ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り

Budapest, including the Banks of the Danube, the Buda Castle Quarter and Andrássy Avenue

  • ハンガリー
  • 登録年:1987年、2002年重大な変更
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:473.3ha
  • バッファー・ゾーン:493.8ha
世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り」、手前の吊り橋はセーチェーニ鎖橋、背後は城の丘のブダ城地区で、ドームを冠した建物がハンガリー国立美術館
世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り」、手前の吊り橋はセーチェーニ鎖橋、背後は城の丘のブダ城地区で、ドームを冠した建物がハンガリー国立美術館
世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り」、ブダ城地区のハラーズ砦、日本語で漁夫の砦、左はドナウ川
世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り」、ブダ城地区のハラーズ砦、日本語で漁夫の砦、左はドナウ川
世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り」、ブダ城地区のマーチャーシュ教会、右は聖三位一体広場の聖三位一体像
世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り」、ブダ城地区のマーチャーシュ教会、右は聖三位一体広場の聖三位一体像 (C) xorge
世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り」、ドナウ河岸のハンガリー国会議事堂
世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り」、ドナウ河岸のハンガリー国会議事堂。ゴシック・リバイバル様式のプランとネオ・バロック様式の長球ドームの調和が美しい
世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り」、ドナウ河岸のブダペスト民族博物館
世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り」、ドナウ河岸のブダペスト民族博物館。頂部の彫刻は3頭のウマに引かれた真実の女神像『トリガ』
世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り」、アンドラーシ通りの北端に位置する英雄広場。中央がミレニアム記念碑、左がブダペスト国立西洋美術館、右がブダペスト現代美術館
世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り」、アンドラーシ通りの北端に位置する英雄広場。中央がミレニアム記念碑、左がブダペスト国立西洋美術館、右がブダペスト現代美術館 (C) Belaballo
世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り」、アンドラーシ通り沿いにたたずむネオ・ルネサンス様式のハンガリー国立歌劇場
世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り」、アンドラーシ通り沿いにたたずむネオ・ルネサンス様式のハンガリー国立歌劇場 (C) Snóbli Iván

■世界遺産概要

ハンガリー北中部に位置する首都ブダペストに広がるドナウ川両岸の歴史地区とアンドラーシ通りを登録した世界遺産。歴史地区はローマ時代以前からの歴史を誇る古都であるのに対し、アンドラーシ通り周辺の建造物群とその地下を走る地下鉄1号線(ミレニアム地下鉄)は近代の建築・産業遺産であり、2,000年を超える歴史を反映している。なお、本遺産は1987年に「ブダペスト、ドナウ河岸とブダ城地区 "Budapest, the banks of  the Danube with the district of Buda Castle"」の名称で世界遺産リストに登録された後、2002年にアンドラーシ通りと地下鉄1号線を加えて現在の名称となった。

○資産の歴史

ブダペスト周辺では旧石器時代の遺跡が発掘されており、太古から人間の居住が確認されている。古くから温泉が出ることで知られ、紀元前の時代にケルト人がゲッレールトの丘に温泉街を築いていた。1世紀にローマ帝国がこの地を占領して軍事拠点として整備すると植民都市アクインクムとして発展し、106年には下パンノニアの中心都市となった。アクインクムの中心はブダペスト北部に位置するオーブダ島と周辺のドナウ川西岸で、世界遺産ではないもののフォルム(公共広場)やテアトルム(ローマ劇場)、アンフィテアトルム(円形闘技場)、宮殿、水道橋などの遺跡が残されている。一方、東岸はコントラ・アクインクムとして開発され、後にペスト(ペシュト)と呼ばれる都市となった。

ローマ時代後期から中世初期の民族大移動の時代、現在のハンガリーとその周辺に広がるパンノニアはさまざまな民族の支配を受けた。ローマ帝国は4世紀頃からフン人やゲルマン系諸民族の圧力を受けて急速に衰退し、フン帝国やアヴァール人、スラヴ人の支配を許した。特にアヴァール人によるパンノニア・アヴァールが一帯を支配するが、8世紀にフランク王国が打ち破り、829年には第1次ブルガリア帝国がフランク王国を破ってこの地を占領した。

