ホローケーの古村落とその周辺地区

Old Village of Hollókő and its Surroundings

  • ハンガリー
  • 登録年:1987年
  • 登録基準:文化遺産(v)
  • 資産面積:144.5ha
世界遺産「ホローケーの古村落とその周辺地区」、コシュート通りの家並み。奥はホローケー・カトリック教会
世界遺産「ホローケーの古村落とその周辺地区」、コシュート通りの家並み。奥はホローケー・カトリック教会
世界遺産「ホローケーの古村落とその周辺地区」、ホローケー・カトリック教会、手前は3階建ての鐘楼
世界遺産「ホローケーの古村落とその周辺地区」、ホローケー・カトリック教会、手前は3階建ての鐘楼。教会の左がコシュート通り、右がペテフィ通り
世界遺産「ホローケーの古村落とその周辺地区」、パローツ様式の伝統家屋群
世界遺産「ホローケーの古村落とその周辺地区」、パローツ様式の伝統家屋群。石の基礎の上にレンガ造の白壁が立ち、屋根は入母屋造で、建物をポーチが取り囲んでいる (C) Palickap
世界遺産「ホローケーの古村落とその周辺地区」、ホローケー城
世界遺産「ホローケーの古村落とその周辺地区」、ホローケー城。ホローケーの村と城、周囲の自然はホローケー景観保護区として保護されている

■世界遺産概要

ホローケーはスロバキア国境に近いハンガリー北部ノーグラード県の古村落で、ほぼ一本道の旧市街と伝統家屋、ホローケー城、周辺の畑や果樹園・牧草地・森林と関連の施設が登録されている。ハンガリーを含む中央ヨーロッパの農村は20世紀の農業改革で大きな変貌を遂げたが、ホローケーではパローツ人の文化を引き継ぐ17~18世紀の農村がほぼ手付かずで残されており、昔ながらの家族農業が営まれている。

○資産の歴史

ホローケーの歴史はモンゴル帝国が襲来した13世紀までさかのぼる。モンゴル帝国はハンガリー王国が支配するハンガリー大平原を一気に蹂躙し、1241年に首都オーブダやペスト(現・ブダペスト。世界遺産)を破壊した。モンゴル軍が去った後、国王ベーラ4世は復興を開始し、大平原の各地に城や砦を築いて防衛網を敷いた。そのひとつが「カラス(ホッロー)の石(ケー)」を意味するホローケー城で、一帯を治めるカチッチ家が城を管理した。ホローケー城に関する最古の記録は1310年にさかのぼり、1342年にはパンノニア(ハンガリー、スロバキア、オーストリア、バルカン半島北部に広がる一帯)出身のローマ軍人でトゥールの司教となった聖マルティヌスに捧げられたローマ・カトリックの教会堂が立っていたという。

伝説によると、隣村の美女をさらって城に幽閉した城主に対し、彼女の乳母である魔女は悪魔と取引を行って息子たちをカラスに変身させ、城の石をくわえて持ち去らせたという。これにより城は倒壊して女性を救い出し、持ち出した石で新しい城=ホローケー城を建設して一帯を治めたという(異説あり)。このホローケー城の城下町として発達したのがホローケー村だ。

16世紀にオスマン帝国の皇帝スレイマン1世がハンガリーに進出し、1526年のモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を撃破。ハンガリー中部と南部はオスマン帝国領ハンガリーとなり、ホローケー一帯も1551~52年に版図に収められた。オスマン帝国時代、城は重要性を失って荒廃し、17世紀後半には城と村は完全に放棄された。オスマン帝国は1683~99年の大トルコ戦争に敗れるとカルロヴィッツ条約でヨーロッパの多くの領土をオーストリアに割譲し、オスマン帝国領ハンガリーも消滅した。ホローケーの一帯も1683年頃に開放され、ふたたびハンガリー王国の下に入った。1711年に廃城令が出されたが、ホローケー城はすでにほとんど倒壊していたため一部の壁や橋の取り壊しに留まり、完全な撤去を免れた。

18世紀初頭から村の再興がはじまり、城跡の北東の一本道(コシュート通り)にパローツ人の伝統家屋が立ち並び、周辺に菜園や果樹園・ブドウ園が築かれた。パローツ人はマジャール人とともにハンガリー人の祖とされる民族で、ウクライナ方面からやってきたテュルク系(トルコ系)の民族と考えられている。1782年には一本道の東に第2の通りが築かれて村は拡大した。1783年に火災を防ぐために木造建築を禁止する法令が出されたが、人々は伝統建築を重んじて従うことはなかった。1885年に現在と同程度に発達したところで耕作地に適した土地がほぼなくなり、村の成長は止まった。現在もこの頃のレイアウトを引き継いでいる。

1909年の大火で多くの伝統家屋が焼失した。ホローケーの人々は村の再建に当たって石の基礎やレンガの壁を採用しつつも伝統的な木造構造を残し、木造屋根を架けて伝統建築を維持した。

第2次世界大戦後、社会主義国家であるハンガリー人民共和国(1949~89年)は土地改革や農業改革を推し進めて協同組合方式の大規模集団農場を奨励した。工業も同様で、労働者の都市への移転が進んで多くの農村が荒廃した。そんな中でもホローケーは農村としてありつづけ、パローツ様式の歴史的な街並みが保持された。1960年代に文化財に指定され、1977年にはホローケー景観保護区が設置されて村や城跡は周辺環境とともに保護対象となった。現在はビュック国立公園の管理下で保護されている。

