トロイア(トロイ)はトルコ北西部・マルマラ地方チャナッカレ県のチャナッカレ郊外に位置する古代遺跡で、ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』やウェルギリウスの『アエネイス』などの叙事詩や、そこで描かれたトロイア戦争における「トロイアの木馬」、もっとも美しい女神を決める「パリスの審判」といった伝説、あるいはドイツの実業家ハインリヒ・シュリーマンによるセンセーショナルな発見によって世界でもっとも有名な古代遺跡となった。4,000年の歴史を誇る古代都市で、遺跡は第I市~第IX市(第I層~第IX層)まで9層のテル(遺丘。集落や都市の遺跡が積み重なった丘のような層状遺跡)となっている。なお、世界遺産名には英語表記で「トロイ」が使用されているが、本稿では都市名として「トロイア」を使用する。「イリオス(イリアス)」はトロイアの別名だ。
まず、伝説上のトロイア戦争とシュリーマンの物語を紹介しよう。発端は海の女神テティスと人間ペレウスの結婚にさかのぼる。ふたりの結婚式に呼ばれなかった争いの神エリスは、その腹いせに式場に黄金のリンゴ(不和のリンゴ)を投げ入れる。リンゴには「もっとも美しい女神に捧げる」の文字。これを見た最高神ゼウスの妻で結婚と貞節の女神ヘラ、知恵と戦いの女神アテナ、愛と美の女神アフロディーテの三美神が「自分こそこのリンゴにふさわしい」と名乗り出た。ゼウスはトロイアの王子パリスにリンゴを渡し、その判断を託す。女神たちはパリスにリンゴを要求し、代償としてヘラは世界の支配権、アテナは永遠の勝利、アフロディーテは最高の美女を与えることを約束する。パリスの下した審判は、アフロディーテ。約束通りアフロディーテは絶世の美女ヘレネを贈るが、ヘレネは都市国家スパルタの王メネラオスの王妃。メネラオスは兄であるミケーネの王アガメムノンとともにギリシア連合軍を編成し、トロイアに戦争を仕掛けた。トロイア側にはアフロディーテの他に戦争の神アレス、太陽の神アポロン、月の女神アルテミスらがつき、ギリシア側にはヘラ、アテナに加えて『イリアス』の主人公で半神半人の英雄アキレウス(アキレス)、海神ポセイドンらが加わり、人間と神々が入り乱れて大戦争を繰り広げた。
最終局面で、オデュッセウスが造らせた巨大な木馬を残してギリシア軍はトロイアから撤退する。数々の計略もあってトロイアは勝利を確信し、城門を壊して木馬を城内に引き入れ、戦勝の宴を開く。深夜、木馬に潜んでいたギリシア兵が海上にいた味方に合図を送り、いっせいにトロイアに攻め込んだ。この「木馬の計」により、たったひと晩でトロイアは滅亡したという。
ヨーロッパやアナトリアにはトロイア戦争をはじめ数多くの神話が伝わっている。もっとも有名な古代の神話集がホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』だ。イリアスは「イリオスの詩」、オデュッセイアは「オデュッセウスの詩」という意味で、トロイア戦争末期の様子を描いている。また、ウェルギリウスの『アエネイス』はトロイア戦争を戦ったトロイアの武将アエネイスの戦争後の物語を記している。
幼い頃、こうした物語を読んで感動し、世界のどこかに眠る伝説の都トロイアの発掘を夢見たのがドイツの実業家ハインリヒ・シュリーマンだ。シュリーマンは貿易商として富を築いた後、50歳手前で引退し、私費でトルコに渡って発掘を開始する。そして1870年に開始された発掘でついにトロイアの都市遺跡を発見。出土した黄金の杯・瓶・冠や銅の大釜・斧・剣といった財宝はトロイア王の名を取って「プリアモスの宝」と名付けられた。その後、ギリシアのペロポネソス半島に飛び、トロイア戦争でギリシア連合軍として参戦したミケーネやティリンスの遺跡(世界遺産)をも探し当てた。専門的な知識を持たず、違法あるいは強引に発掘を進めるシュリーマンの手法には非難が寄せられたが、相次ぐ歴史的発見はセンセーショナルに報道された。
