ドイツ中西部のラインラント=プファルツ州、ヘッセン州にまたがる世界遺産で、上流のリューデスハイム・アム・ラインおよびビンゲン・アム・ラインから下流のコブレンツまで、ドイツ語で「ミッテルライン "Mittelrhein"」と呼ばれるライン川中流域の約65kmが登録されている。資産には60の都市や集落、40の城や砦が含まれており、深い渓谷に町や城・ブドウ畑が調和した「ラインロマンティック(ロマンティック・ライン)」と呼ばれる美しい文化的景観が広がっている。
ローマ時代、現在のドイツ、デンマーク、ポーランド、チェコ、スロバキア周辺の土地は「ゲルマニア」と呼ばれ、紀元前1世紀からローマ皇帝クラウディウスやドミティアスが侵略を開始した。ミッテルラインにはローマ帝国の国境が引かれ、トラヤヌスやハドリアヌスの時代に数多くの塔や城壁・堀・望楼・柵が築かれた。いわゆる「ライン・リメス(リメスはローマ帝国の国境防塞システム)」で、世界遺産「ライン渓谷中流上部」のすぐ北に世界遺産「ローマ帝国の国境線」の一部であるリメスの防塞線が伸びている。この時代にマインツとケルンの間にローマ・ライン渓谷街道と呼ばれるローマ街道が切り拓かれたほか、コブレンツにも拠点となる要塞都市や数々の城砦が築かれた。
ローマ帝国滅亡後、フランク王国、中部フランク王国、東フランク王国、神聖ローマ帝国の版図に入った。神聖ローマ帝国の時代に一帯はマインツ大司教やケルン大司教、トリーア大司教、プファルツ伯(ライン宮中伯)、カッツェンエルンボーゲン伯(後にヘッセン方伯)といった諸侯が治める領邦(諸侯や都市による領土・国家。領地は司教領・伯領、選帝侯の場合は選帝侯領などと呼ばれる)や、ボッパルトやオーバーヴェセルのような帝国都市(諸侯の支配を受けず神聖ローマ帝国の下で一定の自治を認められた都市)に細分化されて国境が入り乱れた。特に3人の大司教とプファルツ伯はドイツ王(実質的に神聖ローマ皇帝。ドイツ王が教皇の承認を経て皇帝となった)の選出権を持つ選帝侯で、6人(13世紀後半から7人)の選帝侯のうち4人が集中するミッテルラインはローマ・カトリックの聖域となり、レンスではドイツ王の即位式が行われた。
数多くの国境が引かれたミッテルラインには敵国や山賊に対する防衛拠点として、また関税を徴収するための税関として数多くの城や要塞が建設された。一例がトリーア大司教領のエーレンブライトシュタイン城やマウス城、シュトルツェンフェルス城、マインツ大司教領のラインシュタイン城やエーレンフェルス城、ゾーネック城、ラーンエック城、プファルツ伯領のシュターレック城やフリュステンベルク城、ライヘンシュタイン城、グーテンフェルス城、カッツェンエルンボーゲン伯のマルクスブルク城やラインフェルス城、ライヒェンベルク城、カッツ城だ。
こうした中で、コブレンツやラーンシュタインといった拠点都市や、11世紀に帝国都市となったボッパルトや13世紀のオーバーヴェセルは町を城壁で取り囲んで要所に塔を建てて堅固な要塞都市を形成した。特にボッパルトとオーバーヴェセルは互いに都市協定を締結し、1254年にライン都市同盟が結成されるとこれに参加して集団的自衛を目指した。しかし、まもなくライン都市同盟は解散し、ボッパルトは1327年にトリーア大司教に落とされてその下に入った。このとき建設されたのがボッパルト古城(ボッパルト選帝侯城)だ。この後もボッパルトでは独立のための闘争が継続された。
こうした町々の間の斜面にはパッチワークのように並ぶブドウ畑が見られるが、ミッテルラインではローマ時代からブドウの栽培が行われていた。10世紀頃から教会や修道院が山を切り拓いて畑を開墾し、ブドウとワインの生産が大きく伸びた。その面積は1600年までに3,000haにまで拡大し、現在の生産量の3倍にも及んだ。また、14~16世紀にはライン川上流のストラスブール(世界遺産)と下流のケルンが大いに栄え、その影響を受けて両都市の華やかな文化が流入した。一例が建築で、バッハラッハのヴェルナー礼拝堂(現在は遺跡)やオーバーヴェセルの聖母教会、ザンクト・ゴアーのシュティフツ教会といった数々のゴシック建築の傑作が生み出された。