○資産の内容

世界遺産の資産の中心はコシュート通り西部の古村落の一帯で、コシュート通りから分岐してコシュート通りに戻る三日月状のペテフィ通りや、両通り沿いの伝統家屋群、周囲の菜園・果樹園・ブドウ園・牧草地、納屋や畜舎などの施設、森林、ホローケー城などが含まれている。

コシュート通りとペテフィ通りには55棟の伝統家屋があり、個別に保護対象となっている。パローツ様式の木造建築を引き継ぐもので、木の柱と梁でフレームを作りつつ(柱梁構造)、柱と柱の間にアドベ(泥にワラを混ぜて作った日干しレンガ)を積み上げて壁を築く(壁構造)形で、ハーフティンバー(半木骨造)となっている。屋根は4つの面を持つ寄棟屋根の上に「∧」形の切妻屋根を合わせた入母屋造で、木片を並べた杮葺き(こけらぶき)で煙突を備えている。石の基礎の上に立つ壁は石灰で白く塗られており、柱が建物を取り囲む周柱式のようなポーチを持つ家屋が多い。全体は日本の長屋のように長方形の細長い造りで、狭い妻側を通りに向けている。屋内にはキッチンやリビング、2~3の部屋があって1~2世帯が暮らしており、家族が増えると奥に別棟が築かれた。中庭には納屋や倉庫が設けられており、菜園や果樹園の周囲にも納屋や畜舎を備えていた。

現在、こうした伝統家屋に住んでいない家族もいるが、そうした家族は新市街に住みつつメンテナンスを行っている。また、いくつかは博物館として開放されており、機織りや民族衣装・刺繍・アクセサリー・人形・陶磁器・ロウソクの制作や展示、革の加工といった伝統工芸のワークショップが開かれている。特にパローツの民族衣装は美しく、普段は青染めのシンプルな衣装ながら、結婚や出産・キリスト教の祝祭日などの祭事では幾重にも重なるスカートや、刺繍やフリンジ(糸や紐を垂らした房飾り)で彩られたエプロンやスカーフで着飾っている。

特徴的な建物としてホローケー・カトリック教会(聖マルティヌス教会)が挙げられる。聖マルティヌスに捧げられたホローケー教区教会は1342年以前の創建と伝わるが、現在の建物は1889年に築かれた。白壁と黒屋根のツートンを特徴とするバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)の教会堂で、東ファサード(正面)中央には3階建ての鐘楼が設置されている。ホローケー村博物館はもともと1867年に住居として建てられたもので、1909年の火災で焼失して再建され、1964年から博物館として公開されている。

ホローケー城はチェルハート山脈の標高約400mの峰にたたずんでおり、北東に村を見下ろしている。13世紀末の創建で、15~16世紀の改修を経て17世紀後半に放棄された。土地の形に合わせて不規則な形状となっており、五角形の塔を中心としている。上部構造は一部の城壁を除いてほとんど残っていないが、下部や地下はよく保存されている。

■構成資産

○ホローケーの古村落とその周辺地区

■顕著な普遍的価値

○登録基準(v)=伝統集落や環境利用の顕著な例

ホローケーの古村落は不可逆的な変化を受けて失われつつあるパローツの文化を代表するものであり、計画的に保存された伝統集落の際立った例である。主に18~19世紀に発展したこの村落はハンガリーにおけるパローツ人の一グループを代表するものであるのみならず、中央ヨーロッパ全域において20世紀の農業改革で消滅した伝統的な農村生活の形態を伝える証拠となっている。

■完全性

計画的に保存された伝統集落、関連する農地、これらを特徴付けるより広い景観や自然環境など、資産は村とその周辺の景観のもっとも重要な場所と要素を含んでいる。伝統集落とその景観環境は帯状に区画された農場や雑木林といった土地活用によって形作られており、パノラマ景観を構成し特徴付ける城跡とともに、視覚的に調和の取れた手付かずの資産を形成している。

■真正性

18~19世紀を中心に発展し、20世紀初頭の壊滅的な火災の後、歴史的に一貫性のある形で再建されたこの村落は、それを特徴付ける資産の要素や伝統を保持している。たとえば地域やパローツの建築の伝統技術や、地元で使われている素材や本来の形状(特徴的なポーチを持ち、複数世代が共同で暮らすのに適した細長い形状や、地形的条件に合わせた地下貯蔵室の形状など)、一本道を中心に展開する村の歴史的構造などが失われることなく引き継がれている。1983年に策定された景観保護区プロジェクトの枠組みの中で、伝統的な家族農業に関連した古い土地利用システムの特徴である帯状の区画が回復された。歴史的な真正性に注意を払いつつ、これにより菜園や果樹園・ブドウ園が復活し、森林環境においても生態系のバランスが改善された。このようにホローケーは伝統的な活動が失われた博物館のような村落ではなく、農業活動を含めて保全された生きているコミュニティであるといえる。今日このコミュニティでは人々の大半が新しい村に居住しているが、古村落と文化財である家々を保護・保全している。そしてこうした活動がコミュニティとしての空間を確保し、宗教的な生活を営ませ、仕事の機会を与え、自らの伝統を守り発信することを可能にしている。ただ、農業活動の変化や共同生産エリアの再崩壊による悪影響、村落の深刻な人口減少と古村落の住民の移住、外部からの商業に関する開発圧力など、真正性の条件を維持するためにさまざまな課題が存在する。真正性を満たしつづけるためにこれらの脅威は継続的な管理措置の実施を通して適切に対処される必要がある。

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