9世紀頃、一説ではアジア系遊牧民族に祖を持ち、現在のハンガリー人のルーツとされるマジャール人がロシアのヴォルガ川やウラル山脈周辺からハンガリー大平原に進出。896年に大首長アールパードがマジャール人の諸部族を統一してハンガリー大公国を成立させた(ハンガリーの建国)。955年、西の大国・東フランク王国に大公タクショニュが挑むもオットー1世の前に敗北(レヒフェルトの戦い)。これを機にタクショニュの一族はシャーマニズムに近い自らの宗教を放棄してキリスト教ローマ・カトリックに改宗した。次の大公ゲーザは神聖ローマ皇帝に宣教師の派遣を依頼し、キリスト教の宣教を支援。その子ヴァイクはイシュトヴァーンの洗礼名を与えられ、ゲーザの死後、ハンガリー統一を進めた。1000年には教皇シルウェステル2世からキリスト教を奉じる王国として認められてハンガリー王国が成立し、イシュトヴァーン1世を名乗った。このときシルウェステル2世から与えられた王冠はハンガリーの王権を象徴する聖冠「聖イシュトヴァーンの王冠」と呼ばれ、ハンガリーの地は「聖イシュトヴァーンの王冠の地」と称された。この頃、首都はオーブダに置かれており、対岸の町ペストは経済都市として発達した。イシュトヴァーン1世の依頼でハンガリーの宣教に尽力したのがゲッレールト司教(聖ゲッレールト)で、ドナウ西岸の丘で異教徒に殺害されたことからその地は「ゲッレールトの丘」と呼ばれるようになった。ゲッレールト司教の遺体は東岸に埋葬されたが、その場所に築かれた礼拝堂をルーツとする教会堂がベルヴァロシ教区教会だ。

ハンガリーはアドリア海沿岸部などに進出して勢力を広げ、ヨーロッパ東部の大国にのし上がった。しかし、ハンガリー大平原を中心とする王国の防御は脆弱で、モンゴル帝国が大平原を一気に侵略し、1241年にはバトゥがオーブダとペストを破壊して多くの住民を虐殺した。モンゴル軍が去った後、国王ベーラ4世は復興を開始し、モンゴル軍の再来に備えてオーブダの南、ドナウ川の西岸に「ウーイブダ」と呼ばれる新しい町を建設し、城の丘の山頂に王宮やマーチャーシュ教会を築くと町を城壁で囲って城郭都市とした。これが現在のブダ城地区で、1361年にはハンガリーの首都ブダとなった。同時にハンガリー各地に城塞を建設して防衛網を敷いた。

15世紀半ばにハンガリー王位に就いたマーチャーシュ1世はチェコ西部のボヘミア王を兼ね、オーストリア大公国をも支配して王国の最盛期を築いた。ハンガリーにルネサンス文化をもたらした文化人でもあり、ルネサンスの芸術家や建築家を呼び寄せて芸術を奨励した。一例がコルヴィナ文庫で、バチカン図書館に次ぐほどの写本や書籍を収集した。また、王宮の一部やペストのベルヴァロシ教区教会をルネサンス様式で改修している。

14世紀頃からオスマン帝国がアジアからヨーロッパへ進出し、圧力を高めていた。1396年にはハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ・キリスト教連合軍がニコポリスの戦いで敗北を喫していた。16世紀にオスマン帝国最盛期を築いた皇帝スレイマン1世が本格的なヨーロッパ遠征に着手し、1526年のモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を撃破。1529年にはハプスブルク帝国の帝都でありオーストリア大公国の首都であるウィーン(世界遺産)を包囲した(第1次ウィーン包囲)。その後、ウィーンからは撤退したものの、ブダとペストを含むハンガリー中部と南部はオスマン帝国領ハンガリーとなった。この時代にブダやペストの多くのキリスト教徒がイスラム教に改宗し、モスクやハマム(浴場)をはじめとする数多くのイスラム建築が築かれた。

