの城塞とエヴセル庭園に見られる長大な石造の市壁や城門、碑文、庭園や広場、ティグリス川を背景とする景観といった要素はきわめて印象的かつ稀有であり、これらを通じてローマ時代から現在に至るこの地域における多くの重要な歴史的な時代を表現している。
資産は城塞やティグリス川の景観や位置設定をはじめ顕著な普遍的価値を表現するために必要な要素をすべて含んでおり、バッファー・ゾーンも適切に設けられている。市壁はさまざまな時代に損傷し、修復され、拡張されたこと示しており、一部は1930年に取り壊され、過去半世紀以内の保全作業についても計画・実施・記録が不十分であった例も見られる。ただ、それは一部であり、多くは手付かずで伝えられており、保存状態もおおむね良好である。エヴセル庭園の保存状態も十分といえるが、城塞の麓に無許可の居住地や企業が設立されていることや、排水路の閉鎖、水質汚濁、水の流れを変えるティグリス川のダムなどが懸念される。全体的に、本遺産の完全性は市の中心部や、資産とバッファー・ゾーンの周辺地域での開発圧力に対して脆弱である。
城塞と庭園の機能は時代とともに変化したが、何世紀にもわたって存続しており、特に市壁は現在でも歴史都市の中心部を明確に取り囲んでいる。市壁の重要性は容易に視認でき、素材・形状・デザインの確かさを確認することができる。全長5.8kmの多くは旧市街の市壁・城門・城壁塔で構成されており、いずれも真正性が保たれている。また、エヴセル庭園についてもその歴史的・機能的な関係性を保持しており、真正性を満たしている。このように資産の各要素の真正性は明らかだが、修復箇所の真正性を継続的に示すために、修復作業の記録を改善する必要がある。