ドイツ東部の都市ポツダムとベルリンはそれぞれブランデンブルク州・ベルリン州の都市で隣接しており、隣接地にはハーフェル川が流れ、ユンガフェルン湖やグリーニッケ湖といった湖沼や森林が広がる風光明媚な景観が広がっている。一帯はサンスーシ宮殿や大理石宮殿、ツェツィーリエンホーフ宮殿をはじめ1730~1916年の2世紀弱の間にプロイセン王国のホーエンツォレルン家によって築かれた150以上の宮殿・庭園・公園・施設が点在する宮殿コンプレックスとなっている。
なお、本遺産は1990年にまずサンスーシ宮殿・庭園・庭園エントランス 、ノイアー庭園(新庭園)、ツェツィーリエンホーフ宮殿、大理石宮殿、バーベルスベルク宮殿・庭園・エントランス、バーベルスベルクの天文台、グリーニケ宮殿と庭園、ニコルスコエ、ファウエン島(孔雀島)、ベトヒャーベルク山、グリーニケ狩猟館が登録された。1992年の拡大でザクローの宮殿と庭園、ザクローの救世主教会が追加され、さらに1999年の拡大でリンデンアレー(菩提樹の並木道)、旧造園学校、リントシュテットの宮殿と庭園、ボルンシュテット、ゼーコッペル、ヴォルテールの道、アレクサンドロフカ、プフィングストベルク、プフィングストベルクとノイアー庭園の間の地、ユンガフェルン湖南岸、ケーニヒスヴァルト(王の森)に拡大された。構成要素は多いがひと続きであるため構成資産は1件となっている。また、宮殿はベルリン=ポツダム市境付近のものに限られており、ベルリン中心部のベルリン王宮やシャルロッテンブルク宮殿、ポツダム中心部のポツダム宮殿などは含まれていない。
プロイセンの歴史はホーエンツォレルン家の歴史でもある。ホーエンツォレルン家は1415年に神聖ローマ皇帝ジギスムントから伯爵位を得て選帝侯(ドイツ王選出権を持つ諸侯。ドイツ王が教皇の承認を経て皇帝となった)としてブランデンブルク辺境伯領の領主となり、ブランデンブルクからベルリンに遷都してベルリン王宮を居城とした。一方、分家のアルブレヒトは1510年にドイツ騎士団総長に就任するが、1525年に騎士団を返上してポーランドの下にプロイセン公国を建国する。1618年にブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがプロイセン公を兼ねることで同君連合(同じ君主を掲げる連合国)ブランデンブルク=プロイセンが成立した。
旧教=ローマ・カトリックと新教=プロテスタントの対立から国家間の大戦争に発達した三十年戦争(1618~48年)で国土は荒廃したが、フリードリヒ・ヴィルヘルムは1685年にポツダム勅令を発し、ルイ14世による迫害でフランスを追われたユグノー(フランスのカルヴァン派プロテスタント)を受け入れた。フランスのみならずオランダやロシア、ボヘミアからも移住が相次ぎ、商人や資本家も多かったことから経済復興に貢献した。フリードリヒ・ヴィルヘルムはベルリンを拡大するとともに小さな集落にすぎなかったポツダムの開発を行い、町の中心にポツダム宮殿を築き、ベルリンとの市境付近の狩猟場にグリーニケ狩猟館を建設した。
スペイン継承戦争(1701~13年)で神聖ローマ皇帝に軍と支援金を送ったことから王国に昇格し、1701年にプロイセン王国が成立。初代国王にホーエンツォレルン家のフリードリヒ1世が就任した。フリードリヒ1世はフランス王ルイ14世とパリ(世界遺産)に憧れて首都ベルリンを改造し、ベルリン王宮を拡張し、シャルロッテンブルク宮殿を建設して「シュプレー川のアテネ」と呼ばれるほどの街並みを築いた。息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は父王の散財で破綻寸前に追い込まれた経済を立て直すためにプロテスタントの受け入れを行い、外征を控えて富国強兵に努めた。また、ポツダムの都市開発を進めて方格設計(碁盤の目状の都市設計)の新市街を建設して移住を奨励した。