ラヨシュ2世の死後、嗣子(跡取り)がいなかったことからハプスブルク家がハンガリー王位を引き継いだが、王国は北部と西部に限定されてオスマン帝国領との分裂状態が約1世紀半にわたって続いた。オスマン帝国は1683年の第2次ウィーン包囲に失敗すると、大トルコ戦争(1683~99年)でオーストリア、ポーランド=リトアニア、ロシア、ヴェネツィアといった国々による神聖同盟に敗れ、カルロヴィッツ条約で多くの領土をオーストリアに割譲した。これによりハンガリーのほぼ全域がハンガリー王国に戻ったが、ハプスブルク家の支配を受けていたため独立運動が活発化した。ただ、ハプスブルク家のおかげでドイツ人やセルビア人といったゲルマン系諸民族がブダやペストに移住し、イスラム教文化に代わって近代のキリスト教文化がもたらされた。ブダとペストは発展を続け、両市にはバロック様式や新古典主義様式(ギリシア・ローマ時代のスタイルを復興したクラシック・リバイバル様式)の数々の宮殿や公共施設が築かれた。一例がハンガリー科学アカデミーやセーチェーニ鎖橋、ハンガリー国立博物館だ。

1789年のフランス革命の影響はオーストリアやハンガリーにも波及し、1848年の二月革命では激しい独立運動がハンガリーやボヘミア、ポーランド、イタリアなどに広がった(一八四八年革命)。1867年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はハンガリーの自治を認める代わりにオーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねるものとし(オーストリアとハンガリーの和協=アウスグライヒ)、両国は同君連合(同じ君主を掲げる連合国)となってオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が成立した。1872~73年には別の自治体として発展してきたブダ、オーブダ、ペストが合併し、ブダペストが誕生した。

ハンガリーとブダペストはアウスグライヒ後のこの時代に急速に発展して近代化が進んだ。ドナウ川の河川舟運や鉄道・道路が開発され、ブダペストから各地に路線が敷かれた。折しも1896年にハンガリー建国1,000周年を迎えるということで市内でもさまざまなミレニアム記念事業が企画された。一例が1872年に開発が開始されたアンドラーシ通りで、周辺にブダペスト国立西洋美術館やハンガリー国立歌劇場をはじめ歴史主義様式(中世以降のスタイルを復興した様式)の施設や宮殿が立ち並んだ。その1896年にはロンドン地下鉄に次ぐ世界2番目の地下鉄であり、アンドラーシ通りの下を走るブダペスト地下鉄1号線が開通した。

オーストリア=ハンガリーは第1次世界大戦(1914~18年)に敗れ、ハプスブルク家は両国の王朝を去り、オーストリアは君主を持たない共和政に移行した。ハンガリーでは混乱の後、ハンガリー王国が再興され、第2次世界大戦(1939~45年)では日独伊三国同盟に参加して枢軸国側で参戦した。1944年にソ連軍によるブダペスト包囲を受け、町は戦場と化した。翌年、劣勢を強いられたナチス=ドイツはドナウ川に架かる5本の橋をすべて落とし、西岸の城の丘やゲッレールトの丘から攻撃を行った。結局ナチス=ドイツとハンガリー軍は降伏するが、この戦いで町の約80%が破壊され、ブダ城やハンガリー国会議事堂といった歴史的建造物も大きな被害を受けた。ハンガリーでも戦後の1946年に王政が廃止されてハンガリー共和国が成立。1949年には社会主義を掲げてハンガリー人民共和国となり、1989年にハンガリー共和国に戻って2012年にハンガリーに改名した。その間、ブダペストは一貫して首都でありつづけている。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は2件。「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区」はマルギット島の南に架かるマルギット橋からセーチェーニ鎖橋、エルジェーベト橋を経て、東岸はサバッチャーグ橋(自由橋)まで、西岸はその南のブダペスト工科経済大学辺りまでとなっている。「アンドラーシ通りとその地下」は英雄広場からバイチ=ジリンスキ通りまで伸びるアンドラーシ通りとその周辺で、地下を走るブダペスト地下鉄1号線を含んでいる。

