ケルンはドイツ西部ノルトライン=ヴェストファーレン州の都市で、ローマ時代から司教座が置かれてケルン司教、ケルン大司教が一帯を支配した。ケルン司教や大司教の拠点がケルン大聖堂、正式にはザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂(聖ペトロ・マリア大聖堂)で、現在の建物は1248年に建設がはじまり、1880年にようやく完成した。世界最大のゴシック建築であり、ドイツを象徴する大聖堂である。なお、本遺産は2004~06年まで危機遺産リストに搭載されていた。理由はライン川の対岸で進行中だった高層ビル・プロジェクトで、世界遺産委員会はスカイライン(山々や木々などの自然や建造物が空に描く輪郭線)を破壊し世界遺産の視覚的完全性を損なうものであるとし、設けられていなかったバッファー・ゾーンの設定を強く要請した。ケルン市がプロジェクトを中止し、周辺に高さ制限などの規制を敷いたことから2006年に解除された。また、バッファー・ゾーンは2008年の軽微な変更で設定された。
ローマ時代、現在のドイツ、デンマーク、ポーランド、チェコ、スロバキア周辺の土地は「ゲルマニア」と呼ばれた。紀元前55~後16年ほどに共和政ローマあるいはローマ帝国(紀元前27年以降)が征服し、ケルンの地は「オッピドゥム・ウビオルム」と呼ばれて軍事拠点となった。この地で生まれた皇帝クラウディウスの皇妃アグリッピナにちなんで50年頃に「コロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネシウム(コロニア・アグリッピネンシス)」と呼ばれる植民都市となり、ローマ帝国の拠点都市となった。「ケルン」の名は「コロニア」のドイツ語読み「コルン」に由来し、英語の "colony" と同様、植民地を意味する。やがてローマ属州・下ゲルマニアの州都となり、国境を形成するライン川沿いにはリメスと呼ばれる防塞システムが敷かれ、要塞や砦・城壁・堀・堡塁・橋頭堡・望楼などが築かれた。ケルンのリメスの遺跡の一部は世界遺産「ローマ帝国の国境線-下ゲルマニア・リメス(オランダ/ドイツ共通)」に登録されている。
ローマ帝国がたびたびキリスト教を弾圧する中で、キリスト教徒たちは市壁近くの私邸に集まって礼拝を行っていたという。コンスタンティヌス1世が313年にミラノ勅令を発してキリスト教を公認すると、ケルンに司教座が置かれてケルン司教区が成立した。まもなく私邸の場所に教会堂が建設され、少なくとも6世紀までには教会堂を中心とした教会コンプレックスが成立した。これがケルン大聖堂の最初の姿だ。
476年に西ローマ帝国が滅亡するが、フランク王であるカール大帝は800年にローマ教皇レオ3世からローマ帝国の帝冠を授かってローマ皇帝となった(カールの戴冠)。カール大帝はキリスト教の宣教に尽力し、各地に教会堂や修道院を建設したが、大帝のアドバイザーだったケルン大司教ヒルデボルド(ケルン司教区は795年に大司教区に昇格した)が建設を指示した2代目の大聖堂が870年に奉献された。側廊(身廊の左右の通路)だけで約95mを誇るロマネスク様式の巨大な教会堂は「ヒルデボルド大聖堂」と呼ばれ、「ドイツのすべての教会堂の母であり主人である」と讃えられた。12世紀後半には神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサがイタリア遠征の戦利品としてミラノから持ち帰った東方三博士(イエス聖誕の際に聖母マリアとイエスを見舞った三賢者)の遺骨を聖遺物として大聖堂に寄進した。これにより大聖堂は人気の巡礼地となり、ガリア(イタリア北部からフランス、スイス、ベルギーに至る地域)を代表する教会堂のひとつとなった。
巡礼者が増えたため手狭になり、また東方三博士の聖遺物とドイツ王戴冠式(ドイツ王の戴冠はケルン大司教が行い、その後に教皇による皇帝戴冠を経て神聖ローマ皇帝として認められた)の場としてふさわしい教会堂にするために13世紀前半に大聖堂の改築が決定した。当初はロマネスク様式の構造を残して増築する予定だったが、1248年に火災で多くが焼失したため新たに再建されることになった。フランスで開発されたゴシック様式を採用してどこよりも大きく高い大聖堂を目指し、フランスの職人であるマイスター・ゲルハルトの指揮下で同年に建設が開始された。ゲルハルトはフランスのアミアン大聖堂(アミアンのノートル=ダム大聖堂。世界遺産)を中心にブールジュ大聖堂(世界遺産)やサン=ドニ大聖堂などを参考により独創的な教会堂をデザインし、フランスにはない巨大なスパイア(尖塔)や高いアプス(後陣)を設計した。