プロイセンは啓蒙専制君主であるフリードリヒ大王(フリードリヒ2世)の時代に大国へ上り詰める。絶対王政において絶対君主は神の代理として国を治めたが、啓蒙専制主義では近代化を成し遂げるために啓蒙専制君主に権力を集中させ、合理的な思想(啓蒙思想)に基づく政策の下で国家運営を行った。また、フリードリヒ大王は大国オーストリアからシュレージエン(シレジア。ポーランド・チェコ国境周辺)を奪取するとオーストリア継承戦争(1740~48年)に勝利し、七年戦争(1756~63年)ではオーストリア、フランス、ロシアの連合軍を敵に回して対等に戦い、ヨーロッパの列強として認められた。大王はポツダム郊外に夏の離宮としてサンスーシ宮殿を建設し、周辺の森林を庭園や公園として開発して一帯を広大な宮殿コンプレックスとして整備した。サンスーシはヴェルサイユ宮殿(世界遺産)ほど豪奢ではなかったが、大王は「フリードリヒ・ロココ」と呼ばれるスタイルを愛し、離宮ではなく居城として死の瞬間まで居住した。以来、サンスーシ周辺はベルリン、ポツダムと並んでプロイセン王の居城あるいは離宮として使用され、時代時代に宮殿や庭園が建設された。
イギリスが18世紀後半にはじまる産業革命を経て覇権国家として飛躍したのに対し、ドイツ系のプロイセンやオーストリアは近代化に乗り遅れていた。プロイセンはナポレオンによる占領を経てプロイセン改革を断行し、農民解放や教育・軍制改革などを進めた。プロイセン、オーストリアおよびドイツの小国群はドイツ連邦を形成したが、強国となるには国境を廃止してドイツとしてまとまる必要があった。1834年のドイツ関税同盟によって経済的な統一が実現し、産業革命がはじまった。1866年のプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)に勝利してオーストリアを排除して主導権を握り、1870~71年のプロイセン=フランス戦争(普墺戦争/七週間戦争)で大国フランスを打ち破った。1871年にプロイセンを中心にドイツ帝国が成立し、ドイツ皇帝にはプロイセン王ヴィルヘルム1世が就き、皇帝位はプロイセン王、つまりホーエンツォレルン家の世襲とされた。この時代にポツダムに大きな影響を与えた人物としてヴィルヘルム1世の兄フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が挙げられる。絶対王政に憧れ、建築に対する造詣も深かったフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は住む者もいなくなっていたサンスーシ宮殿を修復し、周辺の庭園や公園を整備してギリシア・ローマ時代のスタイルを復興した新古典主義様式や、ロマネスク・ルネサンス・バロックといった中世のスタイルを復興した歴史主義様式で数々の宮殿や施設を建設した。一例がサンスーシ公園のオランジェリー宮殿やリントシュテット宮殿、平和教会、ザクローの救世主教会、プフィングストベルクのベルヴェデーレで、ベルリンでもムゼウムスインゼル(博物館島。世界遺産)を整備している。
ドイツ帝国は帝国主義を推進してアフリカ、アジア、太平洋に進出。しかし、帝国主義国家が衝突した第1次世界大戦(1914~18年)に敗れ、ドイツ帝国とプロイセン王国は1918年に滅亡した。最後の皇帝ヴィルヘルム2世が皇太子のために築いた宮殿がツェツィーリエンホーフで、ホーエンツォレルン家によって新設された最後の宮殿となった。帝国滅亡後、宮殿をはじめとするホーエンツォレルン家の財産のほとんどは新たに成立したワイマール共和国に没収され、国有財産となった。
世界遺産の資産はおおよそサンスーシ宮殿・庭園・公園を中心としたサンスーシ地区、その北東に広がるノイアー庭園地区、ザクロー湖周辺のザクロー地区、グリーニッケ湖南岸のバーベルスベルク地区、ベルリン市内のベルリン地区の5地区に分類される。
サンスーシ地区にはサンスーシ宮殿・庭園・庭園エントランス、リンデンアレー、旧造園学校、リントシュテットの宮殿と庭園、ボルンシュテット、ゼーコッペル、ヴォルテールの道があり、さらにサンスーシ宮殿・庭園を含むサンスーシ公園には新迎賓館やオランジェリー宮殿、ノイエス宮殿、ポツダム大学、シャーロッテンホフ宮殿などが含まれている。「無憂宮」を意味するサンスーシ宮殿はフリードリヒ大王の命で1745~47年に建てられた宮殿で、設計は大王の友人である建築家ゲオルク・ヴァーツラフ・フォン・クノーベルスドルフが担当した。クノーベルスドルフは当初ヴェルサイユ宮殿に匹敵する豪壮な宮殿を提案したが、戦争が続いていたこともあって大王は自ら設計図の草案を描き、比較的こぢんまりしたものになった。バロック様式をより軽快に再構成したロココ様式で、外観の黄や青の淡い色彩、内部の白と金の装飾、柱・天井・スタッコ(化粧漆喰)・彫刻・絵画が一体となった総合芸術的展開などに特徴が表れている。