「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区」に含まれるドナウ川西岸の主要建造物として、まず城の丘を占めるブダ城地区が挙げられる。中心はブダ王宮で、ベーラ4世が創設し、ラヨシュ1世がゴシック様式、マーチャーシュ1世がルネサンス様式、カール6世がバロック様式で増改築するなど代々の国王が整備・拡張した。オスマン帝国期やふたつの大戦で大きな被害を受け、城壁や塔・門の一部を除いてほとんど破壊された。戦後、王政が廃されると城壁を修復し、公共施設として新古典主義様式や歴史主義様式で再建された。代表的な建造物として、ゴシックとバロック様式の建物が残るブダペスト歴史博物館、新古典主義様式の国立セーチェーニ図書館やハンガリー国立美術館、大統領官邸として使用されている新古典主義様式のシャンドール宮殿、ネオ・バロック様式で室内劇場のあるブダ宮廷劇場(旧・カルメル会修道院)、オスマン帝国時代の円形要塞ロンデッラ、中世の建設で19~20世紀に改修・修復されたブゾガニ塔とフェルディナント門、彫刻家アラホス・ストロブルの最高傑作と伝わるフニャディ中庭のマーチャーシュ噴水などが挙げられる。

ブダ城地区の王宮外の代表的な建物がマーチャーシュ教会だ。1015年創建の聖母被昇天教会で、モンゴル帝国による破壊を経て1246年にベーラ4世がゴシック様式で再建。15世紀にマーチャーシュ1世が鐘楼を建設し、結婚式を行ったことからマーチャーシュ教会と呼ばれるようになった。オスマン帝国時代はモスクとして使用され、奪還後はバロック様式で修復された。オーストリア=ハンガリー帝国が成立するとハンガリー国王の戴冠式が行われるようになり、建築家シュレク・フリジェシュによってゴシック・リバイバル様式で再建された。ラテン十字式・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の教会堂で、高さ約80mを誇る鐘楼はブダ城地区のランドマークとなっている。マーチャーシュ教会正面の聖三位一体広場にたたずむ聖三位一体像はペストの終息を記念して1713年に建てられたペスト記念柱(ペスト柱)で、彫刻家ホルゲル・アンタルのバロック彫刻で名高い。ハラーズ砦(漁夫の砦)はマーチャーシュ教会の再建とともにミレニアム記念事業の一環として企画されたもので、シュレク・フリジェシュの設計で1895~1902年に建設された。ロマネスク・リバイバル様式やゴシック・リバイバル様式の城壁・稜堡で、パビリオンや階段・回廊・尖塔・聖イシュトヴァーン騎馬像やフランツ・ヨーゼフ1世像などが整備され、ブダペスト随一の人気スポットとなった。マグダラのマリア教会はブダ城地区最古級の教会堂で、13世紀に創建されると15世紀にゴシック様式で再建されて鐘楼が設置され、19世紀に鐘楼の頂部にバロック様式のドームが据えられた。第2次世界大戦で身廊のほとんどを破壊されて鐘楼以外は撤去された。これら以外にもブダ城地区には、バロック様式の旧ブダ市庁舎、17世紀創建でブダペスト初の薬局である金鷲薬局博物館、ロマネスク・リバイバル様式のハンガリー国立公文書館、ブダ城地区の地下に張り巡らされた地下迷宮と防空壕病院(岩病院)、1895年に歴史主義様式で築かれたプロテスタントのルーテル教会、1918年に設立された新古典主義様式の軍事歴史博物館など、多くの歴史的建造物が存在する。

