パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境

Millenary Benedictine Abbey of Pannonhalma and its Natural Environment

  • ハンガリー
  • 登録年:1996年
  • 登録基準:文化遺産(iv)(vi)
  • 資産面積:47.4ha
上空から見下ろした世界遺産「パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境」、パンノンハルマ大修道院
上空から見下ろした世界遺産「パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境」、パンノンハルマ大修道院 (C) Hallabalint
世界遺産「パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境」、修道院付属聖堂の西ファサードにそびえる鐘楼
世界遺産「パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境」、修道院付属聖堂の西ファサードにそびえる鐘楼 (C) Thaler Tamas
世界遺産「パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境」、神学校(右)から見上げた修道院と修道院付属聖堂
世界遺産「パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境」、学校(右)から見上げた修道院と修道院付属聖堂 (C) Kontiki
世界遺産「パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境」、パンノンハルマ大修道院(左)とミレニアム記念碑
世界遺産「パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境」、パンノンハルマ大修道院(左)とミレニアム記念碑(右)(C) Pe-Jo
世界遺産「パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境」、司祭館
世界遺産「パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境」、司祭館
世界遺産「パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境」、修道院付属聖堂のスペキオサ門
世界遺産「パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境」、修道院付属聖堂のスペキオサ門 (C) Thaler Tamas

■世界遺産概要

ハンガリー北西部ジェール・モション・ショプロン県パンノンハルマ市に位置するパンノンハルマ大修道院は996年の創立と1,000年超の歴史を誇る修道院で、ハンガリー初の学校が創設され、ハンガリー語の初の文書が作成された。ハンガリーのみならず中央ヨーロッパにキリスト教ローマ・カトリックの宗教や文化を啓蒙する拠点としてありつづけ、ゴシック様式やバロック様式、新古典主義様式をはじめ中世から近代まで時代時代のスタイルをいまに伝えている。

○資産の歴史

1世紀にハンガリー大平原とその周辺に広がるパンノニアの西部はローマ帝国の属州となり、その後、フン帝国やアヴァール人、スラヴ人、フランク王国などが支配した。9世紀頃からハンガリー人の祖とされるマジャール人がロシアのヴォルガ川やウラル山脈周辺から進出し、896年には大首長アールパードがマジャール人の諸部族を統一してハンガリー大公国を成立させた(ハンガリーの建国)。マジャール人はパンノニアのみならずイタリアやドイツにまで進出し、圧力を加えた。

パンノンハルマの地には10世紀ほどまでバイエルン人やスラヴ人の農村が広がっていた。そしてここには聖山として崇められていた丘があり、いつしかパンノニア出身のローマ軍人で、後にトゥール司教となった聖マルティヌスの生誕地であるという伝説が広まった(通説ではパンノンハルマの南西のソンバトヘイ出身)。このため19世紀までこの地はジェールゼントマールトン(ゼントマールトンは聖マルティヌスを意味する)と呼ばれていた。

996年、修道会のベネディクト会はマジャール人をはじめとする異教徒への宣教と聖マルティヌスの聖地の保護を目的に、イタリアやドイツ、ボヘミア(チェコ西部)から最初の修道院長となる聖アストリックをはじめ、司教や司祭・修道士らを送り込んで聖マルティヌスに捧げる修道院と付属聖堂(聖マルティヌス聖堂)を創設した。時のハンガリー大公ゲーザは異教徒ではあったがキリスト教の宣教を認めており、ベネディクト会に修道院の創設を許可した。997年にゲーザの息子ヴァイクが大公位を継ぐが、ヴァイクは洗礼を受けたキリスト教徒であり、1000年に教皇シルウェステル2世からキリスト教国として認められてハンガリー王国が成立し、イシュトヴァーン1世を名乗った。イシュトヴァーン1世は修道院に特権を与え、多額の寄付を行ってこれを保護した。修道院は宗教や文化・教育・経済・司法の中心地として中央ヨーロッパに広く影響力を持ち、その啓蒙に努めた。一例が1055年にベラム(犢皮紙。主に子牛の皮をなめした皮紙)に記されたティハニ修道院憲章で、ハンガリー語による最古の文書として知られる。

最初の修道院は1137年頃に全焼したため、ハンガリー王ベーラ2世らの支援の下で13世紀までかけてゴシック様式で再建された。1241年にモンゴル帝国が襲来して町を破壊したが、修道院長ウロスは聖マルティヌスの丘と修道院の城壁を利用してこれを撃退した。その後、14~15世紀にかけて修道院と町は大いに繁栄し、人口が急増した。1472年には国王マーチャーシュ1世がゴシック様式で大規模な増改築を行い、規模が一気に拡大した。修道院は1514年に大修道院に昇格している。