正面の庭園は6段のテラスを持つ平面幾何学式庭園で、イタリア・バロックとフランス・バロックの特徴を併せ持ち、ブドウの木々やローマ神話の彫刻群で彩られている。東に隣接するビルダーガレリーは大王の絵画コレクションを集めたギャラリーで、西に隣接する新迎賓館はオランジェリー(オレンジなどの果樹を栽培するための温室)として建てられた。周辺のサンスーシ公園にはロココ様式の傑作である中国茶館やネプチューン洞窟、オベリスク(古代エジプトで神殿の前に立てられた石碑)やローマの神々の彫刻で飾られたオベリスクのポータル、ローマ遺跡を模したローマン・バス(ローマ浴場)、フリードリヒ・ルートヴィヒ・ペルジウスがロマネスク・リバイバル様式で設計した平和教会をはじめ数多くの名建築が点在している。七年戦争の勝利で大国として認められた後、フリードリヒ大王は1763~69年にプロイセンの栄光を象徴するにふさわしい宮殿として新宮殿=ノイエス宮殿を建設した。設計はヨハン・ゴットフリート・ビュリングで、ロココ様式ながらより荘厳な外観を持ち、内政・外交を行う庁舎や迎賓館として使用された。オランジェリー宮殿とリントシュテット宮殿は19世紀にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が建設した宮殿で、前者はイタリア・ルネサンスが色濃いネオ・ルネサンス様式、引退後の別荘である後者はネオ・バロック様式で築かれた。シャーロッテンホフ宮殿はその王太子が建設した宮殿で、こちらもネオ・ルネサンス様式となっている。
ノイアー庭園地区はフリードリヒ大王が新設した新庭園=ノイアー庭園と周辺に広がるエリアだ。大王は晩年を過ごすためにノイアー庭園とともに大理石宮殿を建設したが、整然と区画されたサンスーシとは異なる趣で演出された。大理石宮殿はイタリアの後期ルネサンスの一様式であるパッラーディオ様式の影響を受けたネオ・ルネサンス様式で、ハイリガー湖畔に立ち、周辺景観とよく調和している。庭園は森や湖といった自然の景観をそのまま活かした風景式庭園で、周囲にランダムに配されたオベリスクやゴシック図書館、ピラミッド・アイスセラー、オランダ家屋などが味わいを増している。1816年からは宮廷造園家ペーター・ヨセフ・レンネが庭園の整備を担当し、以降半世紀にわたってノイアー庭園や周辺の庭園・公園の整備を行った。その後、大理石宮殿は主に王太子の宮殿として使用されたが、古くなったことから1913~16年にヴィルヘルム2世が皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのためにツェツィーリエンホーフ宮殿を建設した。皇太子の趣味で16世紀イギリス・テューダー朝時代のマナー・ハウス(荘園領主の邸宅)を模してデザインされている。ポツダムは第2次世界大戦末期の1945年にソ連に占領され、7~8月にアメリカ、イギリス、ソ連の首脳がツェツィーリエンホーフ宮殿に集ってポツダム会談を行い、日本に対して無条件降伏勧告であるポツダム宣言を発した。プフィングストベルクはノイアー庭園でもっとも高い丘で、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が1847~63年に展望台としてネオ・ルネサンス様式のベルヴェデーレを建設した。景観設計はレンネが担当し、自然を活かしてイギリス式庭園(自然を模したイギリスの風景式庭園)を造営して風光明媚な景観を造り上げた。
ザクロー地区は広大な森林が広がるエリアで、一帯はザクロー湖=ケーニヒスヴァルト自然保護区として保護されている。ザクロー宮殿はスウェーデン出身の将校ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・ホルトが1773年に建てた邸宅で、1840年にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が購入して王領地とし、周辺の森は王の森=ケーニヒスヴァルトとなった。また、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はユンガフェルン湖畔にイタリア北部のロマネスク建築を彷彿させる救世主教会を建設している。
