コルヴァイ修道院はドイツ中北部ノルトライン=ヴェストファーレン州の都市ヘクスターに位置し、815年頃にフランク王でローマ皇帝でもあったルートヴィヒ1世(ルイ1世/ルイ敬虔王)によって創設された。現存する建物の多くは12世紀以降にロマネスク様式やバロック様式で再建・改修されたものだが、旧修道院教会のウェストワーク(ドイツ語でヴェストヴェルク。教会堂の顔となる西側の特別な構造物。西構え)は9世紀のフランク王国カロリング朝期の建築がいまに伝えられている。
8世紀、イスラム教国であるウマイヤ朝(イスラム帝国)がアジアからアフリカにかけて大帝国を建国し、東西からヨーロッパのキリスト教諸国に大きな圧力を掛けた。711年にイベリア半島に進出し、ヨーロッパ侵略を目指してピレネー山脈を越えるが、732年にフランク王国の宮宰カール・マルテルにトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れて阻止された。フランク王国はキリスト教諸国の救世主として立場を固め、751年にはカール・マルテルの息子ピピン3世(小ピピン)が王位に就いてカロリング朝がはじまった。
ピピン3世は当時イタリアを支配していたランゴバルド王国を攻撃。その息子カールは774年にこれを滅ぼし、領土の一部を教皇に寄進した。こうした貢献に対し、教皇レオ3世はカール(以下、カール大帝)にローマ帝国の帝冠を授けてローマ皇帝を復活させた。キリスト教世界の盟主となったカール大帝はキリスト教の宣教や修道院・教会堂の建設、聖書・古典文学の写本やコデックス(冊子写本)の製作、ラテン語の普及などに貢献し、キリスト教文化や宮廷文化の興隆を招いた。いわゆる「カロリング・ルネサンス」だ。
この頃、フランク人の支配エリアの東にザクセン人が進出していたが、カール大帝がこれを征服してキリスト教化を進めた。815年頃、大帝の三男ルートヴィヒ1世の承認を受けてヘディスという町にザクセン初の修道院であるベネディクト会のノヴァ・コルビ修道院が建設された。822年にコルヴァイ城のある現在の場所に移転し、コルヴァイ修道院となった。翌年、ルートヴィヒ1世がエルサレム(世界遺産)で殉教した聖ステファヌス(聖ステファノ)の聖遺物と領地を譲渡し、836年にはフランスのサン=ドニ大聖堂からローマ帝国の迫害を受けて殉教したルカニアの聖ヴィトゥスの聖遺物が寄贈された。以来、聖ヴィトゥスはザクセン人の守護聖人となっている。
こうしてコルヴァイ修道院はザクセン最大の巡礼地となり、カロリング朝によって税の免除や市場・採掘・造幣の権利をはじめさまざまな特権を与えられ、またザクセン人の貴族から多くの財産を寄贈・譲渡されたことでドイツでもっとも裕福な修道院となった。修道院はザクセンにおける文化的・宗教的中心地となり、周辺にはコルヴァイとヘクスターというふたつの修道院城下町が発達した。修道院はこの時代、ふたつの町に加えてメッペンなど数多くの修道院領を保有し、最盛期には60以上の修道院や教会堂を従えていた。
フランク王国は843年のヴェルダン条約で東・中部・西フランク王国の3か国に分裂し、855年のプリュム条約で中部フランク王国はロタリンギア、プロヴァンス、イタリアに分割され、870年のメルセン条約でロタリンギアとプロヴァンスは東西フランク王国に吸収された。東フランク王国ザクセン朝の第2代国王オットー1世(オットー大帝)は962年に教皇ヨハネス12世からローマ皇帝の帝冠を授かってローマ皇帝となり、神聖ローマ帝国が誕生した(オットーの戴冠)。ザクセン朝の繁栄を受けてコルヴァイは10~12世紀にかけてさらに発展した。修道院図書館では写本やコデックスの製作が活発化し、タキトゥス『年代記』やカール大帝のザクセン法典『レクス・ザクソヌム』、ザクセン叙事詩『ヘーリアント』などが製作された。これに伴って多くの聖職者や学者・芸術家がコルヴァイに集った。
