フランス北部オー=ド=フランス地域圏のソンム県アミアンに位置する大聖堂で、正式名称を「アミアンのノートル=ダム大聖堂 "Cathédrale Notre-Dame d'Amiens"」といい、ノートル=ダム(我らの貴婦人)の名の通り聖母マリアに捧げられている。13世紀のゴシック様式がほとんど手付かずで伝わるフランスでもっとも高くもっとも大きなゴシック建築のひとつであり、芸術性のきわめて高いゴシック様式の彫刻やステンドグラス、トレーサリー(窓の骨組状の飾り)で覆われている。
なお、本遺産は2013年の軽微な変更でバッファー・ゾーンが設定された。
また、アミアン大聖堂はフランスの世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の構成資産のひとつでもある。
伝説によると3世紀末あるいは4世紀はじめに聖フィルマンがアミアンの地を訪れて宣教を行い、4世紀半ばにはエウロギウスが司教に任命されたされる。またこの頃、トゥールのマルティヌス(聖マルティヌス)がアミアンを訪れ、城門で物乞いに出会って自らの外套をふたつに切り裂いて片方を手渡したという。この物乞いこそイエスの化身であり、これをきっかけにアミアンで洗礼を受けたと伝わっている。
この時代には現在のアミアン大聖堂の場所に教会堂が立っており、その後も何度か大聖堂が再建されたが、9世紀にヴァイキング(北ヨーロッパを拠点とするノルマン人)の襲来で破壊され、1137年には大火で焼失した。1137~52年にロマネスク様式の大聖堂が建設され、1206年に第4回十字軍でコンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)から持ち込まれたという洗礼者ヨハネ(イエスに洗礼を授けた人物)の頭蓋骨が聖遺物として収められると、アミアン大聖堂は各地の王族や貴族も訪れるフランス北部屈指の巡礼地となった。1218年に大聖堂が落雷で焼失すると、巡礼地にふさわしい堂々たる大聖堂の建設が望まれた。アミアンはヨーロッパ最大の毛織産地であるフランドル地方に近く染色業で繁栄していたが、特に12~13世紀にアイから作られる青色染料が開発されてヒットしたこともあって経済的に大きく飛躍した。また、フランス王国をヨーロッパ最強の国家のひとつに引き上げたフィリップ2世の時代でもあったことから巨大な大聖堂は時代の要請でもあった。
司教のエヴラール・ド・ワイヨワは各所から資金提供を受けると、1220年に前代未聞の規模を誇るゴシック様式の大聖堂の建設を開始する。主任建築家はロベール・ド・リュザルシュで、後に弟子であるトーマ・ド・コルモンとその息子ルノー・ド・コルモンに引き継がれた。建設は通常の反対に西から東、身廊からアプス(後陣)へと進められ、構造部分は1228年に完成して使用が開始された。工事はその後も続き、身廊は1230年代、クワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)は1260年代、トランセプト(ラテン十字形の短軸部分)は1280年代にようやく完成した。1292~1375年にかけて側廊外側に11の礼拝堂群が設置され、1366年に鐘楼の南塔、1402年に北塔が完成した。大聖堂の規模は全長145m・幅70m、南塔は高さ61m、北塔は66m、身廊の高さ42.3mと驚くべきもので、当時フランス最大にして最高を誇り、約800年を経た現在でも内部空間の大きさでは最大を維持している。加えて大聖堂は建物を「石の書物」として整備することが計画され、『旧約聖書』や『新約聖書』、使徒や聖人らの物語を彫刻やレリーフ、ステンドグラスに刻み、宗教的にも芸術的にもきわめて価値の高いものとなった。
