ドイツ中南部の都市ヴュルツブルクに18世紀に建設された司教(司教区を監督する聖職者)のためのレジデンツ(司教館)と庭園群で、バルタザール・ノイマンをはじめ当時の著名な建築家がチームを組んで設計を行い、「ヨーロッパでもっとも輝ける宮殿のひとつ」と評されるバロックおよびロココ様式の名建築を築き上げた。なお、世界遺産登録時にはバッファー・ゾーンが設けられていなかったが、2010年の軽微な変更で設定された。
中世から近代にかけて神聖ローマ帝国には数多くの国家が存在したが、王国や公国・伯国といった諸侯による国家のみならず、ケルン大司教領やマインツ大司教領のように大司教や司教ら聖界諸侯による大司教領や司教領が存在した。そんな司教領のひとつがヴュルツブルク司教領だ。13世紀から代々のヴュルツブルク司教はマイン川西岸のマリエンベルク城を居城としていたが、絶対主義の時代に入って豪奢な宮殿が次々に建設される中で要塞のような城館は小さく狭く時代遅れとなり、より壮大華麗な宮殿が求められるようになった。1700年前後に司教ヨハン・フィリップ・フォン・グライフェンクラウがマイン川東岸にシュロスライン(小さな宮殿)と呼ばれる小規模なレジデンツを建設し、司教による東岸の開発がはじまった。
ヨーロッパ各地で外交経験を積んだヨハン・フィリップ・フランツ・フォン・シェーンボルンはパリ郊外のヴェルサイユ宮殿(世界遺産)やウィーンのシェーンブルン宮殿(世界遺産)といった絶対君主の手による宮殿に感化され、1719年に司教に選出されるとこれらに劣らない壮大なレジデンツの建設を開始した。建設は1720年にはじまったが1724年に病死。次の司教クリストフ・フランツ・フォン・フッテンは北ウイング(ウイングは翼廊/翼棟/袖廊。複数の棟が一体化した建造物群の中でひとつの棟をなす建物)のみを完成させて建設を中止したが、1729年に司教となったフリードリヒ・カール・フォン・シェーンボルンによって再開された。
レジデンツの建設のために当代随一の建築家や芸術家がヴュルツブルクに招集された。全体を監督したのは司教の宮廷建築家バルタザール・ノイマンで、マインツ選帝侯の宮廷建築家マクシミリアン・フォン・ヴェルシュが補佐にあたった。また、当時もっとも著名な建築家であったオーストリアのバロック建築家ルーカス・フォン・ヒルデブラントやフランスのバロック・ロココ建築の旗手ロベール・ド・コット、ジェルマン・ボフランらが設計に加わった。建物が1744年に竣工を迎えると、1740~70年にかけて内装工事が行われ、1765~80年には庭園の造営が行われた。イタリアやフランドル、ミュンヘンから一流の職人が呼び寄せられ、ヴュルツブルクの宮廷装飾家・彫刻家アントニオ・ジュゼッペ・ボッシやヴェネツィアの画家ジョヴァンニ・バティスタ・ティエポロ、ドイツのフレスコ画家ヨハネス・ジックらが参加した。
レジデンツは1780年に完成したが、実際に司教に使用された期間は非常に短かった。神聖ローマ帝国の帝国議会によって1803年にヴュルツブルク司教領が廃止されてバイエルン選帝侯領に吸収され、ナポレオン戦争(1803~15年)の過程でヴュルツブルク大公国となり、1814年にはバイエルン王国の版図に入った。この間、レジデンツに3度滞在したナポレオンは「ヨーロッパでもっとも美しい司教館」と評したという。レジデンツはバイエルン王家の宮殿となり、レジデンツの顔となる西の前庭にフランコニア噴水が建設された。
ヴュルツブルクは第2次世界大戦末期の1945年3月16日、イギリス空軍による爆撃で4,000~5,000人の犠牲者を出し、旧市街の90%の建物が破壊された。レジデンツと庭園群も大きな被害を受け、特に南北ウイングはほぼ破壊された。しかし、中央ウイングは被弾して屋根が吹き飛ばされたにもかかわらず耐え抜き、ホワイト・ホールやインペリアル・ホール、ガーデン・ホール、階段、前庭といった最重要の構造は守られた。戦後すぐにレジデンツの再建・修復が開始され、約2,000万ユーロを投入して1987年まで継続された。