17~18世紀以降、ミッテルラインは混乱の時代を迎える。宗教改革による新教=プロテスタントと旧教=ローマ・カトリックの争いが激化し、三十年戦争(1618~48年)では新教側に立って参戦したスウェーデン軍の侵略もあって多くの犠牲者を出した。たとえばボッパルトでは住民の1/3を失ったという。続いてフランスとアウクスブルク同盟(神聖ローマ帝国、オランダ、スウェーデン、スペイン等)の間で争われたプファルツ戦争(1688~97年、大同盟戦争)では国王ルイ14世率いるフランス軍が侵入してミッテルラインの城や町を次々と破壊した。ライン川に国境が引かれ、左岸(西岸)はフランス領に組み込まれた。この支配はナポレオンのフランス帝国の時代まで続き、ナポレオン戦争(1803~15年)で1814年にようやくプロイセンが奪還した。
プロイセンは小国が乱立しているドイツの統一と産業革命を進める中で、城や要塞の再建や高速道路・鉄道・蒸気船の導入などを行って一帯を開発した。ミッテルラインは4選帝侯が集まる聖域で、ドイツ人が「父なる川」と呼ぶライン川の典型的な風景であり、フランスから奪還した勝利の証という意味も含めてナショナリズムの高揚に利用された。再建した城の一例が、フリードリヒ・フォン・プロイセンが再建したラインシュタイン城や、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がゴシック・リバイバル様式で再建したシュトルツェンフェルス城だ。プロイセンは1870~71年のプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)に勝利してパリを占領し、ヴェルサイユ宮殿(世界遺産)で国王ヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式を行った。これによりドイツ帝国が成立し、ドイツ統一が実現した。
18~19世紀になると作家ゲーテや詩人バイロン、画家ターナー、音楽家シューマンやワーグナーをはじめ数多くの芸術家や作家がこの地を訪れ、小説や詩・絵画・音楽に描き出した。近代の合理主義に対して人間の感性や感情といった主観の優越を主張したロマン主義芸術と見事に調和し、「ラインロマンティック "Rheinromantik"」と呼ばれる潮流を生み出した。こうした活動と、政治的・経済的要衝ではなくなったことからミッテルラインでは開発よりも文化財と景観の保護が進められた。以来、現在まで最大の産業は観光業となり、規模は大幅に縮小したものの昔ながらのワイン生産や河川舟運も継続された。
世界遺産の資産はマインツに近い左岸のビンゲン・アム・ライン、右岸のリューデスハイム・アム・ラインから両岸にまたがるコブレンツまでの約65kmとなっている。
リューデスハイム・アム・ラインは「ラインガウ」と呼ばれるドイツでも有数のワイン生産地の筆頭で、「ラインの真珠」の異名を持つ。リースリング種をはじめとする白ワインや世界3大貴腐ワインのひとつであるトロッケンベーレンアウスレーゼは特に名高い。
ビンゲン・アム・ライン~バッハラッハ間にはバッハラッハ渓谷が広がっており、ロマン主義の画家を魅了して数多くの絵に描かれた。数々の城が立ち並んでおり、右岸のリューデスハイム・アム・ラインのエーレンフェルス城、川の中にたたずむビンゲン・アム・ラインのマウス塔(ネズミ塔)、左岸のトレヒティングスハウゼンのラインシュタイン城とライヘンシュタイン城、左岸のニーダーハイムバッハのゾーネック城とハイム城、右岸のロルヒ・アム・ラインのノリッグ城、左岸のオーバーディーバッハのフュルステンベルク城、左岸のバッハラッハのシュターレック城などが続いている。それぞれの町には歴史的な教会堂や要塞・城壁も多く、特にゴシック様式のロルヒ・アム・ラインの聖マーティン教会やバッハラッハのヴェルナー礼拝堂遺跡が名高い。バッハラッハもワインで知られる古都で、町の名前はローマ神話の酒神バッカスに由来する。ハーフティンバー(木造と石造を組み合わせた半木骨造建築)の美しい家並みでも知られている。