その後、大聖堂の高さが原因となり、天井の重さを支えきれず柱が損傷し、倒壊する危険があることが確認された。そこで建築家ピエール・タリルは1497~1503年に柱の修復を行い、横方向のスラスト(水平力)に対抗するためにフライング・バットレス(飛び梁)を追加。さらに、焼いた鉄の鎖でトランセプトや身廊を囲い、冷却することで壁と柱を引き締めて補強した。この鎖は現在も残されている。
1528年にはトランセプトと身廊の交差部に建てられたフレッシュ(屋根に設置されたゴシック様式の尖塔。スパイアの一種)が落雷で焼失し、木材に鉛メッキを施した高さ112.7mを誇る現在のフレッシュに置き換えられた。また、16世紀に西ファサード(正面)のバラ窓に炎のような装飾を施したフランボアイヤン様式(火焔式)のトレーサリーが設置され、他のバラ窓や礼拝堂の一部などにもフランボアイヤン様式が採用された。
アミアンでは1388年にピュイ・ノートル=ダムのコンフレリー(同胞団/兄弟団)と呼ばれるコンフレリーが結成され、芸術や文化といった面でキリスト教文化の高揚を図った。アミアン大聖堂を多数の絵画や彫刻で飾り、トランセプトにノートル=ダム・デュ・ピュイ礼拝堂を設置し、彫刻やレリーフが刻まれた美しい説教壇や主祭壇テーブル、礼拝堂フェンスなどを寄贈した。ルネサンス様式を中心とした華やかな芸術作品群はこのコンフレリーによるところが大きい。コンフレリーの活動は17世紀後半に衰退し、1789年のフランス革命で消滅した。
宗教改革期、1545~63年のトリエント公会議でローマ・カトリックの改革(対抗宗教改革/反宗教改革)が進められたが、アミアン大聖堂はそれまでの教義や慣習を引き継いで積極的な対応はなされなかった。18世紀になってようやく対応が図られ、その一環としてクワイヤ・スクリーン(内陣と外陣を分ける聖障。ルード・スクリーン/チャンセル・スクリーン)や主祭壇、礼拝堂などがバロック様式で一新された。
1789年にはじまるフランス革命ではアンシャン・レジーム(旧体制)に属する教会に対しても反乱が起き、多くの大聖堂が被害を受けた。アミアン大聖堂でも絵画が持ち去られ、彫像が破壊されるなどしたが、建物は小さな損傷に留まった。ジャコバン独裁期には「理性の崇拝」と呼ばれる非キリスト教化運動が起こり、1793年に無宗教の「理性の神殿」となったが、1795年にはローマ・カトリックに戻された。
19世紀に入って建築家エティエンヌ=イポリート・ゴッドやフランソワ=オーギュスト・シュセイ、彫刻家テオフィル・コードロンやエメとルイスのデュトワ兄弟らによって修復作業が開始され、1849年にはモニュメント修復の第一人者であるウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクによって中世のスタイルでの復元が進められた。ヴィオレ=ル=デュクは雨樋のガーゴイルの追加など本来の姿を重視しつつも、双塔の間のソヌール(音楽家、鐘突き係)のギャラリーをはじめ新たな要素を加えたため、その成果については賛否がある。ヴィオレ=ル=デュクはまたアクシアル礼拝堂をはじめ一部をバロック様式で改装した。
アミアンは第1次世界大戦(1914~18年)で特に1915年や1918年(アミアンの戦い)にドイツ帝国による激しい砲撃にさらされ、大聖堂も何発か被弾した。第2次世界大戦(1939~45年)では1940年にナチス=ドイツが町を破壊して壊滅的な被害を出し、1944年にも連合国の空爆を受けた。しかし、町でもっとも目立つ建物だった大聖堂の被害は奇跡的にも最小限に留まった
世界遺産の資産としてアミアン大聖堂と南東に隣接するマキャビー礼拝堂や北東に位置するカテシスム礼拝堂が登録されている。