ヴュルツブルクのレジデンツは「日」形の南北ウイングと両者を結ぶ中央ウイングの3ウイングからなる複合施設で、西にレジデンツ・スクエア、東にレジデンツ庭園、南にホーフ庭園、レン通りを挟んだ北にローゼンバッハ庭園が隣接しており、これらが世界遺産の資産を形成している。また、周辺のリング庭園やホーフ通り、いくつかの歴史的建造物がバッファー・ゾーンに指定されている。
2階建て(中二階を含めると4階)で約400室を有する3ウイングは167×92mの長方形のベース上に築かれており、中央西に前庭とフランコニア噴水がある。フランコニア噴水はバイエルンの建築家ガブリエル・フォン・ザイドルの設計で、中央には彫刻家フェルディナント・フォン・ミラーが制作した女神フランコニア像がたたずんでいる。
最大の見所は中央ウイングで、ノイマンが設計した中央階段は柱のない広い吹き抜けを特徴とし、天井は「世界最大のフレスコ画」といわれるティエポロのフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)の一枚絵で覆われている。柱のない32×18mの空間で、完成当初は「欠陥」「崩壊する」との批判を受けたが、第2次世界大戦時の爆撃にも耐え抜いて設計の確かさを証明した。招待客用のホールが白で統一されたロココ様式のホワイト・ホールで、ボッシのスタッコ(化粧漆喰)細工とシャンデリアで凜とした空気を演出している。インペリアル・ホールは大きな窓と白・銀・金・ピンクといった色彩で彩られたバロック様式の華やかな空間で、彫刻や大理石柱に加えてティエポロのフレスコ画やボッシの黄金のスタッコ細工などで装飾されている。オーディエンス・ルームは家具職人であり彫刻家でもあるフェルディナント・フントが手掛けたロココ様式の家具や装飾で飾られている。
南北ウイングの多くはゲストルームで、バロック様式の部屋が並んでいる。特筆すべきはノイマンが設計した南ウイングの宮廷礼拝堂で、曲線と曲面で覆われ、余すところなく装飾された豪奢なバロック空間が広がっている。広い窓と対面のガラスによって明るさを確保し、ピンクの大理石柱に白大理石のねじり柱、聖母マリアや大天使ガブリエル、守護天使ラファエル、堕天使ルシファーといった彫刻群、ティエポロのフレスコ画やボッシのスタッコ細工などによって華麗なキリスト教世界を描き出している。
庭園について、東のレジデンツ庭園は円と直線で構成されたバロック様式の平面幾何学式庭園で、南のホーフ庭園も同様だ。ただ、ホーフ庭園の西は自然を模したイギリス式庭園で、対照的な庭園が並んでいる。北のローゼンバッハ庭園もイギリス式庭園で、隣接する州財務局の建物にはレジデンツの歴史あるワイン・セラーがあり、ワインを試飲することができる。
ヴュルツブルクのレジデンツはもっとも均質で卓越したバロック宮殿のひとつであり、構造と装飾ともに際立ったヨーロッパ・バロック様式の独立した芸術作品である。レジデンツは野心的な設計、独創的な創造精神、工房の多様な国際性を持ち、その結果として類を見ない芸術的成果を実現している。同時代のモニュメントでこのような才能の結集を表現する例は他にないと思われる。
レジデンツはヨーロッパ文化の記録とでもいうべき存在であり、18世紀のヨーロッパにおけるフランス(特にパリ)、イタリア(特にヴェネツィア)、オーストリア(特にウィーン)、ドイツのもっとも重要な建築家・彫刻家・画家らによる共同作品である。
1945年3月16日の爆撃で大きな被害を受けたが、ヴュルツブルクのレジデンツでは1945年以来、長期にわたって慎重かつ模範的な修復が行われ、適切に保全されている。資産には顕著な普遍的価値の表現に必要なすべての要素が含まれており、開発や放置による喫緊の問題も存在しない。
付属の庭園群とレジデンツ・スクエアを持つヴュルツブルクのレジデンツのさまざまな要素は信頼に値し、真正性は高いレベルで維持されている。