16世紀にオスマン帝国最盛期を築いた皇帝スレイマン1世がハンガリーに進出し、1526年のモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を撃破してハンガリー中部と南部はオスマン帝国領ハンガリーとなった。当初修道院は難を免れ、城壁を張り巡らして要塞化されたが、帝国の圧力を受けて1575年には大部分が放棄され、1594年には占領された。1638年の奪還後、17世紀後半に大修道院長マティアス・パルフィが修復をはじめ、18世紀はじめには大修道院長シャイゴ・ベネデックがバロック様式で改修を行った。修道院は活気を取り戻し、町や畑の再興にも貢献した。

18世紀後半のハンガリー王で神聖ローマ皇帝やオーストリア大公、ボヘミア王などを兼ねたヨーゼフ2世は啓蒙思想を奉じる啓蒙専制君主であり、科学の人だった。国家への貢献が乏しいと見たヨーゼフ2世は1786年にハンガリー国内のすべてのベネディクト会の修道院の閉鎖を命じた。1802年に医療施設や教育施設となることで存続が認められ、多くの修道院は近郊の町に移動し、主に中等教育を行う学校を運営した。しかし、パンノンハルマ大修道院はその場所を変えず院内に学校を開設し、修道院もそのまま存続した。

19世紀はじめに新しい図書館がオープンし、19世紀後半には修道院付属聖堂やクロイスター(中庭を取り囲む回廊)が改修され、1896年のハンガリー建国1,000周年にはミレニアム記念碑が建設された。1939~41年にはイタリア政府が中等教育学校と寮を寄贈し、現在の姿がほぼ完成した。

第2次世界大戦後に社会主義国家であるハンガリー人民共和国(1949~89年)が成立し、1950年に政府に接収された。修道院は文学系の学校として承認され、教育施設として存続しつつローマ・カトリックの教えを守り抜いた。1970年に町はパンノンハルマの名前で市に昇格している。

ハンガリーの民主化運動が進んで1989年にハンガリー共和国が成立すると修道院はベネディクト会に返還され、施設の修復・改修が進められた。これにより宗教施設としての機能を取り戻すと同時に、教育施設としての役割を引き継いだ。そして修道院1,000周年に当たる1996年に世界遺産リストに搭載された。なお、ハンガリー共和国は2012年にハンガリーに改名している。

○資産の内容

世界遺産の資産は修道院の建造物群が立ち並ぶ聖マルティヌスの丘と、周辺の記念碑・礼拝堂・公園・植物園・農場・森林等で構成されている。

聖マルティヌス聖堂ともいわれる修道院付属聖堂は1224年に完成した初期ゴシック様式の教会堂で、現在の建物は3度目の再建と考えられている。地下の遺構やクリプト(地下聖堂)、一部の壁面は12世紀以前にさかのぼるもので、修道院の最初期の姿を伝える数少ない証拠となっている。聖堂最古級の施設がクリプトで、長方形の地下空間にはもともと聖マルティヌスの聖座が収められており、修道院長や著名人の埋葬地としても知られる。一例がオーストリア=ハンガリー帝国最後の皇太子オットー・フォン・ハプスブルクで、死後、自らの心臓をここに収めさせた。教会堂はバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)で、尖頭アーチ(頂部が尖ったアーチ)や交差六分のリブ・ヴォールト(枠=リブが付いた×形のヴォールト)をはじめ初期ゴシックらしい特徴が見られる。15世紀にマーチャーシュ1世が後期ゴシック様式で、19世紀には建築家・画家のフェレンツ・ストルノによってゴシック・リバイバル様式で増改築されており、内陣の天井などは前者、天井のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)などは後者の時代のものとなっている。修道院のランドマークである鐘楼は19世紀に聖堂の西1/3を破壊して増築したもので、新古典主義様式で5層、高さ55mを誇る。中世、聖堂への主要門となっていたのがスペキオサ門(ポルタ・スペシオサ)で、13世紀に建造された。赤大理石をベースに白大理石を組み合わせた洗練されたデザインで、ティンパヌム(タンパン。リンテルを飾る壁面装飾)に描かれた聖マルティヌスの騎馬像は19世紀に追加されたものだ。門を入るとマーチャーシュ1世が1472年に整備したゴシック様式のクロイスターが広がっており、各施設を接続している。クロイスターの中心にあるパラディスムのパティオ(楽園の中庭)はパラダイスの楽園を再現したものとされる。バロック様式の食堂は1724~27年に築かれた2階建ての長方形ホールで、スイスのバロック画家ダヴィデ・アントニオ・フォッサティによる『旧約聖書』や『新約聖書』の食事のシーンを描いた壁画が名高い。同じくバロック様式の図書館はヨーゼフ・フランツ・エンゲルの設計で1824~35年に築かれたもので、4階建ての館内に40万以上の蔵書を有し、中世の貴重な写本も少なくない。