バッハラッハ~オーバーヴェセルはほぼ直線で開けており、シュティーガー渓谷の入口となっている。川の中に立ち、船の形をした特徴的な建物は右岸の町カウプのプファルツグラフェンシュタイン城(プファルツ城)で、水量に合わせて床の高さが変わる仕組みになっている。一方、山上から町を見下ろす城はグーテンフェルス城だ。対岸のオーバーヴェセルは帝国都市として独立を貫いた要塞都市で、現在でもあちらこちらに塔や門塔・城壁が残されている。山上を守る美しい城はシェーンブルク城で、ビクトル・ユーゴーが絶賛したと伝えられている。ゴシック様式の聖母教会やミノリテン修道院遺跡などもよく知られている。
オーバーヴェセルを越えるとライン川は大きく右に左に湾曲し、高さ132mのローレライの岩に到達する。伝説では、魔女扱いされた絶世の美女ローレライが恋人にも裏切られて身を投げたとされる岩で、死後もこの周辺に現れてはその美貌と歌声で船員を惑わし、船を川底へ引きずり込んだという。実際、流れが速く見えない岩も多い難所で事故も多かったが、川幅を広げ岩礁を爆破して以来、安全な航行が確保された。
続く左岸のザンクト・ゴアーはローマ時代からの歴史を誇る古い町で、中世にはカッツェンエルンボーゲン伯(後にヘッセン方伯)の拠点となった。山上に立つラインフェルス城はその居城のひとつだ。対岸である右岸のザンクト・ゴアールスハウゼンは姉妹町で、上流にカッツ城(ネコ城)、下流にマウス城(ネズミ城)がそびえている。カッツ城はカッツェンエルンボーゲン伯領、マウス城はトリーア大司教領の城で、かつてはそれぞれノイカッツェンエルンボーゲン要塞、ピーターゼック要塞と呼ばれて互いににらみ合っていたことからネコとネズミという愛称が付いた。
左岸のバート・ザルツィヒを越えると「ボッパルト・ループ」と呼ばれるライン川の大湾曲を迎える。ループの入口にあたるカンプ=ボルンホーフェンにはリーベンシュタイン城、シュテレンベルク城というふたつの城があるほか、数々の貴族の邸宅が残されている。ボッパルトはループの左岸一帯に広がる町で、ローマ帝国時代に軍事拠点として開拓された。中世には帝国都市となり、城壁を築いて独立を掲げたが、14世紀にトリーア大司教領に組み込まれた。かつての城壁や塔・門塔が数多く残されているほか、ローマン・バス(ローマ浴場)をはじめとするローマ遺跡やトリーア大司教が築いたボッパルト古城、教会建築ではロマネスク様式の聖セウェルス教会やゴシック様式のカルメル会教会など、さまざまな時代の建造物や遺跡が伝えられている。
ボッパルトを越えた右岸のオスターシュパイ、左岸のオーバーシュパイ、シュパイといった町々はハーフティンバーの家々が数多く残る趣ある街並みを見せる。ループの終端に広がる右岸のブラウバッハはカッツェンエルンボーゲン伯の拠点都市のひとつだ。山上に立つマルクスブルク城は12世紀の創建で、増改築が繰り返されて15世紀におおよそ現在の姿になった。ミッテルラインに無傷で残る唯一の城であり、しばしば一帯でもっとも美しい城と評される。16世紀には城の麓にフィリップスブルク宮殿が建設され、この地を引き継いだヘッセン方伯の居城となった。
ボッパルト・ループを経た左岸のレンスはケルン大司教領だった要塞都市で、かつてはアーヘン大聖堂(世界遺産)で戴冠したドイツ王がレンスのケーニヒスシュトゥール(王座の意)で即位式を行った。歴史的建造物も多く、代表的な建造物として11世紀に建設されたロマネスク様式の聖ディオニュシウス教会や、14世紀に築かれた税関塔シャーファー塔、16世紀建設でハーフティンバーの旧ラートハウス(旧市庁舎)などが挙げられる。右岸のラーンシュタインはマインツ大司教領に属した要塞都市で、こちらも数多くの歴史的建造物が築かれた。一例が13世紀建設のラーンエック城やマーティンズブルク城、ロマネスク・ゴシック・バロックと多彩な様式が混在した聖マーティン教会、ハーフティンバーの旧ラートハウスだ。対岸にたたずむコブレンツのシュトルツェンフェルス城は13世紀にトリーア大司教が築いた城で、19世紀にドイツの名建築家カール・フリードリヒ・シンケルの設計でゴシック・リバイバル様式にて再建された。
