シュパイアー大聖堂、正式名称・聖マリア=聖ステファン大聖堂はドイツ西部ラインラント地方の都市シュパイアーに位置するロマネスク様式を代表する教会堂だ。建設された11世紀当時としてはヨーロッパ最大の教会建築であり、アーチやヴォールトを駆使して築いた石造天井を持つ中世ヨーロッパ最初期の教会堂でもある。創設以来約300年にわたって神聖ローマ皇帝の埋葬地としてありつづけ、ドイツ王(実質的に神聖ローマ皇帝)戴冠の場であるアーヘン大聖堂(世界遺産)と並んで「皇帝の大聖堂」の異名を取った。
11世紀はじめ、コンラート2世はドイツやイタリア、ブルグントといった国々の王位に就き、1027年には神聖ローマ皇帝に即位して西ヨーロッパ最大の権力者となった。ヨーロッパ最大の教会堂を目指して1024年にシュパイアー大聖堂の建設を開始したが、1039年に志半ばで亡くなり、建設中の大聖堂に埋葬された。皇帝位を引き継いだ息子ハインリヒ3世が建設を続け、さらにその息子ハインリヒ4世の時代の1061年に完成して奉献された。
ハインリヒ3世・4世は王権の強化に努めたが、神聖ローマ皇帝は諸侯と教皇による支持あってのもので、基盤は盤石とは言いがたかった。聖職者の任命権(聖職叙任権)を巡って教皇と対立したハインリヒ4世は1076年に教皇グレゴリウス7世に破門され、これに乗じてドイツ諸侯が帝位の廃止を求めたためその座が危うくなったハインリヒ4世は1077年、イタリアのカノッサで教皇に謝罪した(カノッサの屈辱)。破門を解かれたハインリヒ4世はローマ(世界遺産)に進軍して教皇庁を包囲し、グレゴリウス7世を追放して対立教皇クレメンス3世を擁立した。
ふたたび権力を手中にしたハインリヒ4世は1090年頃、大聖堂を拡張するために身廊の天井や内陣のある東側を取り壊し、東塔をより高くして同規模の西塔を建造するなど大幅な増改築を行った。これにより身廊は5m高くなり、木製天井は石造の半円アーチと交差ヴォールト(アーチを並べた筒型ヴォールトを交差させた「×」形のヴォールト)の天井に置き換えられた。1106年に大聖堂は竣工を迎え、現在見られる大聖堂とほぼ同じ形状で、当時としてはヨーロッパ最大となる教会堂が完成した。これは政治的権力に加えて皇帝の宗教的権力を主張するものであり、教皇を牽制するものでもあった。同年にハインリヒ4世は亡くなり、大聖堂に埋葬された。コンラート2世以降、シュパイアー大聖堂は皇帝の埋葬地となり、1308年に死去したアルブレヒト1世まで8人の神聖ローマ皇帝とドイツ王、その王妃、司教らが埋葬された。
フランスとアウクスブルク同盟(神聖ローマ帝国、オランダ、スウェーデン、スペイン等)の間で争われたプファルツ戦争(1688~97年、大同盟戦争)でフランス王ルイ14世は1689年にシュパイアーを占領し、町を焼き払った。この影響で司教宮殿は焼失し、シュパイアー大聖堂も大きな被害を受け、特に身廊の西側はほとんど焼け落ちた。資金不足のためすぐには修復に入れず、再建は1772年からバロック建築家バルタザール・ノイマンの息子フランツ・ノイマンの監督で行われた。身廊は元通りに復元され、教会堂の顔となる西ファサード(正面)についてはバロック様式に改められた。