トロイアはヒッサリクの丘に位置し、遺跡は丘の上に9層に積み重なるテルとなっている。一般的には青銅器~鉄器時代の遺跡だが、その前後を含めて紀元前3000年頃にはじまる第I市以前を第0市、5世紀に終わる第IX市以降を第X市・第XI市とすることもあり、この立場では10層以上に分類される。
人間の居住の跡は紀元前6000年までさかのぼり、紀元前4000年紀には前期青銅器時代を迎えていた。紀元前3000年頃に城壁が建設されて城郭都市となり、拡張を続けて紀元前2500年頃には直径110mほどに達した(第I市)。伝説では半神半人のトロースという王が町をトロイア、その息子イーロスがイリオスと名付け、ポセイドンとアポロンがゼウスの命で城壁を築いたという。
ヨーロッパとアジアをつなぐダーダネルス海峡が近いこともあって船による海上交易で繁栄し、第II市(紀元前2500~前2200年頃)の時代にトロイアは丘の麓にまで広がって城壁も倍ほどに拡張され、アクロポリス(都市の中心となる丘)には王宮が立っていた。シュリーマンが発見したのはこの第II市だが、トロイア戦争は紀元前13世紀頃と考えられているため1,000年近い差があり、プリアモスの宝もプリアモスに関係したものではないとされている。
トロイアは一時衰退するが、後期青銅器時代の第VI市(紀元前1800~前1300年頃)時代に町は丘全体を覆うほどに拡大し、エーゲ海随一の交易都市に発展した。この層からはギリシア各地のポリスの産品が発掘されており、活発な交易の様子がうかがえる。紀元前1350年頃の大地震によって大きな被害を受けたが、まもなく再興されて第VII市(紀元前1300~前950年頃)へ移行した。
第VII市は人口のほとんどが城壁の内側に移っており、外部の脅威が示唆されている。そして紀元前1250年頃のものと見られる広範囲にわたる火災と破壊の跡があり、一説ではこれがトロイア戦争の跡とされる。交易都市としてライバル関係にあったトロイアとミケーネが戦い、ミケーネが勝利して町を焼き払ったものと考えられている。ここまでが第VIIa市で、まもなく第VIIb市として再興された。第VIIb市は後期青銅時代から鉄器時代の移行期に当たり、次第に文献資料のある歴史時代に入っていく。
第VI市と第VII市を発見したのがシュリーマンとともにトロイアやティリンスの発掘に参加していたドイツの考古学者ヴィルヘルム・デルプフェルトで、シュリーマンと同様にトロイアの存在を強く信じ、彼の死後も遺志を継いで発掘を進めていた。デルプフェルトは出土した城壁の大塔跡が伝説の「イリオスの大塔」であることを確信し、トロイア戦争時代の遺構であることを主張した。現在、ほぼ定説となっているが、シュリーマンが第II市を発掘するために第VI市や第VII市の約1,000年分の遺跡の多くを除去してしまったため(カルバートの千年ギャップ)、決定的な証拠は発見されていない。ただ、ミケーネとの戦いなどによってトロイアは衰退し、紀元前1000年頃に放棄されたと見られる。
第VIII市(紀元前700年~前85年)はヘレニズム時代(紀元前323~前30年)のトロイアで、ギリシア人が入植して建設したものとされる。このためエーゲ海沿岸のポリス(ギリシア都市国家)と文化的に同一で、アテナ神殿などギリシア神話の神殿群が見られる。この時代、アナトリア半島にはさまざまな大国が進出し、アケメネス朝ペルシアやアレクサンドロス帝国(マケドニア王国)、セレウコス朝シリア、共和政ローマなどの支配を受けた。ローマ人はこの都市を伝説の都イリオスと認識し、ローマの母都市イリウム・ノヴム(新トロイア)として免税特権を与えた。しかし、共和政ローマに対する反乱であるミトリダテス戦争中の紀元前85年に共和政ローマのフィンブリアに侵略され、都市は破壊された。