南の丘に立つ聖母礼拝堂は1714年に建設がはじまったバロック様式の礼拝堂で、もともとはハンガリー語以外を母国語とする人々のための教区教会だった。26×10.9mの単廊式(廊下を持たない様式)の教会堂で、1865年に内装等が新古典主義様式で改修された。クリプトは修道士の埋葬地として使用されている。

南西の丘に立つミレニアム記念碑は1896年のハンガリー建国1,000周年を記念してハンガリー国内に建てられた7つの記念建造物のひとつだ。ギリシア神殿を思わせる新古典主義様式の建物で、ファサード(正面)のポルティコ(列柱廊玄関)はイオニア式の円柱が堂々たるペディメント(頂部の三角破風部分)を掲げている。ペディメントやティンパヌムの彫刻群は彫刻家ベゼリーディ・ギュラの作品だ。もともと高さ26mの二重殻ドームを冠していたが、損傷が激しかったことから1937~38年に撤去された。

ベネディクト会パンノンハルマ校は中学・高校・音楽学校からなる学校コンプレックスで、修道院と同じ996年の創立と伝わっており、ハンガリーはもちろん中央ヨーロッパ最古の歴史を誇る。16世紀のオスマン帝国時代に学校の歴史は途絶えたが、奪還後の1690年に復活。1786年に一旦解散するも、1802年に学校として復帰した。戦後、国に接収された後、1950年に活動を再開し、ハンガリー人民共和国の時代もローマ・カトリックの寄宿学校としてありつづけた。

修道院や関連施設の周辺には公園や植物園・菜園・ハーブ園・ブドウ園などが広がっている。中世の修道院は修道士が修行を行う場であるだけでなく、周囲への宣教はもちろん、土地の開拓や産業の育成を担う機関でもあり、教育・医療・福祉施設としての役割も担っていた。一例がブドウやハーブ・薬草の栽培で、ワインや香料・香辛料・化粧品・薬品を生産することで町おこしも行った。パンノンハルマでよく知られるのが修道院ワイナリーで生産された白ワインやブランデー、ラベンダーから生産されたラベンダーオイルだ。これらは現在、パンノンハルマの名物としても知られている。こうした植物園や農場は修道院施設と伝統的なオークの森とともに美しい文化的景観を形成しており、修道院の美的価値を際立たせている。

■構成資産

○パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境

■顕著な普遍的価値

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

パンノンハルマ大修道院とその周辺は特徴的な立地、環境とのつながり、特有の構造、1,000年以上にわたって継続的に使用されたキリスト教ベネディクト会修道院の組織を卓越した方法で表現している。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

ベネディクト会修道院はその立地と996年という早い創設時期により中央ヨーロッパにおけるキリスト教の普及を示す際立った証拠となっている。ベネディクト会の修道士たちは1,000年もの間、国家や人々の平和を目指して継続的な努力を続け、地域の発展に多大な貢献を行った。

■完全性

資産にはベネディクト会修道院の生活のすべての場が組み込まれており、歴史的な修道院コンプレックスの全体(大修道院の建造物群、修道院付属聖堂、教育施設、聖母礼拝堂、ミレニアム記念碑)と周辺の自然環境(大修道院の植物園、ハーブ園、公園、森林)を包含し、顕著な普遍的価値を示すすべての要素を含んでいる。ただ、全体としての文化的景観が評価されているものの、その特別な立地のため、資産からの眺望、あるいは資産を含んだ眺望は資産の境界線によって部分的にしか保護されていない。

■真正性

建物によっては損傷や破壊、時代やスタイルの変化によって何世紀にもわたって多くの改修を受けてきた。しかし、資産の建造物群は機能を拡張させながらもその連続性を維持しており、歴史的な層が順番に積み重なることで真正性が保証されている。20世紀後半に何段階かで行われた修復・再建作業は近現代の修復における国際基準を満たしており、ブドウ園、受付棟、レストラン、巡礼者棟、ハーブ園に対する最近の建築作業にも当てはまる。修道院の生活は約1,500年前にヌルシアのベネディクトゥス(聖ベネディクトゥス)によって著された『戒律』によって示されており、修道院ではいまなおこうした戒律を守った生活が営まれている。「祈り、働け "Ora et labora!"」という数百年前から続くベネディクト会の修道生活のモットーは現在も生きており、ベネディクト会修道士のもっとも重要な活動のひとつである青少年の指導・教育に活かされている。

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