ハンガリー南西部バラニャ県の県都ペーチはローマ時代にソピアネ(ソピアナエ)と呼ばれた都市で、4世紀にはキリスト教宣教の拠点都市となった。当時、町の北には初期キリスト教の広大なネクロポリス(死者の町)が展開し、500以上の墓が発見されている。この中で造形・装飾にすぐれた墓やマウソレウム(廟)・礼拝堂といった16の墓地遺跡が世界遺産となっている。なお、本遺産は2000年に「ペーチ[ソピアネ]の初期キリスト教墓地(Pécs (Sopianae) Early Christian Cemetery)」の名称で世界遺産リストに搭載されたが、2003年に現在の名称に変更された。
この地には紀元前のケルト人の時代から集落があったようで、ローマ人の到達前にイリュリア人(イリュリアはアドリア海東岸地域)なども入植を行っていたようだ。1世紀にハンガリー大平原とその周辺に広がるパンノニアの西部はローマ帝国の属州となり、ペーチにもイタリアからやってきたローマ人やパンノニア西部からの移民が流入して混血が進んだ。
2世紀にケルト語で沼地を意味する "sop" から「ソピアネ」と呼ばれる都市が建設された。ソピアネはパンノニアとイタリアを結ぶ軍事上・交易上の要衝であり、イタリアと北ヨーロッパを貫く琥珀街道の一部であったことから特に4世紀に発展した。パンノニア属州の州都はアクインクム(現・ブダペスト。世界遺産)だが、ソピアネはパンノニア・ヴァレリア地方の主要都市となり、400m四方の市壁に囲まれた城郭都市となった。
ローマ帝国は313年のミラノ勅令でキリスト教を公認すると、380年に国教化し、392年にはキリスト教以外の宗教を禁止した。ソピアネは4世紀中に司教座が置かれた司教都市に昇格したと見られ、キリスト教宣教の拠点のひとつとなった。このとき司教座聖堂として創建されたのがペーチ大聖堂(聖ペトロ=聖パウロ大聖堂)だ。そして大聖堂のある町の北部はキリスト教徒の墓地として開発され、ネクロポリスとなった。
ローマ帝国は395年に東西に分裂して一帯は西ローマ帝国領に入ったが、同帝国は476年に滅亡してしまう。その後、ゲルマン系諸民族や、遊牧民族であるフン人(フン帝国)やアヴァール人、さらにはスラヴ人やフランク王国が進出した。こうした中でもネクロポリスは墓地してありつづけ、時代時代のスタイルを刻むこととなった。
9世紀に入るとハンガリー人の祖とされるマジャール人がロシア方面から進出し、896年には大首長アールパードが諸部族を統一してハンガリー大公国を打ち立てた(ハンガリーの建国)。955年に大公タクショニュがレヒフェルトの戦いで東フランク王国のオットー1世に敗れると、タクショニュの一族はキリスト教ローマ・カトリックに改宗。次の大公ゲーザもキリスト教の宣教を認め、その子ヴァイクはイシュトヴァーンの洗礼名を与えられた。1000年に教皇シルウェステル2世はハンガリー大公国をキリスト教国家として認め、王国に昇格させた。これを受けてヴァイクはハンガリー国王イシュトヴァーン1世を名乗った。
この頃、地域の中心はバラニャヴァールに移っていたが、イシュトヴァーン1世はキリスト教の歴史と壮大な墓地のためか1009年にハンガリー王国の10の司教座のひとつをペーチに置き、キリスト教の中心地として整備した。11世紀にベネディクト会、12世紀にドミニコ会が進出し、1367年には国王ラヨシュ1世がハンガリー初の大学であるペーチ大学を創設して、ペーチは宗教・芸術・科学の都となった。
しかし、16世紀半ばにはイスラム教勢力であるオスマン帝国の版図に入り、住民のほとんどが町を去った。新たにトルコ人やバルカン半島のイスラム教徒が住人となったが、大聖堂を除く多くの教会堂や修道院が破壊され、モスクや要塞の建設のための建材として持ち去られた。
1686年にオスマン帝国の支配が終わり、オーストリア・ハプスブルク家の下で新たに司教座が置かれ、キリスト教都市として再興された。主要な宗教建築や公共建築・有力者の邸宅がバロック様式で建設され、新たな町並みが誕生した。ペーチは19世紀に経済都市として発展し、多くの華麗な建築物が築かれた。新古典主義様式、歴史主義様式、アール・ヌーヴォーといったさまざまなスタイルの建物が混在する中で、ペーチ大聖堂も1882~91年にロマネスク・リバイバル様式(ネオ・ロマネスク様式)で再建された。
18~20世紀にかけて大聖堂の周辺を中心に500を超える地下墓地遺跡や、マウソレウムや礼拝堂の遺構が発見された。初期キリスト教時代のネクロポリスの遺跡で、いまだ相当数が地下に眠っていると見られている。
世界遺産の資産は地域で登録された1件で、ペーチ大聖堂や司教館、聖イシュトヴァーン広場を含んだ地域となっている。ただし、それらの建造物や広場自体は資産を構成しておらず、16の墓地遺跡の地表および地下の遺構を登録したものとなっている。墓地遺跡の特徴は地上にマウソレウムを兼ねた礼拝堂、地下に埋葬室を持つ2層構造で、埋葬室はキリスト教関連の物語や人物・象徴・草花文様・幾何学文様などで装飾されていることが多い。
「埋葬室1:ペトロ=パウロの埋葬室」は1782年に発見された4世紀後半の墓地遺跡で、地上の礼拝堂と玄関ホールを持つ地下埋葬室の2層構造となっている。北壁に描かれたペトロ、パウロというふたりのイエスの使徒の姿にちなんでペトロ=パウロの埋葬室とも呼ばれている。他にも『旧約聖書』のアダムとイブや、預言者であるヨナ、ダニエル、ノア、『新約聖書』の聖母子像などの壁画が見られ、アーチ天井には花やクジャクの装飾が配され、部屋の隅には埋葬された人々の半身像がメダルに刻まれている。