11世紀に入るとドイツでは聖職者の任命権(聖職叙任権)や課税を巡って教皇と神聖ローマ皇帝の対立が激化し、諸侯や都市も教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)に分かれて争った。また、修道院領を持ち、封建領主として振る舞う修道院への反発が高まり、修道院改革運動が進められた。コルヴァイも教皇派と皇帝派の争いに巻き込まれ、修道院の改革が進められた。たとえば皇帝ハインリヒ4世や5世は選挙を無視して修道院長を任命して介入し、一方教皇も司教を派遣して司教区の支配を強化した。聖職叙任権闘争は皇帝ハインリヒ5世と教皇カリストゥス2世の間で結ばれたヴォルムス協約によって、皇帝が権利を放棄する形で一応の決着を見た。これにより皇帝の権威は失墜し、ザクセン公国(1296年からザクセン=ヴィッテンベルク、1356年からザクセン選帝侯領)の独立が進んだ。
ザクセン公のような諸侯やケルン大司教のような聖界諸侯が力を増す中で修道院の影響力は減りつづけ、修道院領の多くが没収された。12~13世紀、神聖ローマ皇帝の座をホーエンシュタウフェン家が占めるホーエンシュタウフェン朝の時代になるとドイツの中心は南へ移動し、コルヴァイの地理的重要性が減って都市としても衰退した。1265年にはパーダーボルン司教とヘクスターの市民がコルヴァイに攻め込んで町を破壊した。これでコルヴァイの中心部にあたる修道院周辺のコミュニティ=キヴィタス・コルヴァイは放棄され、二度とその繁栄を取り戻すことはなかった。1355年には聖ヴィトゥスの聖遺物がボヘミア・プラハの聖ヴィート大聖堂(世界遺産)に流出。1618~48年の三十年戦争とその後の混乱で修道院教会や図書館がほぼ全壊するなど大きな被害を受けた。1792年に修道院は廃院となり、マインツ大司教の下でコルヴァイ司教領を形成したが、これも1803年に廃止された。その後、ホーエンローエ家やラティボール家の私有地となってコルヴァイ宮殿として整備され、旧修道院教会については聖ステファヌス・ヴィトゥス教会に委譲された。
世界遺産の資産は旧修道院の建造物群で、旧修道院教会を中心に関連の修道院施設と遺跡などが含まれている。
資産の中心は旧修道院教会のウェストワークだ。教会堂は一般的に東に主祭壇、西にメイン・エントランスを設けるが、教会堂の顔となる西ファサード(正面)に設けられた大型の構造物をウェストワークという。中世初期にフランク王国で異教の宗教建築を参考に開発されたといわれ、ドイツやフランスで発達した。このウェストワークは873~885年の建設で、1145~59年に修道院長ヴィバルトが中央にあった塔を撤去して2基の双塔を再建し、現在見られる形に改築した。ウェストワークの下部に見られる小さな赤い石を主体とした部分がカロリング朝期のもので、ロッジア(柱廊装飾)が見られる上部が12世紀、屋根は16世紀に建設されている。内部は3層構造で、1階はコリント式の柱が立ち並ぶ正方形の柱廊、2階は聖ジョンのクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)と呼ばれる至聖所、3階はホールで、特に2階が非常に広く高く取られている。壁面の一部には怪物スキュラと戦う英雄オデュッセウスをはじめギリシア神話の場面を描いた壁画や種々の装飾が残されている。
旧修道院教会は822年に起工され、844年に奉献された。しかし、ウェストワークを除いて三十年戦争とその後の混乱で破壊され、1667年にバロック様式で建て直された。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の教会堂で、尖頭アーチやステンドグラスなどゴシック様式が取り入れられている。建築はシンプルだが装飾はバロックらしく豪華で、数多くの彫刻やレリーフ・絵画で飾られている。地下にはカロリング朝期の教会堂の遺構が残されており、貴重な考古学的史料となっている。現在は聖ステファヌス・ヴィトゥス教会として活動を続けている。
カロリング朝期の修道院施設は残っていないが、堀や壁・井戸・墓地・住居の遺構が発見されている。現存する建物の多くは18世紀にバロック様式や新古典主義様式で再建されたものだ。旧修道院教会の北に広がる「日」形の建物が旧修道院の主要施設で、廃院された後はコルヴァイ宮殿として整備された。内部には、歴代の修道院長の肖像が並ぶ修道院長のギャラリー、皇帝の肖像やメダリオン(メダル状の装飾)で飾られたカイザー・ホール、天井画や絵画などバロック装飾で彩られたサマー・ホールをはじめ、バロック・ホール、王子のサロン、図書館をはじめ数多くの部屋がある。これ以外の施設としては、バロック様式の門、時計塔、マリエン礼拝堂、レミセ(倉庫)などが挙げられる。