ブダ城地区の南にそびえるゲッレールトの丘の高さ235mの山頂にはツィタデッラがたたずんでいる。独立運動を活発化させるハンガリーに対してオーストリア帝国が1851~54年に軍事拠点として築いたもので、全長220m・幅60m・高さ4mを誇り、60門もの大砲を設置することができた。第2次世界大戦や1956年のハンガリー動乱でナチス=ドイツやソ連軍の基地となり、ここから市内に砲撃が加えられた。ゲッレールトの丘は聖ゲッレールトの殉教地でもあり、ゲッレールト岩窟教会やゲッレールト像が立っている。麓のゲッレールト温泉は中世から温泉として利用されてきた場所で、現在はアール・ヌーヴォー様式のデザインで飾られている。

ドナウ川東岸にたたずむブダペストの象徴がハンガリー国会議事堂だ。オーストリア=ハンガリー帝国が成立して事実上ハンガリーが独立し、ブダペストが成立した後、新しい国会議事堂の建設が決定して1885~1904年に建設された。建築家イムレ・シュタインドルによるゴシック・リバイバル様式の建物だが、中央の長球(楕円を回転させた形)ドームはネオ・バロック様式となっている。全長268m・幅123m、中央ドームの高さ96mで、10の中庭と27の門、691の部屋を持つヨーロッパで2番目に巨大な議事堂だった。現在でも上下両院が入る現役の国会議事堂で、下院にはハンガリーの至宝・聖イシュトヴァーンの王冠や戴冠記章が収められている。隣接のブダペスト民族博物館はもともと1893~96年にイグシャグギ宮殿(正義宮殿)として建設されたもので、ネオ・バロック様式を中心とした折衷主義様式(特定の様式にこだわらず複数の歴史的様式を混在させた19~20世紀の様式)の重厚な建物となっている。1957年以降はハンガリー国立美術館に使用され、1973年以降は民族博物館となった。西ファサード(正面)上の馬車像はセニェイ・カーロリ作の真実の女神像『トリガ』だ。

東岸のハンガリー科学アカデミーは1825年にセーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵がハンガリーの語学や科学の発展を目的に設立し、建築家フリードリヒ・オーギュスト・シュテューラーによってネオ・ルネサンス様式で建設された。一方、ヴィガドーはブダペスト有数の大きさを誇る室内ホールで、最初のホールは1833年に完成したが、独立運動の中でオーストリア帝国に破壊され、1859~65年にフェスジ・フリゲシュの設計で折衷主義様式で再建された。ハンガリー出身の作曲家フランツ・リストが数多くの演奏を行ったことでも知られる。ベルヴァロシ教区教会は1046年に聖ゲッレールトが埋葬されたと伝わる教会堂で、14世紀にジギスムントがゴシック様式で再建し、15世紀にマーチャーシュ1世がルネサンス様式で改修して、18世紀にカール6世がバロック様式で建て替えた。全長118m・幅49mのバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)教会堂で、西ファサードには高さ52mの双頭を頂いている。教会堂の地下や周辺からはコントラ・アクインクム時代の要塞跡が発掘されており、11世紀の墓も発見されている。

橋について、資産には北からマルギット橋、セーチェーニ鎖橋、エルジェーベト橋、サバッチャーグ橋が含まれている。ナチス=ドイツはこれらの橋をすべて落としたが、1964年にまったく新しい形で設計されたエルジェーベト橋以外は、1940年代にできる限り従来の形状と素材を利用して再建された。中でもその美しさで名高いのが全長380mのセーチェーニ鎖橋で、セーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵の支援によって1849年に完成して100年後の1949年に再建された。設計はイギリスの土木技師ウィリアム・ティアニー・クラークで、アイバーと呼ばれる鉄板をつなげて鎖状にしたアイバー・チェーン橋となっている。凱旋門を思わせる重厚な2基の橋脚や、彫刻家マルシャルコ・ヤーノシュによる4体のライオン像も特徴的だ。次に建設されたのが1876年竣工のマルギット橋で、マルギット島で「く」字形に曲がっており、全長607.6mと4本の橋の中で最長を誇る。全長333.6mのサバッチャーグ橋はヤーノシュ・フェケテハージの設計で1896年に開通した橋で、アール・ヌーヴォーの装飾やハンガリー神話の彫像で装飾されており、軽快なデザインで知られる。