しかし、修復完了まもない1794年にナポレオン率いるフランス軍が侵入し、シュパイアー大聖堂を攻撃・奪取した後、倉庫や病院として使用した。フランスはレンガを転用するために大聖堂の解体を決定したが、司教やシュパイアー市議会が拒否し、ナポレオンが解体の撤回に同意した。ナポレオン失脚後に開催された1814~15年のウィーン会議の結果、シュパイアーはバイエルン王国の版図に入った。バイエルン王ルートヴィヒ1世と息子マクシミリアン2世は大聖堂の修復を進め、中世のロマネスク様式のデザインを忠実に復元した。西ファサードについてはバロック様式の構造を撤去し、ドイツ歴史主義(歴史主義は中世以降のスタイルを復興した様式)の建築家ハインリヒ・ヒュプシュによってウェストワーク(ドイツ語でヴェストヴェルク。教会堂の顔となる西側の特別な構造物。西構え)としてロマネスク・リバイバル(ネオ・ロマネスク)様式のナルテックス(拝廊)が取り付けられた。内装についてもロマネスク様式を復活させるだけでなく、身廊の柱間にドイツ・ロマン派の画家ヨハン・フォン・シュラウドルフとヨゼフ・シュワルツマンによるナザレ派のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)が配された。この修復を経てロマネスク様式の教会堂が再興され、現在の姿が完成した。
シュパイアー大聖堂は「†」形のラテン十字形・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)のロマネスク様式の教会堂で、平面134×55.36m・身廊の高さ33mを誇る。東に高さ71.2mの2基の東塔と、十字の交差部にドームを冠した高さ46.4mのクロッシング塔を有し、西には高さ65.6mの2基の西塔と、西端に高さ53.6mの八角形ドームを冠したロマネスク・リバイバル様式のウェストワークを備えている。このように東西にほぼ対称に塔やドームを配するスタイルはラインラント地方特有のデザインだ。また、身廊やアプス、ウェストワークの上部をぐるりと飾る柱廊装飾=ドワーフ・ギャラリーも独特で、周囲を囲むドワーフ・ギャラリーはシュパイアー大聖堂からはじまった。
内部について、身廊の天井には半円アーチと交差ヴォールトが連なっており、ローマ時代以降、ほとんど見られなくなっていた巨大な石造天井を回復した。柱やアーチには黄色い砂岩と赤砂岩を交互に並べたポリクロミア(縞模様)が見られ、身廊の柱間にはナザレ派のフレスコ画が掲げられている。交差廊はクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)で、両翼の翼廊には小さな祭壇が設けられており、アプス(後陣)にはシンプルながら荘厳な内陣が広がっている。また、北には聖アフラ礼拝堂、南には聖エメラムと聖カタリナに捧げられた二重礼拝堂が隣接している。特徴的なのはトランセプト(ラテン十字形の短軸部分)とアプスの地下に広がるクリプト(地下聖堂)で、ロマネスク様式の教会堂のクリプトとしてはヨーロッパ最大を誇る。クリプトはアーチやヴォールト、柱が連なる神秘的な空間で、皇帝や司教らの石棺が収められている。
シュパイアー大聖堂は11~12世紀のロマネスク建築の発展に多大な影響を与えただけでなく、18世紀から現在に至るドイツ、ヨーロッパ、そして世界の修復原則の発展にも大きく寄与した。
身廊西側の7つのベイ(柱間)とウェストワークを除けば中世の構造がほぼオリジナルのまま維持されている。1689年の火事の後、1772~78年にかけて身廊の7つのベイが再建されたが、こちらもオリジナルの構造を忠実に再現している。ウェストワークは中世と18世紀後半の構造に替わって1854~58年に増築されたものだ。1957~72年に行われた包括的な修復キャンペーンではバロックの時代と19世紀に行われた改築や増築部分が撤去され、中世のロマネスク様式の構造が再構築された。
シュパイアー大聖堂はヨーロッパでもっとも重要なロマネスク様式の教会堂のひとつである。形状・デザイン・機能・目的といった点で真正性は保持されており、いまなおその本質を忠実に表現している。また、大聖堂における修復の歴史と手法は修復技術の進化の過程を記録している。