「埋葬室2:ワイン・ピッチャーの埋葬室」も1939年に発見された礼拝堂-地下埋葬室の2層構造の墓地遺跡で、4世紀のものと見られる。壁面は石灰岩で覆われ、天井はレンガでアーチを架けており、これらを漆喰で固めて乾燥させた後、壁画が描かれた(フレスコ・セッコ。他の墓も同様)。石棺の上の壁面にはワイン・ピッチャーとグラスが描かれており、死後の魂の旅と渇きを示しているとされる。花やストライプといった植物文様や幾何学文様が多く見られる反面、人物像はほとんど見られない。
「埋葬室3、4、5」は1913年に埋葬室1の修復中に発見された地下埋葬室で、埋葬室1と回廊で結ばれている。これら3室のいずれにも壁画は見られない。埋葬室3はアーチ天井を持ち、もともと礼拝堂だったと考えられている。埋葬室5(八角形埋葬室)は八角形というペーチではほぼ唯一の形状を取っており、石棺が非常に小さいことでも知られる。
「埋葬室6」は1922年に排水工事中に発見された地下埋葬室で、装飾のない部屋の一部のみが確認されている。
「埋葬室7」は地下深くに位置する埋葬室で、こちらも装飾のない壁面の一部のみ確認されている。9~10世紀に発見されて埋め戻された可能性が指摘されている。埋葬室6~7はアクセスが難しく、非公開となっている。
「埋葬室8、9」は1940年に発見された地下埋葬室で、装飾のない漆喰の壁面が見られる。
「チェッラ・トリショーラ(三葉式礼拝堂)」は1922年と1955年の調査で発掘された礼拝堂で、クローバーの葉のような3葉のアプス(後陣)を東・西・北に持ち、開いた南には長方形のナルテックス(拝廊)が配されている。床はレンガの断片が混ざった石灰岩製で、壁は最大で高さ1.3mまで残されている。アプスの壁は4世紀に赤や黒で塗装され、11世紀に再塗装されたことがわかっている。
「チェッラ・セプティコーラ(七葉式礼拝堂)」は1938~39年に発掘された礼拝堂で、およそ22.5×17.5mとペーチの墓地遺跡で最大級の礼拝堂となっている。南と北に3葉ずつ、東に1葉、計7葉のアプスを持つユニークな平面プランで、西にナルテックスを有している。地下埋葬室は発見されておらず、もともと礼拝堂として築かれたようだ。4~5世紀の建設で、430年頃に建設が中止されたと見られている。
「初期キリスト教マウソレウム」は1975年に聖イシュトヴァーン広場の工事中に発見された4世紀後半の墓地遺跡だ。地上の遺構は東にアプスを持つバシリカ(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の教会堂)で、この部分がマウソレウムを兼ねた礼拝堂となっている。地下はペーチでも最大級を誇る埋葬室で、5つの石棺が置かれている。壁面にはアダムとイブや預言者ダニエル、生命の木、XとPを組み合わせたイエスの象徴キーロー(ラバルム)などが描かれており、アーチ天井も草花文様などで装飾されている。
「初期キリスト教埋葬礼拝堂」はもともと4世紀に築かれた埋葬室で、390年頃にアプスや祭壇が整備されて礼拝堂として再建されたものと見られる。石棺などは見つかっていない。この礼拝堂の周囲には4世紀後半~5世紀初頭にかけて築かれた100以上の墓地遺跡が集中している。
「彩色されたツイン墓所」はふたつの地下埋葬室が対になっている墓地遺跡で、壁面には白・赤・黄でキリスト教のシンボルが描かれている。地上の礼拝堂は発見されていない。
「彩色されていない埋葬室」は樽形のアーチ天井を持つ地下埋葬室で、こちらも礼拝堂の遺構や壁画は発見されていない。
「共同埋葬室」はヴォールト天井を持つ9.44×5.40mの大きな半地下埋葬室で、一族のものと見られる14の石棺が収められている。
本遺産は登録基準(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていたが、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)はその価値を評価しなかった。
ソピアネの墓地遺跡の埋葬室と記念礼拝堂はローマ帝国末期のキリスト教共同体の堅固さと信仰を示す稀有な証拠である。
ペーチのソピアネの墓地遺跡では西ローマと北ローマの独創的な初期キリスト教の葬祭美術と建築がきわめてすぐれた形で完全に表現されている。
資産にはソピアネの初期キリスト教ネクロポリスの一部である16のモニュメントが含まれている。これらは現在も進行中の考古学的発掘調査によって明らかにされたものであり、今後の調査の結果、資産の境界線は変更される可能性がある。現存する資産の要素について、現在はすべて地表レベル以下に位置しているが、現行の生活都市を含む後続の都市層が資産の上に堆積している事実を考慮すると、遺跡は手付かずで引き継がれており、その歴史的な相互関係を可能な限り維持しているといえる。
18世紀以降に発掘された埋葬室、記念礼拝堂、その他の墓地遺跡や断片は科学的調査と修復においてその当時使用可能な、あるいは現在使用可能な最善の技術的解決策を駆使して本来の場所に保存されている。遺跡を保存・表現するために必要な現代的な介入は元の構造と明確に区別されており、真正性は保持されている。