「アンドラーシ通りとその地下」のアンドラーシ通りは1876年に開通した比較的新しい道路で、ヴァーロシュリゲット(市民公園)の英雄広場からコダーイ・サークル、オクトゴンを経てバイチ=ジリンスキ通りまで伸びている。この時代の開発でネオ・ルネサンス様式をはじめとする歴史主義様式や折衷主義様式の宮殿や邸宅・公共施設が立ち並ぶ華やかな区画となった。英雄広場の中心に立つのはミレニアム記念碑で、ミレニアム記念事業の一環として1896年に建設がはじまり、1906年に完成した。高さ36mの記念柱の最上段に立つのは「☨」形の二重十字の十字架と聖イシュトヴァーンの王冠を持つ大天使ガブリエルで、周辺にはベーラ4世やマーチャーシュ1世をはじめとする英雄像とコロネード(水平の梁で連結された列柱廊)が立ち並んでいる。英雄広場の北西に立つのはロマネスク・リバイバル様式あるいはネオ・ルネサンス様式のブダペスト国立西洋美術館で、南東は新古典主義様式のブダペスト現代美術館だ。オクトゴンと呼ばれる八角形の交差点の近郊に位置するのがリスト・フェレンツ音楽大学、通称・リスト音楽院だ。オーストリア=ハンガリー時代、ハンガリー文化が奨励される中で音楽院の設立が望まれ、1875年にフランツ・リストを代表に立ててハンガリー王立音楽アカデミーが設立された。もともとアンドラーシ通り沿いの旧音楽アカデミーに入っていたが、1904~07年に歴史主義様式とアール・ヌーヴォー様式が混在した現在の建物が建設されて移転した。1920年代に現在の名称となっている。ハンガリー国立歌劇場はハンガリーを代表するオペラハウスで、イブル・ミクローシュ設計のネオ・ルネサンス様式の建物はハンガリー随一の近代建築と讃えられている。1875~84年に建設された際は王立歌劇場だったが、王政廃止に伴って国立となった。ブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団やハンガリー国立バレエ団の拠点としても有名だ。これら以外では、ネオ・ルネサンス様式のドレクスラー宮殿や 、折衷主義様式のサクスレナー宮殿、当時もっとも華やかな喫茶店といわれたアバツィア・カフェなどがよく知られている。

ブダペスト地下鉄1号線はフランツ・ヨーゼフ1世の支援で1893年に起工し、建国1,000周年を迎えた1896年に開通したヨーロッパ大陸最古の地下鉄だ。そのためハンガリー語では「ミレニアム地下鉄 "Millenniumi Földalatti Vasút"」とも呼ばれている。ヴァーロシュリゲットのアルテジ浴場駅(現・セーチェーニ浴場駅)からギゼラ広場駅(現・ヴェレシュマルティ広場駅)までの3.7kmで、1973年にヴァーロシュリゲットを越えてメキシコイ通り駅まで4.4kmに延伸された。当時は蒸気機関車だったが、まもなく電化された。