アミアン大聖堂は「†」形のラテン十字式・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)のゴシック様式の教会堂で、全長145m・幅70mという規模を誇る。十字の交差部にそびえる八角形のゴシック尖塔=フレッシュは高さ112.7mで、アミアンでもっとも高い建築物となっている。教会堂の顔となる西ファサードには鐘楼の双塔がそびえており、ゴシックの中でもレイヨナン様式の南塔は高さ61m、フランボアイヤン様式の北塔は66mを誇る。レイヨナン様式とフランボアイヤン様式は特にトレーサリーに特徴があり、いずれも細く華麗で装飾的な骨組を持ち、特に後者は炎のような激しい曲線で構成されていることから火焔式とも訳されている。直径11mのバラ窓は13世紀に盛期ゴシック様式で建設され、16世紀にフランボアイヤン様式で改装された。その下の王のギャラリーには古代イスラエルの22人の国王の彫像が並んでいる。圧巻は3つのポータル(玄関)で、それぞれのドアの横の柱や上のリンテル(まぐさ石。柱と柱、壁と壁の間に水平に渡した石)、ティンパヌム(タンパン。門の上の彫刻装飾)、アーキヴォールト(アーチ部分の迫縁装飾)はイエスやマリア、天使や使徒・聖人、悪魔や怪物を象ったガーゴイル(雨樋)やグロテスク(雨樋機能のない彫刻。キメラ/キマイラとも)をはじめとするおびただしい数の彫刻で覆われている。もっとも大きな中央ポータルのティンパヌムのテーマは「最後の審判」で、世界の終末で復活した人々の魂がイエスによって裁かれる様子が描き出されている。なお、北ポータルは聖フィルマン、南ポータルは聖母マリアに捧げられており、それぞれの生涯が刻まれている。
南と北ファサードにもバラ窓があり、南ファサードのバラ窓は16世紀のフランボアイヤン様式、北ファサードのバラ窓は13~14世紀のレイヨナン様式となっている。両ファサードとも1基のポータルを有するが、特に南ファサードのポータルは「黄金聖母のポータル」とも呼ばれ、マリアや使徒の彫像が立ち並んでいる。こうした装飾はフレッシュも同様で、木造・八角形のフレッシュの各所にイエスやマリア、使徒や聖者、ガーゴイルやグロテスクの彫像が飾られている。
身廊の外観で特徴的なのはフライング・バットレスだ。身廊やクワイヤ、アプスの上部を支える肋骨のような飛び梁で、ファサードを除いて全体がフライング・バットレスで囲われている。柱や壁に掛かる横方向の力(スラスト)を支えるもので、身廊は上下2重、クワイヤやアプスはひとつだが厚いフライング・バットレスが用いられている。また、フライング・バットレスを支える柱やバットレスにはガーゴイルやグロテスクが見られ、頂部にはピナクル(小尖塔)が設置されている。このフライング・バットレス、ピナクル、ガーゴイル、グロテスクがトゲトゲしい印象を際立たせている。
内部について、身廊の高さは42.3mときわめて高く、下から尖頭アーチが連なる大アーケード、柱廊装飾の付いたトリフォリウム、高窓が連なるクリアストーリーというゴシック様式の3層構造がハッキリとしている。バラ窓の手前には16~17世紀の巨大なパイプオルガンが設置されており、ゴシック様式の装飾で彩られている。身廊の床には「アミアン・ラビリンス」と呼ばれる八角形の迷路状の図形が描かれており、一本道をたどると十字架と天使、エヴラール・ド・ワイヨワ司教と3人の建築家が描かれた中心石に到達する。この一本道自体が全長234mの巡礼路となっている。また、身廊入口の左右には13世紀のふたりの司教、エヴラール・ド・ワイヨワとジョフロア・ドゥーの墓があり、本人の姿を象ったブロンズの棺が収められている。身廊に備えられた真実の説教壇は18世紀に設置されたバロック様式の説教壇で、信仰・希望・慈愛という3つの美徳を擬人化した見事な彫像で支えられている。
側廊の外側にはサン=フィルマン、ノートル=ダム=ドゥ=ラ=ペ、サン=オノレ、サン=ソーヴェ、ノートル=ダム=ドゥ=ボン=スクール、ソーヴェール、サン=クリストフ、ノートル=ダム=ドゥ=フォイ、ラソンプシオン、サンテティエンヌ、サント=マルグリットという11の礼拝堂があり、それぞれの聖人(「サン=○○」は「聖○○」を意味する)に関する見事な彫刻や絵画、ステンドグラスで装飾されている。また、トランセプトの周辺にはサン=ジャン=デュ=ヴー、サン=セバスティアン、ノートル=ダム・デュ・ピュイ、サン=ピエール=エ=ポ-ルといった礼拝堂があり、やはり華麗に飾られている。