14世紀はじめには東のアプスの多くが完成し、ステンドグラスがはめられ、主祭壇が奉献された。同世紀中に西ファサード(ファサードは正面)のウェストワーク(ドイツ語でヴェストヴェルク。教会堂の顔となる西側の特別な構造物。西構え)の建設がはじまり、15世紀はじめには南塔の建設が高さ59mに達した。この後もトランセプト(ラテン十字形の短軸部分)や身廊・側廊の建設が進められたが、300年を経た16世紀半ばになっても完成には至らなかった。その後、資金繰りが急速に悪化して1520年代に多くが中止され、1560年までに建設は完全に停止した。この時代、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世は宿敵フランス・ヴァロワ家とイタリア戦争(1494~1559年)を戦っており、1529年にはイスラム教勢力であるオスマン帝国に帝都ウィーン(世界遺産)を包囲され(第1次ウィーン包囲)、国内ではルター派を掲げるプロテスタント諸侯とシュマルカルデン戦争(1546~47年)を戦っていた。度重なる戦争で疲弊し、また宗教改革を経てドイツ諸侯の多くがローマ・カトリックからプロテスタントに改宗し、寄進も大幅に減少した。しかも時代はゴシックからルネサンスに移行しており、すでに時代遅れのスタイルでしかなかった。結局、以降約300年にわたって工事は中断されたままとなった。
1794年にナポレオン率いるフランス軍がケルンを占領し、未完成の大聖堂を倉庫や馬小屋として利用した。聖遺物などの貴重な品物は退避させていたが、それでも多くの装飾品や建材が略奪・破壊された。1804年に皇帝となったナポレオン1世は1806年にドイツにライン同盟を結成し、神聖ローマ帝国は消滅した。1815年にはライン同盟に替わって35の君主国と4つの帝国自由都市(諸侯や大司教・司教の支配を受けず神聖ローマ帝国の下で一定の自治を認められた都市)からなるドイツ連邦が成立。しかし、小国群ではイギリスやフランスといった大国には対抗できず、ドイツとしてひとつにまとまる必要に迫られた。1834年にはプロイセン王国を中心にドイツ関税同盟=ツォルフェラインが成立して経済統合が実現した。
ナポレオン戦争以降、ドイツのナショナリズムが高揚する中で、ドイツの象徴としてケルン大聖堂が注目を集めた。また、18~19世紀のイギリスで歴史主義様式(中世以降のスタイルを復興した様式)のブームの中でゴシック様式の再興の動きが活発化し、ドイツにゴシック・リバイバル様式がもたらされた。ゴシック様式はドイツ伝統の建築様式と考えられており、建築家らが制作した大聖堂の完成模型に大きな支持が集まった。プロイセンの商人や建築家らを中心に再建の動きが高まり、1823年に建築家フリードリヒ・アドルフ・アーラートによって再建が開始された。本格的に再建がはじまったのは1842年で、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が再建の礎石を置き、カルル・フリードリヒ・シンケル、エルンスト・フリードリヒ・ツヴィルナー、リヒャルト・フォークテルらドイツが誇る数多くの建築家が参加した。
1870~71年に起こったプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)に勝利してナポレオン戦争の復讐を果たすと、プロイセン軍はパリを占領し、ヴェルサイユ宮殿(世界遺産)でプロイセン王ヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式を行った。これによりドイツ帝国が誕生し、ドイツ統一が実現した。大聖堂は建設開始から632年と2か月を経た1880年についに完成し、ヴィルヘルム1世が出席して完成の式典を執り行った。ケルン大聖堂はまさにドイツ統一の象徴となった。
第2次世界大戦では連合軍による空襲で14発以上の激しい爆撃にさらされ、70回を超える攻撃を受けた。ほとんどの窓ガラスが破壊され、身廊の天井が崩されたが、聖遺物や中世のステンドグラスは外して別の場所に保管されていたため難を逃れた。100周年の1948年までにアプスやトランセプトが修復され、1956年までに修復が完了した。