バーベルスベルク地区のバーベルスベルク宮殿は19世紀に初代皇帝ヴィルヘルム1世がゴシック・リバイバル様式で築いた夏の離宮で、周辺はイギリス式庭園となっている。設計について、宮殿はカール・フリードリヒ・シンケル、庭園はレンネの担当で、ふたりはサンスーシと周辺の宮殿・庭園のほとんどについて設計あるいは改修という形で関与している。バーベルスベルク公園の東にたたずむバーベルスベルク天文台は19世紀後半に建設された研究施設で、正式名称をポツダムのライプニッツ天体物理学研究所という。
ベルリン地区はハーフェル川南岸・グリーニケ湖北岸に位置し、デュッペラーの森が広がる森林地帯で西側は鳥類保護区となっている。グリーニケ宮殿はフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の三男カール・フォン・プロイセンが19世紀はじめに土地を購入して建設した宮殿で、イタリアのヴィッラ(別荘・別邸)を模してネオ・ルネサンス様式で築かれている。その南東に位置するグリーニケ狩猟館は17世紀末にフリードリヒ・ヴィルヘルムが建設した狩猟用の邸宅で、フリードリヒ1世がバロック様式で改修している。「孔雀島」を意味するファウエン島はほとんど森に覆われた島で、島内にはフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が18世紀末に夏の離宮として建てたファウエン島宮殿や、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が19世紀はじめに建設したカヴァリア邸などがある。ファウエン島の風景式庭園や自然景観はレンネの設計で、建物と景観の調和はもちろん、島外からの景観も計算されている。
折衷的で進化的な特徴が独自性を強調するポツダムとベルリンの宮殿群と公園群は卓越した芸術的成果である。建築家のゲオルク・ヴァーツラフ・フォン・クノーベルスドルフからカール・フリードリヒ・シンケル、ランドスケープ・アーキテクト(景観設計家)のヨハン・フリードリヒ・アイザーベックからペーター・ヨセフ・レンネに至るまで、時を隔てた当代随一の建築家と造園家の傑作がひとつの空間内に併置されており、本来は対立するといわれるスタイルが混在し、バランスを損なうことなく調和している。
1745年4月14日にサンスーシ宮殿の礎石が敷設されたことを記念して100年後の1845年にロマネスク・リバイバル様式で平和教会が建設された。ローマのサン・クレメンテ・アル・ラテラノ聖堂のナザレを模したこの建物から新古典主義様式の時代がはじまり、多様なスタイルが混在する一帯の歴史がはじまった。
「プロイセンのヴェルサイユ」と称されたポツダムのサンスーシはイタリア、イギリス、フランドル、パリ、ドレスデンの建築・芸術の粋を集めた結晶である。18世紀のヨーロッパ都市と宮廷の芸術のトレンドを総合した宮殿群と公園群は建築・芸術の発展に貢献し、特にオーデル川以東に多大な影響を与え、新しいスタイルを提供した。
ポツダムのサンスーシはヨーロッパにおける君主制の権力体系に関連した建造物と庭園の開発・発展のすぐれた例である。広大な敷地ながら世界遺産リストに登録されているヴュルツブルクやブレナムの物件と同様に王室の建造物群として非常に明確にカテゴライズされている。ただ、残念ながら第2次世界大戦における1945年4月14日の爆撃によりフリードリヒ・ヴィルヘルム1世が1721~25年に築いた最初の新市街と1733年に開発がはじまった第2新市街という2段階のポツダム都市アンサンブルは失われてしまった。
ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群はプロイセンの宮殿景観として顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を含んでおり、資産の重要性を伝える機能とプロセスを保持するために適切なサイズで、完全性は満たされている。
1939~89年に起こった一帯の放棄・建物の再利用・軍事施設の建設といった出来事の爪跡はポツダムの資産内に残されているが、そのレイアウトは現在でもレンネのプランに沿ったものである。ブランデンブルク州、ベルリン市、ポツダム市、ベルリン=ブランデンブルク・プロイセン宮殿庭園財団の方針は、広範な歴史的調査に基づき、歴史的構造ともともと計画された景観レイアウトを強調しながら新しい環境と都市開発のための枠組みを形成して資産を復元することであり、これにより誠実で責任ある修復と改修が保証されている。部分的な修復は時々に必要となるが、これらも集中的な予備調査と研究に基づいて適切に行われている。