コブレンツはライン川とモーゼル川の合流地点に位置する交通の要衝で、世界遺産の資産はこの合流地点までに限られる。ローマ時代に城壁で囲まれた要塞都市が建設され、周囲にはライン・リメスの一部として数々の城壁や城砦が築かれた。一例が右岸のニーダーベルク城砦で、こちらは世界遺産「ローマ帝国の国境線(イギリス/ドイツ共通)」の構成資産となっている。中世にはトリーア大司教領の中心都市となり、数多くの城壁・城砦・要塞が建設された。エーレンブライトシュタイン要塞は11世紀から城砦・城・要塞が築かれていた場所で、18世紀にフランス軍によって破壊され、19世紀にプロイセンが現在見られる要塞を建設した。左岸のコブレンツ古城はトリーア大司教のために12世紀に建設されたロマネスク様式の城館で、14世紀には隣接するモーゼル川にバルドゥイン橋が架けられた。17世紀には対岸にフィリップスブルク宮殿が建設され、大司教はこちらに移住した。この宮殿は18世紀にフランス軍に破壊され、大司教はさらに左岸に建設された新古典主義様式のコブレンツ選帝侯宮殿に移動した。代表的な教会建築として、コブレンツの景観を引き立てている聖カストール教会、聖母教会、聖フローリン教会が挙げられる。聖カストール教会は9世紀創建のローマ・カトリックの教会堂で、11~12世紀にロマネスク様式で再建された。聖母教会は5世紀の創建とされるコブレンツ最古の教会堂で、13~14世紀にロマネスク様式で建て替えられ、15世紀にゴシック様式で改築された。聖フローリン教会は1100年頃に設立されたロマネスク様式の教会堂で、14~15世紀にゴシック様式の改築を受け、1818年にプロテスタントの教会堂となった。モーゼル川との合流地点のドイチェス・エック(ドイツの角)に立つ巨大な騎馬像は初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の像で、ドイツ帝国の誕生を祝って孫にあたる第3代皇帝ヴィルヘルム2世が建設した。
本遺産は登録基準(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていたが、その価値は認められなかった。
ヨーロッパでもっとも重要な輸送ルートのひとつとして、ライン渓谷中流上部は2,000年にわたり地中海地域とヨーロッパ北部との間の文化交流を促進した。
ライン渓谷中流上部は有機的に進化する文化的景観の卓越した例であり、現在見られる特徴はその地形学的・地質学的条件と、居住地・交通インフラ・土地利用といった2,000年以上にわたる人間の介入によって形成された。
ライン渓谷中流上部は狭い川の谷間で発展した伝統的な生活様式とコミュニケーション手段のすぐれた例である。特に景観において重要な役割を果たしている急斜面の段々畑は2,000年以上にわたってさまざまな形で築かれてきたものだ。しかし、このような土地利用の形態は現代の社会経済的な圧力から脅威にさらされている。
広大な資産には地質学的景観、60の町や集落、40の城や砦、ブドウ畑のテラスなど、豊かで絵のような美しさを誇るライン渓谷を特徴付ける重要な要素がすべて含まれており、作家や芸術家に影響を与えた重要な景観をすべて網羅している。
ライン渓谷中流上部の自然景観は住人に与えられた比較的少ない用地のおかげで他の区間と比較してほとんど開発による変化を受けていない。加えて景観と歴史的モニュメントを保護しようというさまざまな試みのおかげでほとんど手付かずのまま伝えられており、多くの機能と地域的な要素の真正性が維持されている。ただ、渓谷に沿って走る鉄道は騒音公害の一因となっており、緩和される必要がある。