ケルン大聖堂はラテン十字形・五廊式(身廊と4つの側廊を持つ様式)の教会堂で、平面144.38×86.25m、身廊の高さ43.38m、ウェストワークのスパイアは高さ157.38mを誇る。このサイズはゴシック様式の教会堂としては当時世界最大・最高を誇ったが、鐘楼の高さについては1890年に完成したウルム大聖堂の161.53mに抜かれている。ウェストワークは世界最大級の教会ファサードで、ふたつのスパイアの南塔は15世紀、北塔は19世紀に建設され、装飾はゴシック様式に加えてゴシック・リバイバル様式でアレンジされている。北ファサードは14世紀に建設がはじまり19世紀に完成した折衷主義様式(特定の様式にこだわらず複数の歴史的様式を混在させた19~20世紀の様式)で、南ファサードは19世紀に建設されたゴシック・リバイバル様式の傑作となっている。特徴的なのは13世紀に築かれた東端のアプスで、内部に主祭壇とクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)を持ち、周囲はフランスで「シュヴェ」と呼ばれる放射状祭室が取り巻いていて、7つの祭室のそれぞれに礼拝堂が設けられている。クワイヤやシェヴェ自体はフランスでも見られるが、これほどの高さを持つアプスは類を見ない。
ケルン大聖堂の驚異的な高さはゴシック建築の柱梁構造によるもので、天井の「×」形の交差四分のリブ・ヴォールトや先の尖った尖頭アーチなどによって天井の重さを柱で受けることで壁を取り払って軽くて高い構造を可能にした。ただ、アーチは横に開いて崩壊しようとするスラストと呼ばれる水平力を生むため、フライング・バットレス(飛び梁)と呼ばれるアーチ状の支えで対処した。尖頭アーチ、交差リブ・ヴォールト、フライング・バットレスはゴシック建築の3大要素と呼ばれている。
重さを柱で受けることで壁は不用となり、その空間にステンドグラスがはめ込まれた。身廊やアプスは木漏れ日のようにさまざまな色がたゆたう空間となり、「色でできた教会」と讃えられた。アプスや放射状祭室には13~14世紀のステンドグラスが数多く残されている一方で、19世紀にバイエルン王ルートヴィヒ1世が寄進した「バイエルン窓」やヨハネス・クラインやゲルハルト・リヒターといった19~20世紀の名作家による近現代の傑作まで、時代やスタイルの異なる数多くの作品を見ることができる。
アプスの主祭壇には13世紀に築かれた黒大理石の祭壇上に「ドライクーニゲンシュライン」と呼ばれる東方三博士の聖遺物を収めた黄金の聖櫃(せいひつ。聖なる箱)が置かれている。聖櫃に加え、10世紀以前の制作とされる高さ2.88mの「ゲロクロス」と呼ばれるイエスの木造十字架像と、「ミラノのマドンナ」と呼ばれる聖母マリア像が3大宝物とされる。これ以外にも放射状祭室のそれぞれの礼拝堂の彫刻や絵画、クワイヤ・スクリーン(内陣であるクワイヤと外陣である身廊を仕切る聖障。ルード・スクリーン/チャンセル・スクリーン)の彫刻群、各ファサード上部のティンパヌム(タンパン。リンテルを飾る壁面装飾)やアーキヴォールト(飾り迫縁。尖頭アーチに刻まれた装飾)の彫刻やレリーフ、パイプオルガンをはじめ、大聖堂は数多くの芸術作品であふれている。
ケルン大聖堂は人類の創造的な才能を示す卓越した作品である。
ケルン大聖堂は6世紀以上にわたって建設が続けられた大聖堂建築の頂点を示す建造物であると同時に、その集大成である。
ケルン大聖堂は中世および現代のヨーロッパにおけるキリスト教信仰の力強さと持続性の強力な証である。
資産は顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を含み、サイズも適切である。ゴシック建築の傑作であり、その意義を伝えるためのすべての特徴と構造を含んでいる。
ケルン大聖堂はもともとの周辺景観を失ったが、19世紀から20世紀にかけて周囲に新たな都市アンサンブルが形成され、ヴァルラフ・リヒャルツ美術館の建設が最後の要素となった。ケルン大聖堂の形状とデザイン、用途と機能は何世紀にもわたって変わらず伝えられており、13世紀から19世紀までのすべての工事はオリジナルのデザインを徹底的に尊重して行われ、この伝統は第2次世界大戦後の修復にも引き継がれている。この点でケルン大聖堂はスイ・ジェネリス(独自のもの)と考えることができ、その真正性は絶対的といえる。