内陣であるクワイヤはかつてゴシック彫刻で覆われたクワイヤ・スクリーンで仕切られていたが、18世紀にバロック様式の華やかな鉄製フェンスに取り替えられた。ただ、サイドに16世紀ゴシック様式のクワイヤ・スクリーンが残されており、聖フィルマンや洗礼者ヨハネの物語を記した見事な彫刻を見ることができる。名高いのは16世紀はじめに設置された聖職者席で、ルネサンス様式の影響を受けたゴシック様式の彫刻やレリーフ・各種文様で装飾された110ほどの木製の座席が並んでおり、アダムの創造をはじめ『旧約聖書』や『新約聖書』、さまざまな聖人たちの物語が刻まれている。
アプスの至聖所に掲げられたバロック様式の主祭壇は18世紀に建築家ピエール=ジョゼフ・クリストフルによって設計されたもので、「グロワール(栄光)」と呼ばれる神を示す黄金の光背の周囲に彫刻家ジャン=バティスト・デュピュイによる天使や使徒・聖母子像、聖霊の象徴であるハト像などが配されている。アプス上部のステンドグラスは13世紀のきわめて貴重な作品で、イエスやマリア、天使や使徒、聖人らが美しい装飾とともに描き出されている。アプスの周歩廊の半円部分に並ぶ放射状祭室には、ノートル=ダム=ドゥ=ピティエ、サン=カンタン、サン=ジャン=バティスト、サント=テドゥーシー、アクシアル(ノートル=ダム=ドラピエ)、サクレ=クール、サン=フランソワ・ダッシース、サン=テロワ、サン=ジョゼフの礼拝堂が配されており、こちらもそれぞれの聖人やテーマに沿った彫刻やレリーフ、ステンドグラスで飾られている。
大聖堂の南東に隣接するマキャビー礼拝堂は14世紀に建設されたゴシック様式の建物で、会議などを行うチャプター・ハウスとして使用されていたが、後に聖具室や宝物庫・礼拝堂として整備された。大聖堂の北東に位置するカテシスム礼拝堂は19世紀にヴィオレ=ル=デュクによって建てられたゴシック・リバイバル様式の礼拝堂だ。
主に1220~88年にかけて建設されたアミアン大聖堂は内部構造の高さや美しさ、彫刻装飾とステンドグラスのすばらしさといった要素からゴシック建築の傑作であるといえる。
アミアン大聖堂はその後のゴシック建築の発展に重要な影響を及ぼした。大聖堂に残るいくつかの技術は記念碑的な建築と彫刻においてフランボアイヤン様式の到来を予告するものであった。
アミアン大聖堂は何世紀にもわたってその建築的表現と文化的機能を維持しており、顕著な普遍的価値を示す要素は驚異的であるほど手付かずで伝えられている。すべての主要な建築要素は資産内に収まっており、良好な保存状態にある。
アミアン大聖堂は13世紀のゴシック様式を明確に示しており、すぐれた真正性を保っている。その後、数世紀にわたって発展したが、その特徴は変化することなく伝えられている。大聖堂は1292年から1375年にかけて側廊のバットレスの間に築かれた一連の礼拝堂群によってより豊かなものとなった。中世の終わりにはトランセプトの交差廊上部に建てられたフレッシュやクワイヤ・スクリーン、木彫り彫刻で装飾された見事な聖職者席によって、大聖堂は今日知られているような特徴を有するに至った。
ルネサンス期と18世紀に行われた小規模な修復工事によって特に内装が豊かになり、建物も堅固になった。宗教改革とフランス革命というふたつの破壊行為を免れ、実質的な被害は皆無に等しかった。19世紀にはウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクの修復を受け、クワイヤが開放され、ファサード上部の「ソヌールのギャラリー」だけが大きく修復され、様式と外観が変更された。
また、この建物はふたつの世界大戦の間、ほとんど被害を受けることがなかった。