紀元前85年以降が第IX市で、紀元前20年頃からローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスによってローマ都市イリウムとして再興が進められ、アテナ神殿やプロピュライア(前門)、ブーレウテリオン(議場・庁舎)、オデオン(屋内音楽堂)、テルマエ(浴場)などが再建・建設された。395年に東西ローマ帝国が分裂するとビザンツ帝国(東ローマ帝国)の版図に入り、476年に西ローマ帝国が滅亡する。この頃までが第IX市で、以降は重要性を失ってビザンツ帝国(東ローマ時代)の地方都市となり、9世紀頃に放棄された。数世紀後に再興されたが、15世紀以降のオスマン帝国の時代に完全に放棄された。
世界遺産の資産はヒッサリクの丘とその周辺で、ダーダネルス海峡から約5kmの位置にあるが、かつては丘の前に広がる平野の多くが海中にあり、近くに港があった。遺跡は丘と麓からなり、城壁や城門・塔・石畳を中心に数多くの遺構が発見されているが、多くは第II市、第VI市のものだ。
丘の中心を第II市の城壁が取り囲んでおり、内部に王宮と思われる2基のメガロン(ギリシア時代の建築様式で主室と前室をベースとした長方形の平面プランを持つ建物)の遺構がたたずんでいる。城壁内には神殿や住居跡のほか、第I市の城壁や城門の一部も出土している。
東~南~西にかけて第II市の城壁を取り囲むように第VI市の城壁が伸びており、城塞や複数の城門・塔・井戸や、いくつかの建物の跡が発見されている。一部に第VII市の城壁や倉庫跡なども見られる。
第VIII市、第IX市の遺構はこれらの上に位置し、第II市や第VI市のレイアウトとは無関係に築かれている。北東にアテナ=イリオスの聖域が広がっており、二重の石壁に囲われた内部にアテナ神殿が収められている。その南がアゴラ(公共広場)で、ブーレウテリオン、オデオン、テルマエなどが点在している。
こうした丘の麓には古代の集落跡や墓地、ヘレニズム時代の墳墓、ギリシア・ローマ時代の集落跡、ビザンツ・オスマン時代の遺構、第1次世界大戦の戦場跡といった多彩な考古学的・歴史的遺構が積み重なっている。
本遺産は特にその初期段階についてヨーロッパ文明の発展を理解するうえできわめて重要である。3,000年以上にわたって途切れることなく続いた定住の様子が記録されており、文明の継承を証明している。トロイアはアナトリア、エーゲ海、バルカン半島の3つの文化が交差する場所に位置してその関係性を物語っており、重大な役割を果たしつづけている。
本遺産は4,000年以上にわたってこの地を支配したさまざまな文明の証である。第II市と第VI市はエーゲ海における古代オリエント都市の特徴的な例であり、城郭都市の内部高所に宮殿や行政庁舎を含む要塞化された壮大な城塞を内包している。いくつかのモニュメントや遺跡はギリシアやローマの植民都市の特徴を反映しており、他の一部はオスマン帝国時代の入植地跡となっている。
本遺産はホメロスの『イリアス』やウェルギリウスの『アエネイス』をはじめとする重要な文学作品に多大な影響を与えた文化的に際立って重要な意味を持つ遺跡であり、2,000年以上にわたって芸術全般に刺激を与えつづけた。
資産には顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素が含まれている。青銅器時代の都市として、城塞・宮殿・行政庁舎といった建造物の遺構を含む考古遺跡は歴史的にきわめて重大な情報を提供している。ギリシア・ローマ時代の建造物としては、アゴラの端にあるふたつの公共建築(ブーレウテリオンとオデオン)がほぼ完全な状態で伝えられている。遺跡は国の文化財の保護に関する法律で保護されており、1996年には周辺の景観とともにトロイア国立歴史公園に指定されている。
遺跡はほとんど復元されておれず、真正性は高いレベルで維持されている。城壁で行われた修復についてはヴェネツィア憲章におけるアナスティローシスの原則に厳密に基づいて行われた。周辺の景観についても観光開発などの影響を受けておらず、先史時代から今世紀に至るまでの有機的な発展の様子を示しており、真正性は保たれている。