■構成資産

○ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区

○アンドラーシ通りと地下

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

古代都市アクインクムはローマ時代の建築様式をパンノニア、ダキア(現在のルーマニア周辺)に広めるうえで重要な役割を果たした。また、ブダ城は14世紀以降のマジャール地方へのゴシック芸術の普及に多大な貢献を行った。ブダはマーチャーシュ1世の時代にはその影響力からクラクフに匹敵する芸術の都となっていた。1872~73年にブダ、オーブダ、ペストが統合してブダペストが成立すると、19世紀後半~20世紀初頭にかけて質の高い建造物が数多く建設されて、ふたたび芸術の中心地に返り咲いた。これはアンドラーシ通りの地下に築かれたヨーロッパ大陸初の地下鉄(ブダペスト地下鉄1号線)をはじめとする近代的な技術開発のみならず、都市化や建築に関するヨーロッパの際立ってすぐれた先進文化を吸収・統合・普及させた結果であり、これらはすべてメトロポリスとしての都市設計に沿って行われたものだった。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ブダ城は隣接の旧市街(ブダ城地区)とともにオスマン帝国占領期で区切られたふたつの重要な時代を伝える歴史的な建築アンサンブルである。ハンガリー国会議事堂はロンドン、ミュンヘン、ウィーン、アテネの国会議事堂と並ぶ19世紀折衷主義様式を代表する建築であり、同時にオーストリア=ハンガリー帝国の第2の首都としての政治的機能を象徴する公共建築の際立った例である。アンドラーシ通り(1872~85年)とブダペスト地下鉄1号線(1893~96年)は拡大する近代社会の需要を満たすための計画・解決策の代表例であり、当時の最先端技術を駆使した施設である。アンドラーシ通りではネオ・ルネサンス様式と折衷主義様式の建物が混在しているが、いずれもきわめて高い完成度を誇っている。

■完全性

2002年に拡大された構成資産は顕著な普遍的価値を含み、その歴史的および構造的な役割を都市プランに保持しており、完全性は満たされている。一部の地域、特にブダ城地区では破損したり失われた建造物が見られるにもかかわらず、あるいは第2次世界大戦後にドナウ河岸のパノラマの中で再建されたにもかかわらず、全体的な完全性は毀損されておらず維持されている。この完全性を強化するためにブダ側の資産範囲を見直し、マルギット島を含め、大通り(Nagykörút)まで保護地区を拡張することが望ましい。アンドラーシ通りと周辺の建造物群について、そのコンセプトや周囲の都市環境との関係、建造物の構造などはオリジナルのまま十分に保存されている。また、通りの街頭設置物のような小さな要素についても保全と適切なデザインに注意が払われている。しかし、建造物の物理的な状態についていくつか問題が持ち上がっている。たとえば木造屋根は湿気のため金属製の構造が腐食していてメンテナンスや修理が必要とされていたり、都心部ではよく見られる問題だが、宮殿や邸宅が住居ではなくオフィスとして使用されることが増えて使用目的や機能が変わりつつある。また、資産内の開発について、取り壊しと新しい建造物の建築の両面で不適切な問題が発生している。さらにその他の課題として、世界遺産に配慮した交通管理や、気候変動による自然・建築環境への影響(ドナウ川の異常水位・大気汚染・石灰岩構造の劣化)に対する緩和措置等が挙げられる。

■真正性

本遺産はその属性と構成要素の総体として、連続した歴史的な時代層によって形成された建築遺産の特徴を保持している。第2次世界大戦後、ブダ城地区の修復と部分的再建は主に1960~80年に行われたが、運用ガイドラインの要件に沿ったものであり、現存する歴史的建造物の真正性は維持されている。ドナウ河岸のパノラマの中で建て替えられた建造物の大半は元の規模を踏襲しており、ハンガリー国会議事堂やハンガリー国立歌劇場、ハンガリー科学アカデミー、市場といった大規模な公共施設は元の機能を引き継いでいる。資産内に位置し、ドナウ川に架かる4本の橋のうち3本は真正性を維持する形で再建された。エルジェーベト橋については20世紀の現代的なデザインとなったが、他の橋と調和しており、真正性を毀損していない。アンドラーシ通りは並木を含む周辺環境とともに、そのコンセプトと構成要素は歴史性を維持している。公共建築の多くは本来の機能を保っているが、歴史的な宮殿や邸宅がオフィスとして使用されるのは好ましくない傾向といえる。改装された地下鉄は都市インフラとして機能的な役割を果たしつづけており、通りの地下鉄駅はオリジナルの特徴を手付かずで伝えている。ただ、ヴァーロシュリゲットにある駅はもともとの地上駅から地下に移設されているため、地下鉄の真正性についてはある程度の妥協が見られる。そしてまた本遺産の真正性が保持されていることの理由のひとつとして、歴史的な都市構造とバッファー・ゾーンに位置する建造物群が適切に保全されている点が挙げられる。

■関連サイト

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