本遺産はザクセンにおける文化・宗教の中心地として登録基準(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていたが、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は貴重な足跡を残した図書館をはじめ中世の建造物がほとんど現存しておらず、顕著な普遍的価値は証明されていないとした。
コルヴァイの旧修道院には唯一のカロリング朝期のウェストワークが伝えられており、ほぼ完全な形で保全されている。三方を回廊で囲まれた2階の中央ホール(聖ジョンのクワイヤ)は古代の様式に則っており、形状と芸術的な装飾がオリジナルのまま引き継がれている。また、1階の玄関ホールのアーチなどにも古代の建築様式を見ることができる。このウェストワークはロマネスクとゴシックの時代の教会建築の技術的・形態的発展の基礎をなし、バロックの時代に再解釈されるなど教会建築史に多大な影響を与えた。
ウェストワークの上層階の主室は典礼的な目的とステータスの高い用途に使用されていた。また、修道院と周辺のエリアは遅くとも940年には要塞化され、神学校や図書館、巡礼者のための休憩所、客や使用人のための住居、職人の工場や作業場などを備え、カロリング朝の時代にすでに宗教的・文化的・経済的な中心地としての役割を果たしていた。フランク王国の片隅で起こったカロリング朝下の政治的・文化的興隆はこれらの建造物群の中でたしかに顕在化した。
旧修道院教会のウェストワークはカロリング朝の建築と修道院文化の卓越した証拠であり、宗教的あるいは聖職に関する表現であるだけでなく、主権を確保して国家を発展させるための手段でもあった。要塞化されたかつての修道院と、その周辺でカロリング朝期の集落から発達した町の遺跡は中世の政治的・文化的・経済的な生活を伝える際立った考古学的史料である。
建築的に保全されているウェストワークと、考古学的モニュメントとして保護された要塞修道院地区は、場所的にも一般的な文脈的にも明確でわかりやすいものとなっている。修道院コンプレックスは元のサイズのままで保存されており、変わらず周囲の自然環境に溶け込んでいる。バロック様式の修道院コンプレックスは何世紀にもわたってこの地で継続しており、その宗教的機能で地域に貢献してきた。教会堂は17世紀に破壊されたが、バロック様式の教会堂の再建により、現在に至るまでウェストワークの宗教的機能は維持されている。
修道院の外では13世紀に放棄された要塞集落の遺跡が発掘されており、集落の発達に関してコルヴァイ修道院が果たした重要な役割についての理解を深めている。現在も維持されている田園風景は資産の重要性を理解・評価するために適切な環境を構成している。
ヴェーザー川沿いにたたずむコルヴァイ修道院の旧修道院教会ウェストワークはカロリング朝期の形状とデザインを保ち、ほとんどオリジナルの素材と原料のまま維持された稀有な建造物のひとつである。他に類を見ない構造で、双塔を持つそのファサードはカロリング朝の文化の崇高な姿をいまも鮮明に伝えている。ウェストワーク内部の至聖所に描かれた壁画は古代の神聖な図像の要素を統合した唯一の例で、この種の壁画の信頼できるただひとつの史料であり、カロリング朝期の漆喰天井画について他に例のない知見を提供している。赤褐色の顔料であるシノピアで描かれた背景画やスタッコ(化粧漆喰)の断片はアルプス以北におけるカロリング朝期の大規模装飾のもっとも重要な証拠であり、この時代の装飾システムにおける壁画と彫刻の概念と統合を示すもっとも説得力のある証拠となっている。
要塞修道院のエリアはカロリング朝期の大規模な修道院と関連の住居や作業場・墓地・礼拝堂といった建造物の遺構が後の時代の破壊や改変を受けずに保存されており、考古学的に非常に価値のある遺跡となっている。これは中世後期に廃墟となった集落跡も同様で、13世紀まで町として発達した後で放棄され、遺跡として修道院の周囲の地下に保存された。後の時代の開発などによる破壊を受けていないため、都市の当時の様子を考古学的に追跡することができる。